サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン 2025
北村朋幹プロデュース『月に憑かれたピエロ』
北村朋幹(ピアノ)インタビュー

音楽に対する真摯かつ多彩なアプローチで、作品に新たな生命を吹き込むピアニスト北村朋幹。CMG2025では「北村朋幹プロデュース」と題して、室内楽のエッセンスが詰め込まれたシェーンベルクの異色作『月に憑かれたピエロ』ほか4作品をお届けします。ドビュッシーの歌曲を上演するにあたっては自身の手でソプラノと五重奏用に編曲するなど、こだわりぬかれた本公演の企画意図と聴きどころについて、音楽ライターの小室敬幸さんがじっくりと伺いました。

北村さんがシェーンベルク(1874〜1951)の《月に憑かれたピエロ》(1912)を演奏するのは、これで3回目だそうですね。
この企画が決まったのは2年以上前なのですが、その時点では今回(2025年6月16日)が初めての《ピエロ》になるはずだったんです。どこでも誰とでも演奏できる曲ではないですし、ずっと前から取り上げたかったのですけど機会に恵まれなくて……だから、これでやっと取り組むことができると思っていた矢先に、色々な偶然が重なり、24/25年のシーズンに2度の機会に恵まれました。
それが昨年(2024年)5月のラ・フォル・ジュルネTOKYOと、今年1月のザ・フェニックスホールだったわけですね。《月に憑かれたピエロ》を実際に演奏してみて、印象は変わりました?
変わりましたね。僕は、作品そのものよりも作曲家自身に興味を持つことが多く、遺されたさまざまな資料-楽譜やそのスケッチはもちろんですが、手紙やその人の書く文章、遺されている場合は肉声、周りの人の証言、あるいはその人が好きだったものなど…それらに触れて、自分の中でその作曲家が「人のかたち」を持ちはじめた時に、本当の意味でその作品に向き合い始めることができるのですが、《月に憑かれたピエロ》を通してシェーンベルクと向き合ってみて、本当はものすごく感覚的な人だったのではないかと思うようになりました。天才的な閃きがある人、だけどそれを無邪気に信じることをせず、何かと理由が必要で、ルールを作り、説明を自らに課した人だったのかなと。
簡単にいえば、“無調”にルールを課したのが“12音技法”だったわけですもんね。しかも12音技法を確立する直前のシェーンベルクは数年にわたってスランプになり、多くの未完成作が量産されています。
理論に沿って完全にアナリーゼ(分析)…つまり「説明」できる12音技法の作品が生まれる直前に書かれた《ピエロ》(作品21)には、まるで何かに書かされているかのような、そんなところがあります。1曲1曲が驚くほど短期間で作曲されているのは、実際に演奏に取り組んでも色々な面で感じますが、それほどの強い衝動、とにかく閃きに満ちたこの曲こそ、彼の本質なのではないかと今は思っています。そして、彼の作品カタログを見ていると、そういった曲の数は実は限られていることにも気が付きます。
ピアノ曲でいえば作品19(6つのピアノ小品)も、紛れもない名作だと思いますが、そのほとんどをたった1日で一気に書き上げていますし、ロマン派の手法で出来るギリギリを攻めた結果、コップの水が溢れてしまったかのような《室内交響曲第1番》作品9(1906)についても、シェーンベルクは「楽想の迸るままに書いたことで心残りがあったのだが、20年後にそれを自分で分析したら正しいことに気付いた、なぜなら…」みたいなことをわざわざ語っています。これこそシェーンベルクという人かなと…本能への、秘めた憧れと、そこへの疑念。

