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ホルショフスキ・トリオ ピアノ三重奏の核心

相沢吏江子(ピアノ)インタビュー【前編】

渡辺 和(音楽ライター)

相沢吏江子(ピアノ)

伝説的ピアニスト ミェチスワフ・ホルショフスキの音楽と人間性に深く心を動かされて結成されたホルショフスキ・トリオがついにCMGに初登場!
結成15周年を迎え、ニューヨークを拠点に世界で注目を集めるピアノ三重奏団のピアニストとして活躍する相沢吏江子さんに、たっぷりと話を伺いました。
前編では、巨匠ミェチスラフ・ホルショフスキとの奇跡的な出会いや、14歳で渡米し受け継いだ音楽の真髄、そして室内楽の原点となったマールボロ音楽祭での体験など、世界を舞台に活躍する現在の礎となった音楽的ルーツを紐解きます。

相沢吏江子(ピアノ)

◆伝説的ピアニスト ミェチスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)に学んだもの

――ホルショフスキやマールボロ音楽祭との関わりは?
 出身は神戸で、引っ越してからは14歳まで東京でした。中学1年の頃に東京にカザルスホールができて、そのときのオープニングシリーズで、カザルスと親交のあったアーティストとして最初のコンサートで演奏されたのが、ホルショスキさんでした。で、私はその演奏会に伺うことができたんですよ。当時習っていた先生が、内田光子さんとお友達で、内田さんが「もうこんな機会はないからぜひ聴くべきだ」って、私も連れていってくださったんです。ですから、そのときにホルショフスキというピアニストの存在を知ることができました。もちろん演奏も素晴らしく、いろいろな意味で強烈に思い出に残る演奏会でした。
 そのオープニングシリーズの一環としてカザルスホールに呼ばれていたもう一人が、アレクサンダー・シュナイダーさんでした。彼が自分のオーケストラを連れて日本に来るにあたって、日本の若い人とコンチェルトを共演したいという希望を出されていました。そのときのカザルスホールのアドバイザーが内田光子さんで、私は一度、内田さんに演奏を聴いていただいたことがあったんです。そのご縁で推薦していただき、シュナイダーさんと中学2年生の春に共演しました。
 その共演した後で、彼から「あなたは室内楽を弾くか」と訊かれました。当時の日本では、特にピアノで子供が室内楽するという機会は全く無くて、私自身はその存在さえも知りませんでした。なので、「ノー」と答えたらものすごく吃驚され、がっかりされて、「この夏あなたは、私の友達が主催している室内楽の音楽祭に、絶対に行くべきだ」と言われました。そして急遽、そのときにいらしたシュナイダーさんと彼のオーケストラのメンバーの方達の前で、その音楽祭のためのオーディションを受けるような形になりました。その「音楽祭を主催しているシュナイダーさんのお友達」っていう方がルドルフ・ゼルキンさんだと分かった時は、あまりの驚きで混乱しました。それがマールボロ音楽祭でした(笑)。

カザルスホールにてアレクサンダー・シュナイダー(指揮)と(1988年4月。本人提供)
同上

――マールボロ音楽祭への参加は学生のような立場だったんですか?
 1年目は、聴講生みたいな形で入れてくださいました。その夏の終わりに、ルドルフ・ゼルキンさんやフェリックス・ガリミアさんから、カーティス音楽院っていうすごくいい学校があるから受験するべきだと言われました。当時のカーティス音楽院は他の学校と違って、受験生は自分がつきたい先生の希望を出せないんですよ。だから学校側が決めて、与えられた先生に習うことになるのですが、そのときにホルショフスキさんが私を採ってくださったんです。
 実はホルショスキさんはその時点では、もう96歳で、引退すると発表されていたそうです。カーティス音楽院はいつも、すべてのオーディションがビデオで録音されていました。ホルショフスキさんが、彼自身の友達のシュナイダーさんが連れてきた日本人が受験するということで私に興味を持ってくださりビデオを見て、学校に「やっぱりもう1人新しい14歳の生徒を採ることにする」と、急遽計画が変わったそうなんです。学校側もみなさん、「Oh my god!」みたいな(笑)

