主催公演

サントリーホール オペラ・アカデミー 2021/2022シーズン レポート4

「サントリーホール オペラ・アカデミー コンサート」(7/12)に向けて

香原斗志(オペラ評論家)

2年半ぶりに来日したサッバティーニ

 6月29日、エグゼクティブ・ファカルティのジュゼッペ・サッバティーニが2年半ぶりに来日し、その日からレッスンが始まった。しかし、それはサントリーホール オペラ・アカデミーの受講生たちが長きにわたって、マエストロのもとで直接、指導を受けることができなかったということでもある。
 むろん、オンラインによるレッスンは頻繁に行われてきたが、声のボリュームや空間への広がり方などはオンラインでは伝わらない。
 このアカデミーはイタリア古典歌曲や室内歌曲を勉強する2年間のプリマヴェーラ・コースと、それを修了したのちに選抜され、アリアをはじめオペラの楽曲を学ぶ2年間のアドバンスト・コースに分かれる。後者に在籍する3人はともかく、プリマヴェーラ・コース第6期(受講期間は2021年7月~2023年5月予定)に在籍する歌手11人、ピアニスト3人は選考もオンラインで行われ、歌手についてはこのコースの受講が2回目になる1人を除けば、これまでサッバティーニが彼らの生の声を聴く機会はなかった。
 コロナ禍による、まさに異例の状況であった。オペラは欧米の芸術なのに、欧米の模範的な歌い手の歌唱に触れる機会も、本場のすぐれた指導者の手ほどきを受けるチャンスも、ほとんど失われたまま2年余りが経過した。とりわけ欧米から地理的に遠く隔たった日本においては、ことさら不利な状況が続いた。
 サッバティーニは来日した翌日のレッスンで、「このアカデミーで11年教えてきたが、今年のアカデミー生のレベルは過去の先輩たちにくらべて高くない」という旨を、本人たちに向ってストレートに述べた。そうは言いながらも、「7月12日にはコンサートを迎えるのだから、それぞれがかぎられた時間に自らを最大限磨きあげなければならない」と鼓舞するのを忘れない。そして以後のレッスンは、非常に厳しいながらも鮮やかなものだった。

2019年9月指導風景
エグゼクティブ・ファカルティ:ジュゼッペ・サッバティーニ
世界的なテノール歌手として活躍し、1993年からサントリーホール主催「ホール・オペラ®」に出演するなど日本でも絶大な人気を誇っていたが、2007年から指揮者および声楽指導者の道を歩み始めた。これまでに母校のサンタ・チェチーリア音楽院(ローマ)やヴェルディ音楽院(ミラノ)、イタリア国立ラティーナ音楽院等で教鞭を執るほか、伝統あるシエナのキジアーナ夏季マスタークラスなど、世界各地でマスタークラスを開催。また、主要な国際コンクールの審査員を務めており、ウンベルト・ジョルダーノ国際オペラ・コンクール、サンパウロのマリア・カラス国際声楽コンクール、ローマのオッタヴィオ・ジーノ国際オペラ・コンクールでは審査委員長も務めた。指揮者としては、欧州や日本を中心に世界各地で活動し、マリエッラ・デヴィーアら一流歌手と共演している。