東京音楽コンクール第1位および審査員大賞受賞をはじめ、浜松、シドニー、リーズなどの国際コンクールで入賞。独自のプログラミング・センスで展開するソロリサイタルをはじめ、オーケストラとの共演、室内楽、古楽器による演奏活動を、時代を自由に行き来するレパートリーで行う。録音は6枚のソロアルバムをフォンテックよりリリース、その中の1枚が第76回文化庁芸術祭賞優秀賞に、「北村朋幹20世紀のピアノ作品」が第22回佐治敬三賞に選ばれた。令和6年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。東京藝術大学に入学後、ベルリン芸術大学で学び最優秀の成績で卒業。フランクフルト音楽舞台芸術大学では歴史的奏法の研究に取り組んだ。ベルリン在住。
緻密で小難しいというイメージをもたれがちなシェーンベルクですが、彼の本質はそこじゃないし、作品によっては理由が後づけであると。
シェーンベルクの弟子で友人だったヴェーベルン(1883〜1945)に関しても、こんなエピソードがあります。彼は自分の作品が演奏されているのを聴いて、「高い音、低い音、真ん中の音――気が狂った人間の音楽のようだ!(Eine hohe Note, eine tiefe Note, eine Note in der Mitte – wie die Musik eines Verrückten!)」と怒っているんです。ヴェーベルンといえば非常に理知的な音楽で知られていますが、自作をリハーサルする際に短いフレーズを取り出して「ここはブラームスのインテルメッツォ(間奏曲)のように」だとか「バッハのあの舞曲のこの部分なんだ」って説明したというんですね。点描的に見える譜面にも、普遍的で歴史を踏まえたジェスチャー(※感情を表す行為)があるんですよ。でもそれらは、彼らの存命中の演奏でもすでに、叶えられていなかった。

アントン・ヴェーベルン(1883-1945)
つまりヴェーベルンは、自分の音楽を無機質に演奏されるのが嫌で、調性音楽と同じようなニュアンスで感情を込めて弾いてほしかったわけですか。
まあ、調性のある音楽でも無機質な演奏をする人はいるわけですが…少なくともヴェーベルンは、そうでないものを望んでいた、ということですね。ジェスチャーというのは、言語でいうところの基本的な発音や、もしかしたら文法のようなことでもあるかもしれません。一方、感情というのはより複雑で個人的なもので、「その作品がその人にはどのように見えているか」というようなことにもつながるとは思います。素晴らしい作品はこの可能性が豊かで、たとえば≪ピエロ≫も、結論が完全には出されていないところが、本当に良いですよね。
テキスト(詩)としては第3部のラストで、ピエロがベルガモに帰郷して、おそらく悪夢から抜け出す様子なわけですが、シェーンベルクの音楽は必ずしもそう聴こえませんもんね。
だからこそプログラムを組む時に、ひとつの捉え方しか出来ないようなかたちにしない方が良いと思うんです。もちろん自分のなかにコンセプトはありますが、ちゃんと演奏すれば、曲自体が語ってくれることの方が多いはずだから。だから、どこまで言葉で説明するかというのは、いつも本当に難しい問題です。
それにどんな時代の音楽であろうと、作品を本当に理解するってことはあり得るようであり得ないわけですよ。言い換えれば、見るたびに作品の姿は変わる。特にソロでない場合、誰と演奏するか次第でも当然変わってきます。去年5月と今年1月の2回、出来上がった《月に憑かれたピエロ》も全く違うものになりました。今後も定期的に弾きたいと思うんですが、おそらく毎回違うものが視えてくるのではないでしょうか。
2回目(ザ・フェニックスホール)の演奏を私は聴かせていただいたのですが、あの時はどんなことを考えていたのですか?
1回目は初めてだし、2回目も初めてやったことをどう反映するかという意識があるので、どちらも状況としては特殊だと思うんです。1回目とメンバーのタイプが全然違っていたというのも面白かったですね。フェニックスホールで《室内交響曲第1番》(ヴェーベルン編曲による室内楽版)ではじまり、《月に憑かれたピエロ》で終わったのには理由があって、それはどちらもホ長調の香りがするからです。《室内交響曲第1番》は、あらゆる方法で色々な調性を旅する音楽、あるいは調性から逃げようとしながら常に調性に支配されていますが、その引力はホ長調にはたらいている。《ピエロ》では終盤、ピエロが故郷ベルガモへ戻っていくあたりから、ところどころにやはりこの調性が聴こえるので、この響きを、シェーンベルクという音楽家、つまり、心の底からロマン派の音楽への憧れを持ちながら、調性のない世界へと旅立ったひとの、ひとつの故郷としてイメージしていました。
「月に憑かれたピエロ」をめぐる冒険<コンサート編>
日時/2025年1月25日(土)
会場/あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール
(あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール 公式YouTubeチャンネルより)
そうした演奏会全体の流れを意識しながら演奏されていたわけですね。
シェーンベルクは、詩に登場するDer Dichter(詩人)を自分自身だと思って作曲しているんだろうなということは、あの演奏会全体の、僕の中でのゆるやかなテーマでした。1曲目の、まさにその言葉が出てくる瞬間に、彼自身が親しんでいた楽器でもあるチェロが、初めて、しかもmolto espressivoで音を出しますしね。終盤の「セレナーデ」でも、詩でピエロが弾いているのはヴィオラであるはずなのに、ずっとずっとチェロが、ひたすら自己陶酔的な音楽を奏でています。ちなみに今回チェロを弾いてくれる横坂源くんは、僕にとってはまさに「詩人」という感じの音楽家なのですが…詩人がピエロの格好をして、自身の闇つまりは本能と向き合う。自身のなかに強いロマンティシズムがあるのに、それを自分の口から言うのは憚られる…というようなことは、音楽に限らず、なにかものづくりをする過程で必ず向き合うことになる類の逡巡ですよね。
それは、最も闇深い第2部を経た、第3部のはじめの方で歌われる「〔ピエロは〕こんなにもセンチメンタルになってしまった」という言葉、それが示すところにも、なにか繋がる感覚がある気がします。そしてこれも、先ほどからお話している、シェーンベルクという人の「あの」性格とも、あまりに呼応する感じがして。