――ホルショフスキさんは、それなりの数の生徒さんを見てたんですか?
 私が来た年は、その年に卒業するリー・チェン(Li Jian)という中国人の生徒さんが一人だけいらして、多分、先生はリー・チェンの卒業と同時に引退すると仰っていたのだと思うんですよね。だから、リー・チェンが卒業したら私だけでした。外見は96歳でしたけど、中はエネルギーに溢れていて、彼が納得いくまで私を部屋から出してくれないというぐらい、毎回2時間、3時間のレッスン。大人同士ででも言葉に壁があるとコミュニケーションを取りにくいのに、当時の私は英語もできなかったから、子供の私にものすごく頑張って心込めて教えてくださったのだと、今となっては、感謝の気持ちで一杯です。

ミェチスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)

――ソナタの譜面を持ってきて、ここを弾きなさい、ダメだ、このペダルが違う、このクレシェンドは……みたいな教え方なんですか?
 そういう細かい具体的な指摘も勿論ありました。レクチャータイプではなく、ときには歌って、本当に一音一音、すごく大切に教えてくださった。ショパンのマズルカをレッスンに持って行った時は、ご自身の足でマズルカのダンスのステップも少し見せてくださったこともあったり。奥様によると、私が持っていく曲は必ず彼も前もって練習してくださったらしいんです。私のレッスンにはいつもご自身の楽譜も持ってきてくださって、"Let's work on this together, let's study this together, let's let's!"って。私に「教える」のではなくて、一緒に学びましょう、一緒に音楽を追求しましょう、そのような謙虚なお言葉から、人間的なことも学ぶこともあり感動でした。

※注:「1990~の生徒」とあるが、正しくは1989年入学
ホルショフスキによるカーティス音楽院でのレッスン風景(1990年5月、本人提供)

――当時の相沢さんって、先生、そこはこうですけど私はこうで、みたいな感じだったんですか。
 私自身の意見を聞かれることもありましたが、ホルショフスキさんからのお言葉は、もうすべてが目からうろこの状態でした。ホルショフスキ先生が仰ってくださったことはすべて作曲家の声を大事にされたうえで芸術的であり、そして理論的にも筋が通る、そして美しい。最も自然体な形で、細かいことも教えてくださる。当時の私は、まだ子供だし、ピアノを習うって、ちょっと学問っぽい、アカデミックな感じで捉えてた部分があったんですよね。だけども、やっぱり音楽はアート、芸術だから、というアプローチで教えてくださった。全体の視点、音楽に対する視点を、まず彼から教わったという感じですね。

――ホルショフスキ先生と室内楽のレッスンは?
 室内楽だからソロだから、っていうのは全くない方でした。すべては「音楽」だから。ピアニストとして、ソロを弾くときと室内楽を弾くときとで調整しないといけない部分はもちろんありありますよ。けれども、彼のレッスンの中では、もっとビジョンが大きい。耳の使い方も変わらないし、「音楽」として捉える。
 彼との最後のレッスンは亡くなられる1ヶ月前だったんです。最後の1年は週一回ではなくて、もっともっと聴きたいみたいな感じで、レパートリーも幅広くたくさんの曲を与えてくださった。本当に心を込めて教えてくださったと感じます。
 ソロのレッスンのときでも、ベートーヴェンのソナタを勉強してるとしますよね。ベートーヴェンの初期の作品は、ピアノのために書かれたものの、やっぱり、音の構成もすべて弦楽四重奏か弦楽三重奏が基になっている。ベートーヴェン の頭の中は室内楽だったから、それをピアノを通して演奏するというコンセプトを持つことの重要さを教えてくださいました。それが中期のものになると、オーケストラ的な書き方になっていく。後期では、鍵盤楽器自体も発展していったから、書くスタイルもピアニスティックに変わっていく。そのようなレッスンを受けていると、私はベートーヴェンのカルテット全曲、交響曲全曲の楽譜を見たくなり、それらを聞くために、学校の図書館に通う。するとそこで、偶然にもホルショフスキさんが古楽器のクリストフォリで演奏されている素晴らしいレコードも見つける。ピアノという楽器を通してホルショフスキさんのレッスンを受けていたけれども、レッスン自体は正に「音楽」についてでした。
 ちなみに、ホルショフスキさんご自身が所有されていた古楽器のクラヴィコードは、同じくホルショフスキさんのお弟子さんでもあり私の後の恩師でもあったピーター・ゼルキンさんに受け継がれ、そしてピーターさんが亡くなられた後は私のところに渡ることになり、この思いがけない宝物が、今私のアパートの音楽室にあります。

