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チェンバーミュージック・ガーデン
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【連載コラム ⑥】 サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン 2021

小菅 優プロデュース
武満 徹「愛・希望・祈り」~戦争の歴史を振り返って~

小菅 優 (ピアノ)

没後25年を迎える武満徹の室内楽と、戦時中に書かれた作品を組み合わせて6月15日・17日にお届けする小菅優プロデュース公演。
ピアニスト・小菅優自身が、公演の企画意図や聴きどころを綴る連載の最終回です。(全6回)

➅ ショスタコーヴィチの謎

懐疑の無い作家ほど嫌味なものはない。
懐疑の失われた作品に、真に芸術の発展的要素などありえない。
武満 徹「ショスタコーヴィチの逆さの肖像」より



前回のお話でお伝えしたように、1917年のロシアの共産革命によってストラヴィンスキーが帰国できなくなりましたが、その革命によりソビエト政権が権力を握ると、その独裁政治は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)を終生苦しめることになります。

ショスタコーヴィチは当時ロシアの首都だったペテルブルクで生まれ、この都市の波乱万丈な変革を経験しながらその模様を反映した作品を沢山残します。彼のルーツはポーランドにあり、曾祖父はポーランド人として1830年の革命でロシアからの独立を望んで戦った人々の一人で、ロシアに追放された人でした。ピアニストとして、そして作曲家として活躍しだしていたショスタコーヴィチが1927年に第1回ショパンコンクールにロシアの代表として出場することになると、政府はこの「ポーランド人」を送っていいか議論したそうです。

この1927年にショスタコーヴィチは音楽学者のイワン・ソレルチンスキー(1902-1944)に出会い、彼は最も親しい友人となります。音楽的方向性に限らず人間的にも多大な影響を与えたこの親友は、何か国語もの言葉を話し、天才的な記憶力、知識と皮肉に溢れたユーモアの持ち主で、彼の大学での講義や公演前の楽曲案内の演説などの素晴らしさが言い伝えられています。ショスタコーヴィチは彼に沢山のことを学んだと証言しています。

ショスタコーヴィチはオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(1932)を書いたころには天才とみなされていました。しかし、このオペラが独裁者スターリンとその政権に最初の告発を受け、命まで危ない状況になり、そのトラウマは彼を常につきまといました。完全に服従してしまうと創作の自由を奪われ、従わないとキャリアを積めず、命をも落としかねないというこのショスタコーヴィチの過酷な状況は、現代の私たちには想像を絶する心境だったと思います。そんななか、それらを理解していたソレルチンスキーは常に彼を守り、心の支えとなりました。

その後しばらく、彼は告発をしのぐことができ、一見そのプロパガンダのための社会的リアリズム(大衆を目当てに単純なメロディーなどを用いるスターリンの独裁下で強引に要求された音楽のスタイル)に従っていることを装いつつ、実際はそれに反しているメッセージや皮肉を曲に組み込んだと言われていますが、実際の意図が世界中の人々に勘違いされることも多くありました。政治的なことはさておき、彼の音楽は抑圧、人々の痛み、死、病などの戦時中の大惨事を含む人間の現実を交響曲などで表していますが、特に室内楽では内面的な感情に溢れています。

小菅 優
2005年カーネギーホールで、翌06年にはザルツブルク音楽祭でそれぞれリサイタル・デビュー。デュトワ、小澤らの指揮でベルリン響などと共演。10年ザルツブルク音楽祭にポゴレリッチの代役として出演。現在はベートーヴェンの様々なピアノ付き作品を取り上げる新企画「ベートーヴェン詣」に取り組む。17年第48回サントリー音楽賞受賞。16年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集完結記念ボックスセットをリリース。17年から4年にわたり、4つの元素「水・火・風・大地」をテーマにしたリサイタル・シリーズ「Four Elements」を開催し好評を博した。 ©Takehiro Goto

1944年、ショスタコーヴィチがピアノ三重奏曲第2番を作曲しはじめていたころ、ソレルチンスキーは疎開先で心臓発作を起こし、他界してしまいます。第2次世界大戦真っ只中の悲劇的な状況が反映されていると同時に、この友人の死を受け、追悼の念も込めた作品となります。悲しみに溢れる中、怒りが入り混じる第1楽章、狂気な暴動のようなスケルツォの第2楽章、内面の苦しみ、追悼、孤独感が連想されるパッサカリアの第3楽章、そしてユダヤ人が自分の墓を掘らさせられ、その場でダンスさせられたという強制収容所のこの上ない残酷さを皮肉に表しているとも言われている第4楽章は、クレズマーの音楽(ユダヤ系の伝統音楽)が使用されています。そして最後に最初のテーマが戻り回想されます。内面的な葛藤、気持ち悪くなるような当時の現実はメッセージ性が強く、強烈な音楽です。未来が読めなく常に命の不安を感じていたショスタコーヴィチの音楽からは、音楽家の未来に不安をよせる現代の私達が学べることがたくさんあると思います。

1948年、ソビエト連邦共産委員会に二度目の告発を受けると、交響曲第9番などと共にこの作品も演奏禁止のリストに入れられてしまいます。そのうえ、アメリカで行われた世界平和文化科学会議へ行くことをスターリンに命じられます。共産主義をサポートする演説やイベントなどがすべて決められていて、その記者会見にて、若い頃にロシアを離れそのころアメリカの国民だったストラヴィンスキーをはじめ、同業者を批判せざるを得なく、そのやむを得ずした発言を彼は終生後悔することになります。

今回の出演者とのリハーサル風景 
ピアノ:小菅優、ヴァイオリン:金川真弓、チェロ:ベネディクト・クレックナー、クラリネット:吉田誠

しかしショスタコーヴィチのこのような状況や、ソビエトに密かに抵抗していたという話は、1979年に出版されたソロモン・ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」が公開されるまでほとんど世間には知られていませんでした。そしてこの証言への疑いもある中、様々なことが言われてきました。

それより前の1953年、武満徹が音楽雑誌「シンフォニー」のために書いたエッセイ「ショスタコーヴィチの逆さの肖像」では、「ぼくは最近、ショスタコーヴィチの体質に潜む、頽廃にも似た、異常なものを感じた」とあります。これを私はどのように受け止めたらいいのかわかりませんでした。それはショスタコーヴィチの音楽の中に、密かな訴えや残酷な悲鳴、そしてあざけわらっているような皮肉に気づいたということなのでしょうか。ソビエトの政治によるあまりの強制により、狂気さを音楽から感じたのでしょうか。

どちらにしても、当時のソ連の作家の精神性が失われかけていることを武満はこのエッセイで訴えています。作家の発言の自由を奪い、音楽が独裁の道具として使われることは、何と虚しいことなのか。それは武満徹のように自然を尊重し、愛、希望、祈りを音楽に感じていた人にとってどれだけもどかしいことだったのか、何だか想像できるような気がしました。
(連載全6回完)

サントリーホール ブルーローズ(小ホール)

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