(上段)北村朋幹、郷古 廉、横坂 源
(下段)岩佐和弘、山根孝司、中江早希
第3部から漂うセンチメンタルさをどう表現するのか? それもシェーンベルクのロマンティシズムに通じますよね。フェニックスホールでも演奏されていたヴェーベルン編曲版の《室内交響曲第1番》を、今回は《ピエロ》の1曲前に取り上げます。
そうですね、今回の曲順にもまた、それなりの意味は持たせているつもりですが、それは演奏をお聴きいただけたらと思います。
《室内交響曲第1番》の編曲版もこれで3回目の演奏なのですが、最初に演奏した時はフルートをヴァイオリン、クラリネットをヴィオラに置き換えた弦楽四重奏とピアノという編成でした(2019年11月にエール弦楽四重奏団との共演)。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルート、クラリネットという五重奏は、もちろん《ピエロ》を前提として書かれたものです。
この前のフェニックスホールでは、19世紀〜20世紀初頭の時代考証的な演奏をしたいと考えていました。例えば縦の線を合わせることを最優先にしないとか、つじつま合わせのために誰かがフレーズを途中で諦めることをしないとか、和音をアルペジオで崩して弾いてみたりとか。どこまで実現できたかは分かりませんが……。僕がいつもモデルにしているのは、リヒャルト・シュトラウスの指揮したモーツァルト:《魔笛》序曲(1928年録音)で、テーマ(主題)ごとに全部違うテンポが設定されているんです。実際、シェーンベルク自身によって《室内交響曲第1番》の楽譜にはテーマごとに違うテンポが指定されています。

モーツァルト:《魔笛》序曲(1928年録音)
リヒャルト・シュトラウス指揮/シュターツカペレ・ベルリン
(シュターツカペレ・ベルリンYouTubeトピックより)
シェーンベルクの楽譜に書かれた要素といえば、Hauptstimme(第1声部)やNebenstimme(第2声部)という表記で、複雑に入り組んだ楽器の中からどの部分が主として聴こえるべきか指定されていますよね。でもそれ以外を単純に伴奏と切り分ければいいわけでもないですし、どのように考えていますか?
ロベルト・シューマンのピアノ音楽や室内楽にもそういった側面がたくさんあります。必ずしも対位法的ではなくとも、縦の線が合わずに色んな要素が同時進行しているんですね。仮に全ての要素を理想的に表現できた演奏があったとしても、人間の耳ではそれらを全部同時に聴き取るのは不可能だろうし、それが必ずしも美しいとはいえない。
だからメインとなる声部(Hauptstimme)の周りに渦巻くものとして、メインの声部と同じように生きているものとして演奏したい。人間社会と似ていて、スポットライトが当たらなくてもその人はずっとそこにいるんです。そういう音楽を初めて表したのはシューマン、彼ととても似ているのがワーグナーだと僕は思っているのですが、シェーンベルクの周りでいうと弟子のベルク(1885〜1935)のピアノ・ソナタ 作品1(1907〜08)には至るところにアゴーギグ(テンポの変化)の指示が書かれていて、あの曲を弾くたびにどこに耳を傾けるのか? どういう状況を作っていこうか、いつもいつも考えるんです。あれは本当にロマン派を極めた音楽で、《室内交響曲第1番》も同じマナーだと思います。
《月に憑かれたピエロ》に、ドビュッシー(1862〜1918)を組み合わせたのはなぜなのでしょう?
好きな作曲家を5人挙げろと言われたら絶対入ってくるのがドビュッシーで、最初期の信じられないほどのロマンティシズムも、≪夜想曲≫≪海≫のような管弦楽曲も、そして晩年の≪前奏曲第2巻≫や、今回も取り上げる≪チェロ・ソナタ≫のような作品群まで、その歩み方も含めて、どれも本当に好き。非常に愛着のある作曲家なんです。
いつかシェーンベルクと組み合わせたいと、実はソロの方でずっとあたためているアイデアはあるのですが、今のところ実現はなかなか難しくて……。昨年のラ・フォル・ジュルネTOKYOでは《ピエロ》の前に、ドビュッシーの(《ベルガマスク組曲》の)〈月の光〉を演奏しましたが、それは単に「月」という共通点だけではなく、この曲のもともとのタイトルが〈センチメンタルな散歩道〉だったということもあります。

