日本の誇る巨大な現代音楽アーカイブ

沼野雄司(音楽学)

3つの条件

国際作曲委嘱シリーズ初年の1986年開催5公演のちらし

1986年。サントリーホールが開館し、「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」が始まった。

まだパソコンやインターネットは一般には普及しておらず、クラシックを扱う大手CDショップも数少なかった頃である。海外に出かけた友人との連絡はもっぱら絵葉書だ(今の若い人は絵葉書など出すのだろうか?)。当然ながら、ヨーロッパ音楽界に関する生の情報は極端に少なかった。

そうした中、サントリーホールがぶちあげたのは、毎年のように海外の「大作曲家」を招聘し、レクチャーの機会を設けるとともに、管弦楽新作を発表してもらうという夢のような企画である。まだ大学生だった筆者自身、こうして「生ケージ」や「生クセナキス」に初めて接することになったのだった。

このシリーズの誕生には、おそらく3つの条件が必要だった。

まずは初代監修である武満徹という存在。1980年代の武満は、様々な海外からの委嘱をこなす中で、日本からも委嘱を行なうことの重要性を強く感じていたはずだ。実際、当時の彼には日本の作曲家としては初めてとも言える国際的な名声、そしてそれに伴う分厚い人脈があった。武満徹という個人なくしては、シリーズはそもそも存在しなかっただろう。

第2に挙げられるのが、サントリーという企業の文化助成に対する態度、そして当時の日本の経済状況である。単なる飲料メーカーという存在を越えて文化活動を展開してきたサントリーは、1986年にホールを建設する際、同時に強力なコンテンツを必要としていた。このシリーズはその軸のひとつに組み込まれたわけである。そして、巨大な負担を支えたのが、80年代に躍進した日本経済である。もちろんシリーズが企画された時点では狭義のバブルは起こっていないが、既に第二次中曽根政権時の83年に日本は不況を脱しており、時代の気分は激しい右上がりのカーヴを描いていた。このタイミングであればこそ、シリーズは順調に離陸を果たすことができた。

そして第3に挙げられるのが、当時は「現代音楽」をめぐる期待が社会の中に大きく存在していたという事実だ。もちろんそれは1960年代に比べれば後退していたかもしれないし、さらにいえば第1期(後述)の作曲家たちは既に全盛期を越えていたとも言えるのだが、それでも、ここで発表される新作は、狭い音楽界の垣根を越えた文化的な「事件」として受容されていた。この時点における現代音楽は、未来への期待を、今から思えばいくぶん無邪気なまでに背負っていたと言っていい。

この3つの条件が重なった時に、一種の必然として「国際作曲委嘱シリーズ」は成立した。

過去から紡ぎだす未来

では、30年を経た現在、条件はどう変化しているだろうか。武満は1996年にこの世を去ってしまったが、その後、シリーズの監修は湯浅譲二、細川俊夫と順当に受け継がれており、企画内容は武満時代に勝るとも劣らない。サントリーの姿勢はどうか。日本経済の長い沈滞の中にあっても、企業の姿勢にブレはみられない。とすれば、もっとも問題なのは第3のポイントということになろう。

2015年現在、他の芸術分野に比べて、狭義の「現代音楽」はその重要性を十分に認識されているようには見えない。少なくとも、新しく魅力的な世界がそこにあると考える人は、シリーズ開始時に比べて確実に減っているだろう。

もちろん新たな音楽の開拓が不可能になってしまったわけでは、決してない。「新しさ」は有限個存在しているのではないだろうから、これからも新しい音楽は作られ続けるに決まっている。ただ、かつてのような素朴な進歩史観や、「音楽大学」といったシステムをはじめとする様々なインフラが古びてきていることも確かだろう。その諸要因についてここで詳しく検討する余裕はないけれども、しかしいずれにしても言えるのは、早急な解決は望めないということである。

とすれば、今なによりも必要なのは、現代の音楽創作を、長い歴史のスパンの中でとらえながら、注意深く見直すことだ。実際、前世紀末から着々と進行してきたのは「現代音楽」の徹底的な見直しだった。それは、すでに克服された問いとして打ち捨てられてきたものを拾い上げ、再吟味し、未来へのカタパルト(発射台)へと鍛え上げる地道な作業と言える。ここ10年のサマーフェスティバルを見渡してみても、そのメインとなっているのは、ケージ、クセナキス、シュトックハウゼン、そしてツィンマーマンといった作曲家ではないか。我々はおそらくは無意識のうちに、過去を洗い直しながら、この「停滞期」を共同で乗り越えようと試みている。

