第55回サントリー音楽賞受賞記念コンサート
プログラム・ノート
『接骨木(にわとこ)の3つの歌』
この作品は、1983年に作曲したソプラノ独唱のための『接骨木の新芽(New Buds on the Elderberry Tree)』をヴァイオリン独奏用に書き換えたものである(付随する打楽器のパートは省くこともできる)。原(もと)の声楽曲に用いた歌詞は、木下利玄(1886~1925)の歌集『紅玉』(1919年)に収められている次の3首である。
1.朝じめり藪の接骨木芽はおほく皮ぬぎてをりねむごろに見む
2.にはとこの新芽ほどけぬその中にその中の芽のたゝまりてゐる
3.にはとこの新芽を嗅げば青くさし実にしみじみにはとこ臭し
このヴァイオリン曲は、それ自体一つの独立した作品だが、今夜のコンサートでは、謂わば「前口上」として、聴き手の耳と気分をオペラ『羽衣』へと導く。
■作品概要
作曲年代:1995年
委 嘱:草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル
初 演:1995年7月 草津 石井光子(ヴァイオリン) 永曽重光(打楽器)
楽器編成:ヴァイオリン、打楽器(任意)
オペラ『羽衣』
一般的に「オペラ」は、17世紀におけるその始まりから今日に至るまで、「音楽による劇」という基本的な性質を変えていない。しかし、このオペラ『羽衣』は、「劇(ドラマ)」というよりもむしろ、「抒情的情景」とでも言うべきものである。
勿論、広く流布した伝説に基づいて世阿弥が記した「羽衣」の物語は、一つのドラマに外ならない。天女が松の枝に掛け置いた羽衣を軸に、それを見つけて持ち帰ろうとする漁師と天女の遣り取りのドラマが、春の三保の松原の美しい風景の中で繰り広げられる。そうした劇の設定は、バロック時代のオペラにあるような、天上の神々と地上の存在が交差する理想郷アルカディアを舞台として展開する人間のドラマに似ていなくもない。
だがそれを、美しい自然(理想化された世界)を舞台とした「人間のドラマ」として見るのではなく、逆に、そこで展開する人間的な一連のドラマを、それを包摂する全体的な「風景(自然)」の一部として捉える。即ち、物語の主体を、「ドラマ」(漁師と天女)から「舞台」(三保の松原の美しい情景)へ、「人間」から「世界」へと移すこと。そうすることによって、この物語は、「人間」の表象であるより、人間がその中で生を営む「世界」の表象として理解され得るようになる。オペラ『羽衣』が「劇」であるよりも「抒情的情景」である意図は、正にそこにある。(因みに、フィレンツェでの初演は、プログラム冊子で粗筋が簡単に説明されただけで、歌い語られる日本語の言葉の翻訳は観客に示さずに行われた。)
このオペラには、ドラマの「ドラマ」としての凝集性を薄めて「情景」に融解するという考えに由来するいくつかの奇妙な特徴がある。
「ドラマ」に関わる舞台上の役は3人。漁師(メゾ・ソプラノ)、天女(ダンサー)、そして、語り手である。だが、漁師役の歌手は、漁師の台詞だけでなく、天女の台詞も、ト書きのような性質の文言も歌う。要するに、どの役の言葉であっても、それが歌われる場合には、漁師役(舞台上の唯一の歌手)が歌う。同様に、語られる言葉は、漁師の台詞であれ天女の台詞であれ、語り手によって語られる。そして、天女役のダンサーは、決して声を発さない。つまりこのオペラでは、視覚的側面と聴覚的側面が一致せず、ずれているのである。
歌手が漁師役であること、またダンサーが天女役であることの確認には、舞台上でのそれぞれの衣装等を通じた視覚的認識が大きな役割を果たす。とはいえ、今回のような演奏会形式の上演でも、言葉が個々の配役設定の枠組みを交差的に超えて歌われ語られていることは気付かれるだろう。
また、ロバート・ウィルソンの演出による初演では、8人ほどの特定の役をもたない女性ダンサーが登場し、謂わば舞台装置の一部としての役割を果たした。それによって、ソロ・ダンサーに宛がわれたドラマ上の役設定、すなわち天女という役柄の輪郭が幾分希薄化され、「情景」に解け込むことが促される。(尤も今回の演奏会形式での上演では、残念ながらこの要素は除かれてしまう。)このことに深く関わっているのが、このオペラに含まれている多くの長い沈黙の部分である。それらの無音の部分では、舞台装置(ダンサーたちと照明)の動きによる情景とその気分の視覚的・空間的醸成に観客の注意を導くのである。