今回は歌曲の方の〈月の光〉(《艶なる宴》より)を取り上げますね。
今回、〈月の光〉を含む4曲をピックアップして、《ピエロ》と同じ編成(ソプラノと五重奏)に僕が編曲します。ドビュッシーの歌曲すべてに目を通して、≪ピエロ≫と親和性のある詩を持つ作品を選びました。あれほど違う音楽を書いた彼らですが、驚くほど多くの作品で、インスピレーション元を共有しています。一番有名なのはドビュッシーがオペラ、シェーンベルクが交響詩を作曲したメーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』ですけど、《ピエロ》の素地にあるコメディア・デラルテ(16世紀のイタリアで発祥した即興で演じられる仮面劇)も、ドビュッシーの〈パントマイム〉や〈セレナード〉とつながっていますね。
そう考えると、《チェロ・ソナタ》の第2楽章もセレナードなので、どことなく繋がりますし、歌曲の〈セレナード〉の冒頭は《室内交響曲第1番》を思い起こさせますね、面白い! さて今回演奏するのは4曲ですけど、北村さんが名付けたタイトルは《7つの歌曲》とのことなので、各部が7曲ずつで構成された《ピエロ》に掛けているわけですね。
≪ピエロ≫同様、指揮者を起用すれば7人で演奏する曲です、今回はいませんけど。編曲というのは、余計なことでもあって、オリジナルが素晴らしいのだからそのままやるのが一番なのですが、でもヴェーベルン編の≪室内交響曲≫もそうですし、或いは彼らがやっていた私的演奏協会でも、編曲は常に行われていました。それこそ≪牧神の午後への前奏曲≫も、シェーンベルクが編曲していますね。今回は、《ピエロ》を意識して、楽曲ごとに楽器の組み合わせを変えています。
《ピエロ》は特に第1部で、5名の奏者全員が演奏しない曲が案外と多いんですよね。全員演奏する曲でも、一部の楽器は途中でいなくなってしまったり、最後にしか登場しなかったり。
同じ組み合わせを出来るかぎり避けていますね。なので、この編曲では、彼が≪ピエロ≫で選ばなかった編成を用いることを試みています。普通の編曲というよりは《ピエロ》の前に演奏するための編曲として考えています。といっても、コンセプトだけじゃつまらない。もちろんドビュッシーだけを聴いても作品として成立しているという編曲を目指しています。
話題はチェンバーミュージック・ガーデン(CMG)から外れるのですが、同じくサントリーホールが主催するサントリーホール サマーフェスティバルに昨年出演し、現代音楽における伝説的な演奏家のひとり、アーヴィン・アルディッティ率いるアルディッティ弦楽四重奏団と共演されましたよね。
現代の作曲家や作品を聴こうと思ったら、気付かぬうちに聴いているような存在が、アルディッティ弦楽四重奏団ですからね。彼らは、作品を演奏するというより、作品の成立から密に関わっている、つまり彼らがいないと生まれてこなかった作品が数多くあります。そんな存在とご一緒させていただくのは、もちろんものすごく光栄だと思いましたが、実際に共演してみると多くの気付きがありました。
サントリーホールでの本番前の数日間、ロンドンにあるアーヴィンの自宅に集まってリハーサルをしていたんです。彼らのスタイルは確立されていて、色んな意味で驚かされました。非常に合理的かつクリアな人なので、日々の練習やリハーサルで、あちらこちらに寄り道をしている僕のやり方とは、地球の裏側といって良いほどに違う。演奏方法が見つかったら、あとは本番それをやるだけ、というスタイルに、初めはとても戸惑いました。でも、こちらが曖昧さを排し、きちんと説明すれば、色々なことを試してくれるし、そこに余計な気回しや飾りの言葉は一切必要ない。そんな共演でした。
でも、それよりも僕にとって、本当に心に残ったのは、リハーサルが終わったあと毎晩、アーヴィンと、彼のイギリス式の庭で、ワインを飲んでいた時間。そこで彼は、彼の今までの経験を色々と、とてもリラックスした状態で話してくれました。何かを伝えるという感じでもなく、ちょっとした思い出話みたいなものばかりで、もちろん僕にはその内容も意味のあることでしたが、その口調やくつろいだ雰囲気、ロンドンのちょっと湿った夜の空気の匂いとか…なにもかもが、本当に特別な感じがする時間でした。