唐突ながら、ブラームスは初めて、そうした作業を行なった作曲家であり音楽学者だった。ルネサンス以降の音楽史を学び、バッハやシューベルトの楽譜全集を作り、自身の創作の中でそれを新たなものに鍛え上げるという彼の作業は、歴史的にみて、きわめて新しい態度である。生前は常に保守反動という非難を受けていた彼を、やがてシェーンベルクは「進歩主義者」と評することになった。

だから我々も性急に判断を下してはいけない。「国際作曲委嘱シリーズ」の30年の歴史を振り返りながら、来たるべき、いやおそらくは既に生じている様々な「現代音楽」について考えなければならない。このシリーズはもはや、それだけの厚みを備えたアーカイブになっており、熟考のためのこのうえない資料なのである。

以下、この30年を筆者の勝手な判断で5つの時期に分けて概観を試みたい。

5人の衝撃:第1期

初代監修、武満徹の「60th Birthday Celebration in Suntory Hall」(1990年10月9日)公演ちらし
公演プログラムに掲載された第4回委嘱作曲家ジョン・ケージからのメッセージ

まずは5人の作曲家による委嘱作品が並んだスタート時を「第1期」と呼ぼう。先にも記したように、何よりもこの開始は衝撃的だった(初めて全貌を記したチラシを手にしたときの驚きといったら!)。

委嘱作は武満『ジェモー』、クセナキス『ホロス』、『交響曲第4番』、ケージ『エトセトラ2』、ブッソッティ『カタログⅣ』。1986年の10月から、わずか4か月の間にこれらの作曲家が次々に来日してレクチャーを行ない、委嘱新作を発表した。

この5人は、国籍が異なっているのはもちろん、1912年生まれのケージから31年生まれのブッソッティまで、微妙に世代も異なっていた。しかし戦後の「前衛」を呼吸しながら創作を開始したという点において、広い意味での戦後第一世代と言っていい。

シリーズは当初から武満の意向によって、委嘱新作だけでなく、テーマ作曲家自らが「影響を受けた作品」、そして「注目している若手の作品」を含む選曲を担当するという基本コンセプトを持っていた。武満の場合であれば、前者としてドビュッシーの『牧神』を、後者としてジョージ・ベンジャミンの『平らな地平線に囲まれて』を選ぶという具合である。ちなみに、当時ベンジャミンはまだ26歳という若さであり、日本では全く無名の存在だった。

とりわけシリーズ初期には、多くの現代音楽ファンは委嘱新作と同じくらい、この若手枠に注目していたように思う。それはひたすら「新しいもの」を求める時代精神がまだ色濃く残存していたからでもあるし、また先にも触れたように情報が乏しかったためでもある。もっとも、若手枠の作曲家として、ケージはクリスチャン・ウォルフを、そしてクセナキスはフランソワ=ベルナール・マーシュを選んでいるから(当時の彼らを「若手」と呼ぶのは難しい)、それほど厳しい縛りではなかったのだが。

一方、「影響を受けた作品」はテーマ作曲家の個人史を考える上では重要ながらも、既によく知られている曲であることが多い。実際、この第1期でとりあげられたのもドビュッシーやメシアン、ウェーベルンといった「想定内」の作曲家による作品ばかりではあった。その中でブッソッティが敢えてメンデルスゾーンの『交響曲第4番』を選んでいるのは、今から見ると気が利いている。ここには明確に、一種のキュレーションのセンスが働いていよう。

武満の多彩な嗜好:第2期

第11回ロディオン・シチェドリンのちらし(1989)

1987年から92年までを「第2期」としたい。作曲家はリームランズノーノデ・パブロフォスシチェドリンレイノルズノールヘイムノアゴーマセダヘンツェ

一見して分かるように、この時期にはリームのような若手作曲家から、ノーノやヘンツェといった「大御所」、ランズやレイノルズといった武満と親しい作曲家たち、ノールヘイムやノアゴーといった北欧の作曲家、そしてデ・パブロやマセダといった個性的な存在まで、かなり裾野が拡がっており、つまりは監修を務める武満徹の個人的な好みや人脈がよりはっきりと出た時期といえる。