とはいえ、沈黙の部分は、単に舞台上の視覚的な要素に場を与えるためだけのものではない。それは、音楽的にも少なからず重要な意味合いをもっている。この作品での音楽は、それぞれの場面で沈黙によって縁取られ、前後の場面の音楽から区切られ、切り離される。そして、個々の音楽と、個々の長い沈黙は、互に対等に、並置される。こうした切断と並置は、このオペラの目指すところが、音楽的にも全体的にも、劇の物語を持続的な流れによって叙述するナラティヴな性質の「目的論的な時間」の実現ではなく、むしろ、一つの情景としての「空間」の提示にあることを示している。
このように、この作品全体の「空間」(あるいは、一つの「空間(=情景)」としての作品全体)は、その内部を構成する個々の場面の「空間(=情景)」の時間軸上における並置から成っている。それが時間軸上の並置である以上、ここでの「空間(=情景)」は、「動」を欠いた全くの静止的空間ではなく、時間的な推移を含んでいる。つまりそれは、もし言葉の矛盾を恐れずに云えば、「動的な静止」なのである。
このオペラの主題である「羽衣」という物語は、それが物語であるかぎりにおいて、基本的にナラティヴな時間性を具えている。この物語を、物語として示しながらも、動的な静止空間としてのオペラを実現するにはどうすればよいのだろうか? そのための可能な手立てとして私が考えたのは、そこでのナラティヴな時間の進行を出来る限り遅くすることだった。時間の進行が非常に遅いとき、人は、瞬間――十分に時間的長さを有する各「瞬間」――を意識し、ちょうど「ゼノンの矢の逆説」に表されているように、時間の流れを個々の静止的な瞬間の連続と捉える可能性が高まるのではないだろうか。時間の進行を極めて緩やかすることで、時間は空間化し、そして、物語は「情景」に変貌し得る。そう考えたのである。このオペラにある長い沈黙や、物語の進行に関わりのない風景描写の文章の繰り返しは、言ってみれば、物語の進行を緩める遅速器の役割を果たしているのである。
1992年から93年にかけての冬の或る日、フィレンツェ市立歌劇場からの1本の電話から、私のこのオペラへの関わりが始まった。1994年の「フィレンツェ五月音楽祭」で、日本の能の台本による二つの短いオペラで構成された公演を企画している。一つは三島由紀夫の「班女」、もう一つは世阿弥の「羽衣」で、前者は、イタリアの作曲家マルチェロ・パンニが作曲する。公演の演出はロバート・ウィルソン。ついては、後者の作曲を頼みたい。それが電話の主旨だった。
その誘いを引き受けようと決めるまで、長い時間はかからなかった。ウィルソンとはその10年ほど前に共に仕事をしたことがあり、彼の演劇の美学には或る種の近しさを感じていたし、また、中世以来ヨーロッパの人々が憧れを抱き続けてきた春のフィレンツェにしばらく滞在して仕事ができること、そして何よりも、世阿弥の卓越したテクスト、そしてその舞台が三保の松原であること。三保の松原には、たった一度だけ、9歳の時に小学校の遠足で行っただけだが、その美しい情景と時間は今も私の心に焼き付いている。
■作品概要
作曲年代:1994年
委嘱:フィレンツェ五月音楽祭
初演:1994年6月 フィレンツェ、テアトロ・ぺルゴラ
ロバート・ウィルソン(演出) ドゥーニャ・ヴィエソヴィチ(メゾ・ソプラノ) 和泉淳子(ナレーター) 花柳寿々紫(ダンサー) マルチェロ・パンニ指揮 フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団
楽器編成:メゾ・ソプラノ、ナレーター、舞踊、独奏フルート、女声合唱、オーケストラ(フルート、オーボエ、クラリネット2、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、マリンバ、ヴィブラフォン、ピアノ、弦楽合奏)