ピーター・ゼルキンから譲り受けたホルショフスキのクラヴィコードでの演奏(本人提供)

◆マールボロ音楽祭で学んだもの

――マールボロ音楽祭ではどういう室内楽をおやりになったのですか?
 計5年行きました。最初にマールボロ音楽祭に行ったのは88年で、89年から正式に参加しました。共演させていただいた方の中では、グァルネリ・カルテットのメンバー、ボザール・トリオ のメンバー、クリーヴランド弦楽四重奏団、チェロのポール・トルトゥリエさん、今井信子さん、内田光子さんも後にいらした。私がいた時は、まだ音楽監督ではなかったのですが、内田さんと連弾もさせていただいたり。

マールボロ音楽祭にて、ボザール・トリオのヴァイオリニスト イシドール・コーエンとの共演(1992年頃、本人提供)

――マールボロ音楽祭っていうのは、いろんな方と出会って、そこで合わせていくっていうやり方ですよね。ホルショフスキ・トリオというのは常設。違いはあるのでしょうか?
 大きな違いがあります。音楽に限らず他の分野でも同じだと思うんですけれども、その時に出会った人と一緒に仕事をする、いわゆる「ピックアップ・グループ」は、色々な方達からの予想外のアイディアにも接したり興味深いこともある中、やはりお互いに妥協しないといけないところも出てきますよね。もしも同意できない部分があっても、それをなるべくポジティブに持っていって、一緒に舞台で音楽を作り上げていく楽しさになるように自分も柔軟性を持って変えていかないといけないところもあります。ピックアップ・グループでプロフェッショナルにやっていくには、その能力は必要です。
 けれども、常に一緒にいるメンバーとのグループになると、まずお互いの信頼関係が土台にあります。音楽的なセンス、解釈、感性の似た人達との信頼関係が基づいているので、自然と融合されたグループサウンドが出来上がっていく。本当にいいグループサウンドを一緒に追求していくには、それぞれお互いの弾き方の細かい部分まで注意を払い、同時に自分たちのグループの音も良くしていきたい。緊張感と厳しさがある中、ユーモアも保ちながら同じ価値観と向上心を持って、お互いを批判しあいながらもやっていく。そして信頼関係があるからこそそれが喜びにつながり、先に進むための新たな目標も出てくる。そういうことを謙虚な姿勢で、時間をかけながら自分たちの可能性を一緒に伸ばせていける、そのような仲間がいないと、やっぱりグループは成長しないですよね。

ボザール・トリオとグァルネリ・カルテットで活躍したピーター・ワイリー (チェロ)とバード大学にて(2026年4月、本人提供)

――マールボロ音楽祭みたいな、1人1人の名前がスゴい人たちがたくさんいる中でピックアップ・グループを作ってやっていくのが、相沢さんにとっての最初の室内楽の経験だったということになりますね。
 ええ。それなしでは音楽家としての経験不足になってしまうし、あらゆる人達との出会いも失ってしまう、そして自分には常設グループを作れる可能性があると思える意欲と自信、決断にも辿り着かないですよね。マールボロ音楽祭に初めて行った13歳の夏の経験が、まず、ああ私も「音楽」をやりたい、と決心したきっかけです。

カザルスホールでのグァルネリ・カルテットとのゲネプロ風景(1990年、本人提供)
  • メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第2番 ハ短調(ホルショフスキ・トリオ公式YouTubeチャンネルより)

  • レベッカ・クラーク:ピアノ三重奏曲(ホルショフスキ・トリオ公式YouTubeチャンネルより)

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