コーチング・ファカルティの価値

 私は3月9日に行われたアカデミーの「オペラティック・コンサート」のしばらく前から、アカデミーの見学を重ねてきた。時間が許す範囲においてだが、その累計は何十時間かになると思う。そこで行われたレッスンは幾重にも濃いものだった。
 サッバティーニによるオンライン・レッスンは、イタリアとの間に8時間(夏期は7時間)の時差があるため、原則として午後5時に始まって9時に終わる。だが、このアカデミーのレッスンはそれだけでなく、早い時間からコーチング・ファカルティであるプロの歌手、天羽明惠、野田ヒロ子、櫻田亮、今尾滋、増原英也とピアニストの古藤田みゆきのもとで指導が行われる。イタリア語による詩の解釈などは、森田学の指導を受けられる。
 そこでは、とくにプリマヴェーラ・コースの受講生は、発声の基礎から徹底的に鍛えられる。サッバティーニが提唱する「シレーネ」と呼ばれるハミングに近い発声練習から、イタリア語の「a」「閉じたe」「開いたe」「i」「閉じたo」「開いたo」「u」という7つの母音の作り方、その母音をつなげ、さらには言葉として歌うための基礎が、いわば一から教えられる。
 プリマヴェーラ・コースの受講生も、全員が音楽大学の学部はすでに卒業している。声楽を学んだ学生たちのなかでも逸材が集まっているはずで、各人とも学生時代にも基礎をおろそかにしたつもりはないはずだが、レッスンを見ていると、一様に基礎の構築が甘いことを痛感させられる。
 ファカルティたちは、横隔膜でいかに支えるか、どうすれば声を息に乗せられるか、息の圧力を落とさずに音量を下げるにはどうするか、どうしたら声がこもらずに前に飛ぶのか、といったことを、時に厳しい調子で教える。それができなかったり、あるいは理解が足りなかったりすると、きつい言葉が投げられることもある。たとえば「どうすれば声をクレッシェンドさせられるか」という問いに対し、「息の速度を変える」と返答したアカデミー生は、「必要なのは腹圧と鼻腔共鳴だ」と指摘されたのに続き、「そんなことも知らないのは怠慢以外のなにものでもない」と、厳しく叱責されていた。
 近年、学校教育で厳しい言葉が排除されてきたこともあり、いまの若者たちは厳格な指導に慣れていない。しかし、世界に伍していこうという気概をもつ若者が減っている一因は、厳しさに耐える経験をせずに成長してしまうことにあると私は考えている。事実、アカデミー生が今後、海外に留学すれば、こうした厳しい指導にまちがいなく直面する。日本で慣れておかなければ、留学したところで早晩つぶれてしまうし、そもそもプロの厳しい世界に耐えられないだろう。その意味でもファカルティたちの指導には価値がある。

左から天羽明惠、野田ヒロ子、古藤田みゆき
左から今尾滋、櫻田亮、増原英也、森田学

サッバティーニのオンライン・レッスン

 オンライン・レッスンでは、サッバティーニは豊かなジェスチャーを加えながら、指導を重ねていった。しかし、基礎ができていないと判断すると、「自分には一から教える時間はないのだから、身につけることは身につけたうえでオンライン・レッスンを受けてもらわなければ、指導のしようもない」という旨を告げられ、日本人のコーチング・ファカルティに差し戻されたりもする。
 言い方を変えるなら、出直しを言い渡されても、もう一度基礎を鍛え直すことができる体制が、このアカデミーには整っているのである。オンライン・レッスンの休憩中にコーチング・ファカルティが、たとえば、横隔膜をどう動かすかといった実践指導をする場面が何度もあった。
 サッバティーニがアカデミー生に指摘する点は多岐におよぶ。たとえば母音。イタリア語は母音を強調する言語なので発音も日本語に近い、という誤解をしている人が音楽の世界にも少なくないが、実際には、それぞれの母音は似て非なるものだ。なかでも日本人にとって難しいのが「u」の発音で、イタリア語の「u」は舌の先を上に丸め、その奥から引きだすように発音され、くちびるだけを突き出して発せられる日本語の「う」とは大きく異なる。
 私自身、海外の歌手や指揮者から日本人歌手の「u」が奇妙な音だという指摘を何度も受けており、日本人にとって典型的な弱点のようだ。サッバティーニも口うるさいほどに指摘し、口内の空間を広げるように指導する。また「l」と「r」の違いや二重母音であるか否かという点にも、細かく指導が入る。
 「息をコントロールしなさい!」という指導も繰り返される。「息で歌い、唇を動かさない。舌の位置で母音を変えるのだ」と。のどに力が入ってしまう受講生が多いので、「喉を緩めるように」という指摘も多い。
 そして「支えなさい!」と何度も声がかかる。横隔膜で息を支えることを表わすイタリア語の動詞をアッポッジャーレ(appoggiare)といい、この言葉が頻繁に聴かれる。じつのところ、アッポッジャーレできないかぎり声のボリュームを得ることも、音を鼻腔共鳴させることも、音を前に響かせることもできない。だが、基礎が固まる前には、歌っているあいだに気づかずに支えが失われがちである。サッバティーニはそれを見逃さない。
 アカデミー生がそれらを条件反射的に行えるようになるまでには、どうしても時間がかかるし、修得するまでの時間にも個人差がある。だから指摘されていったんは修正されても、ふたたび悪い癖が顔を覗かせることがある。いや、そういうケースのほうが多い。するとサッバティーニは「いったい何度言わせるのか」と声を荒げる。しかし、こうして突き放すように厳しく言われるから、大事なことが身につくのである。そこでへこんでいては、歌手として大成することなど、到底おぼつかないだろう。
 もちろん、歌詞の内容に即して歌うように、「もっとやわらかく」「よろこびを表わせ」「苦しみの表現が足りない」といった指導もなされ、歌われる感情について、延々と説明がなされることもある。