(サントリーホール サマーフェスティバル 2024より)

とても貴重な経験をされましたねえ……。
これこそ無意味な、センチメンタルな感想かもしれないけど、誰かにそうやってあたたかく迎えてもらったという体験で、僕も今までより少しだけ心が広く持てるようになるような……。何も起きていないけれど、とても重要なことがたくさん起きた、本当に忘れられない時間でした。
でも彼みたいなビッグネームじゃなくたって本当は一緒なんです。歳が近い人たちでも受け入れてくれたり、向き合ってくれたりしたのが伝わってくる瞬間は嬉しいですし、人生が充実します。
アルディッティ弦楽四重奏団と一緒に初演したのが細川俊夫さんと、アーヴィンの妻であるイルダ・パレデスさんの新作だったわけですが、この時に限らず作曲家の協働から北村さんが学んだことはありますか?
他の誰かと仕事をするという意味ではアーヴィンの話とあまり変わらないかもしれません。でも面白いなと思うのは、これまで一緒にお仕事をしてきた作曲家の人たちはリハーサルであまり何もおっしゃらない。むしろ、死んでいる作曲家の方が自分に文句を言ってくる(笑)。それに世界初演であるかどうかも、自分にとってはあまり関係なくて。

(サントリーホール サマーフェスティバル 2024より)
演奏の前例があるかどうかは北村さんにとっては関係ないと。
もちろんどんな作品であろうと、変な風に弾きたいとは思わないですよ。でも自分で納得できていないことをやろうとしても、それこそ変な結果になるだけなんです。だから語弊を恐れずにいえば、自分ならではのバージョンで……ってぐらいのことをやらないと、はっきり言って自分が演奏する意味は全くないとも思っているんです。そういう意味では、何を弾くにしても初演だと思って取り組んでいるというのは、分かりやすい喩えになるかもしれません。それは誰かを驚かせたいという意味ではなく、自分が初めて弾く……初めて聴くつもりで弾きたいです。
古楽、HIP(Historically Informed Performence)の精神にも近いですね。
HIP(歴史的知識にもとづく演奏)は要するに初演に立ち返るということでもありますから、どんな曲を弾く時でも心がけています。でも歴史的な考証が正しいかどうかは、必ずしも最優先ではなく。何の知識もなくただ感性だけで演奏しているのと、色んな知識を踏まえてそこから新しいものを生み出している演奏では、圧倒的に後者の方がいいわけで。しかもその違いは聴けばすぐ分かってしまいますから。作曲家と作品にじっくりと時間をかけて向き合って、他人事ではなくなるのが大事なのだと思っています。
小室敬幸(音楽ライター)、北村朋幹
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「月に憑かれたピエロ」をめぐる冒険<コンサート編>
日時/2025年1月25日(土)
会場/あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール
(あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール 公式YouTubeチャンネルより) -
モーツァルト:《魔笛》序曲(1928年録音)
リヒャルト・シュトラウス指揮/シュターツカペレ・ベルリン
(シュターツカペレ・ベルリンYouTubeトピックより)