1987年に選ばれたリームは、当時35歳(ちなみに、急病で来日自体は果たせなかった)。年齢からいえば「若手」に入る存在だが、この時期の彼は「新ロマン主義」の旗手として注目を集めており、それゆえの抜擢だろう(85年に東京で開かれた『〈東西の地平〉音楽祭:新ロマン主義その彼方へ』でリームの名が盛んに挙がっていたが、この会場には武満も連日のように顔を見せていた)。リームは、影響を受けた作品としてベートーヴェンとシューマンを選び、若手枠であるべき場所では、逆指名的にラッヘンマン『ファサード』を入れた。

この第2期のクライマックスを成したのがノーノ(1987年)である。ヴィンヤード型のホール形状を生かし、7つの小楽器グループを空間的に配置する『進むべき道はない、だが進まねばならない』の緊張感は圧巻で、その厳しさは戦後前衛の再考を促す契機としても機能した。また、「若手」としてノーノが挙げたのが当時40歳のシャリーノ。こうして彼の特異な音楽世界も広く日本で知られるようになったのだった。

プログラミングという意味では、1988年のデ・パブロも忘れがたい。シェーンベルク『映画の一場面のための伴奏音楽』、ストラヴィンスキー『変奏曲』、ハルフテル『パラフラシス』、そして自身の『風の道』という端正なラインナップである。一方、当時はまだ存在していた「ソ連」から来たシチェドリン、そして高橋悠治が指揮を担当したホセ・マセダの演奏会は、いずれもいくぶんかの「政治」の匂いを残している点に特徴があろう。

新しい才能と地域の色合い:第3期

作曲委嘱シリーズに際して来日した8人の作曲家と武満徹との対談集『歌の翼、言葉の杖』(1993年、TBSブリタニカ)。武満は「音楽会後の……対談を行うということで、作曲家の全体像により深く迫れたのではないかと思っています」と同書の序でつづっている。

1993年から、武満徹が監修を終える98年までを第3期とする(武満は96年に死去したが、人選は98年までなされていた)。

作曲家はタンリンドベルイナッセンシェーファークラウゼスカルソープ。このうち、最初の3人は1950年代生まれだから、当時はまだ40歳前後と若い。また、後半3人はそれぞれの地域と結びついた個性的な作風で知られる作曲家。いずれにしても、この時期に入ると、最初期のコンセプトは徐々に変化していることが見て取れよう。

タン・ドゥン(1993年)の委嘱作『オーケストラル・シアターⅡ』は、聴衆も一緒に「ホンミラガイゴ…」と呪文を唱えないといけない参加型作品だが(開演前に聴衆の「リハーサル」が行われた)、何よりもタンの痩身が発するエネルギーがまぶしいほどの魅力を放っていた。また、リンドベルイ(94年)の委嘱作『オーラ』は、巨大な音の運動が鋭い耳によって制御された彼の代表作であり、再演の機会にも恵まれている。94年のナッセンは、かつてフォスが若手枠で選んだ人物。つまりシリーズ開始から6年を経て、かつての若手枠からテーマ作曲家へと「出世」した例が出てきたというわけだ(このあとはシャリーノ、ジェルヴァゾーニが同じように若手とテーマ作曲家の両方を体験している)。

一方、自らもピアニストとして活躍するクラウゼが自作自演を務めた委嘱作『ピアノ協奏曲』(1996年)、影響を受けた作品として雅楽『越天楽』を挙げたスカルソープ(98年)など、意外性に満ちたプログラミングも武満のひとつの狙いだろう。

ちなみに、この時点でシリーズに起用されていない大物にはシュトックハウゼン、ブーレーズ、ライヒ、リゲティ、そしてベリオなどがあげられるわけだが、このうちリゲティとベリオは、同時期に武満がオペラシティで企画を担当した「ネクスト・ミレニアム作曲賞(現・武満徹作曲賞)」の審査員として指名されている。晩年の彼にとって2つのホールでの企画は相互補完的なものであったのかもしれない。

カラフルな21世紀:第4期

武満が死去した後、シリーズを率いることになったのは湯浅譲二である。彼が監修を務めた1999年から2011年までを第4期と呼びたい。ここでは武満時代には選ばれなかったタイプの作曲家、そしてもちろん湯浅と親交のある作曲家たちが次々に召喚されて、シリーズはよりカラフルな様相を呈することになった。また、ついに60年代生まれの作曲家の委嘱新作があらわれるようにもなる。

テーマ作曲家は湯浅アミロタルサロネン(委嘱は武満監修時。武満没後、湯浅に引き継がれた)、ラッヘンマングロボカールシャリーノダルバヴィリセジェルヴァゾーニチンハーヴェイ(ジュリアン・)ユー

本来、この第4期冒頭にはグリゼーが予定されていた。しかし、すでに具体的なプログラミング構成の段階に入っていた矢先の1998年、グリゼーは急逝。残念と言うほかないが、2008年にサマーフェスティバルで彼の大作『音響空間』が日本初演されたのは、その遥かなエコーと言えようか。

波乱の幕開けとなった第4期は、しかし湯浅の『クロノプラスティクⅡ』(1999年)、アミの『チェロ協奏曲』(2000年)、そしてサロネン自身がN響を振った『インソムニア』(02年)など、重厚な委嘱新作が続く。ちなみにサロネンが若手枠で選んだのが田中カレンの『ローズ・アブソリュート』(世界初演)。調性と無調を横断する作風は、現在アメリカで活躍するこの作曲家の近況を伝えて興味深いものだった。また、03年のラッヘンマンは武満時代には取り上げられなかった作曲家だが、この時期にいたってはすでに日本でもよく知られる存在になっており(『マッチ売りの少女』の日本初演が00年)、機が熟した段階でテーマ作曲家として取り上げられたとも言える。

2004年から、シリーズは「サントリー音楽財団(現・芸術財団) サマーフェスティバル」の中に吸収・統合された(ゆえにここから第5期とすることも可能だろう)。一見すると縮小のように見えるけれども、しかし実際には小ホール(現・ブルーローズ)を利用した室内楽演奏会がプラスされることになったために、むしろ充実した個展という形に進化したとも言えよう。

そのメリットが最大限に生かされたのがこの年のグロボカールである。大ホールでの新作『人質』が圧巻だったのみならず、彼の旧作『労働』、レイボヴィッツの『トロンボーン協奏曲』、そして新鋭ヴルハンクの作品という選曲が、シリーズの歴史の中でもきわめて刺激的な一夜を形成した。さらに彼は小ホール演奏会ではトロンボーン奏者としても健在であることを示し、この音楽家の多面性を存分に開陳したのだった。

同じように、大小2つのホールでの演奏会によって、シャリーノ(2005年)の特異な音響世界、ジェルヴァゾーニ(08年)の闊達な運動性が十全に示され、一方で電子音楽の作曲家としては初の起用になったリセ(07年)の場合にも、大ホールではオーケストラ作品、そして小ホールではコンピュータやテープを用いた作品という使い分けが可能になったのだった。

また、影響を受けた作品にワーグナー『パルジファル』を挙げたハーヴェイ(2010年)は旧作『ボディ・マンダラ』から新作『80ブレス』に至る神秘主義的な世界を開陳して、独特の空気をホールに充満させてみせた。

新しい「国際」へ向けて:第5期

シリーズは2012年には委嘱作品を持たず、過去の委嘱作の再演という形をとることになった(クセナキス『ホロス』、シャリーノ『シャドウ・オヴ・サウンド』、ラッヘンマン『書』)。この際に選曲を担当した細川俊夫は、翌年から正式に監修を務めることになった。武満、湯浅、細川という流れは、これ以外あり得ないほどに自然なものだが、先の2人以上にヨーロッパ音楽界の内部を知り尽くした細川の監修となる第5期には、「国際」という単語の意味もさらに変容してゆくことだろう。こうして13年から新しいクールに入ったシリーズは、細川俊夫の委嘱新作『霧の中で』を皮切りにして、パスカル・デュサパン、そして今年のハインツ・ホリガーへと進んで現在に至っている。

以上、30年間の歩みを駆け足で振り返ってきた。冒頭にも書いたように、やはりこれは日本の誇る現代音楽アーカイブであることは疑いえない。我々はこの蓄積から未来を紡ぎだしていかねばならない。

(2015年8月)