基礎に戻りながら発展させる

 さて、来日したサッバティーニは、ひとり一人をレッスンしながら、「声の抑揚を常に一定に保たなければダメだ!」「声のポジションをいつも一定にしなさい!」「声を押さずに、喉を自由にしなさい!」と、指導を重ねていった。
 実例をいくつか挙げたい。
 プリマヴェーラ・コースの髙橋茉椰(ソプラノ)はモーツァルトの「安らかな微笑みが Ridente la calma」を歌って、「よく歌えていてフレージングもできているが、ボリュームがゼロだ」と、繰り返し指摘された。声を押して、その際にのどを閉めているので響きが増えない。このままでは広い空間で歌っても聴こえないから、横隔膜で息をしっかり支えるところから始めてボリュームを得るように、と指導された。サッバティーニは髙橋の声を盆栽にたとえた。「作りこまれているが小さい」という意味である。
 こうして指摘を受け、そこを強く意識して歌うと、だれが聴いてもわかるくらい欠点が修正されるからおもしろい。あとは、さらに修正を重ね、本番まで維持できるかどうかである。サッバティーニはコンサート本番で「安らかな微笑みが」を歌うように指示したうえで、「この曲は古典歌曲だがコンサート・アリアでもあるので、いつも力がある人に歌わせてきた。だから、アカデミー コンサートに来るお客さんは過去のすばらしい歌と聴きくらべるよ」と、プレッシャーをかけるのも忘れなかった。
 同じくプリマヴェーラ・コースの東山桃子(ソプラノ)は、ヴィヴァルディの「忠実でいることの喜びと共に Col piacere della mia fede」を歌い、声のポジションを高く保ち、喉に負担をかけるなと指摘された。ポジションを高く保って歌えていても、音域が下がったとたんにポジションが下がって、のどを使ってしまう。そこでサッバティーニは、先の述べたシレーネから発声の基礎をもういちど確認させた。すると、たしかに声が変わる。
 声を前に響かせるために、その基礎がいかに大切か。サッバティーニは「第6期生はオンラインだったので、従来は半年を費やしていたシレーネに時間をさけなかった」と述べ、シレーネから始めて母音を作り上げることの大切さを、あらためて強調する。そのうえでクレッシェンドもディミヌエンドも、ポジションを保てなければ表現できないと、全員に向って説く。そのうえで東山に、ヴィヴァルディならではのシンコペーションを、「レガートにならないように」「もっとリズミカルに」と指導し、曲を構築していった。

他人のレッスンは自分のレッスン

 こうした模様を、原則としてほかのアカデミー生も聴いている。サッバティーニは「ある人に有効なことは、ほかの人にも有効で、ほかのアカデミー生への指導を聴いて自分も変われると意識すべきだ」と説いたが、事実、そこにこのレッスンの価値がある。
 アドバンスト・コースの岡莉々香(ソプラノ)は、ドニゼッティのオペラ『愛の妙薬』からアディーナの「受け取って、私のおかげであなたは自由よ Prendi per me sei libero」を歌った。彼女も横隔膜の支えが弱く、ポジションが後ろにあって声を押してしまっていると指摘された。だから、しっかり支えて胸を使い、ポジションを高く維持するように指摘されたうえで、やはりシレーネを確認させられた。その後、声のピッチも上がっていった。
 アジリタを連ねて声を上昇させたのち、一気に下降させるフレーズも、シレーネを試みたのちは少し安定した。息が続かないきらいがあるが、サッバティーニは「怖がるな」と言ったうえで、「きみの最大の問題は支えだ」と課題を伝えた。
 辛辣な言葉で受講生の欠点を指摘しながらも、そこを修正すれば確実によい結果につながることを体感させ、自信をつけさせながらも厳しく鼓舞する。先に「鮮やかなものだった」と述べたのは、こういう指導である。
 本場のすぐれた指導者の手ほどきを受ける機会が乏しい日本の若い歌手たちにとって、日本にいてはなかなか見いだせない正しい方向性を、乗り越えるべきハードルを厳しく提示しながら指し示してもらえるのは、やはり得難いチャンスだというほかない。

12日間の超集中レッスンを経て

 ほかの歌手たちへの指導も順調に重ねられていった。プリマヴェーラ・コースの受講生から、以下に概略を示してみたい。
 小宅慶子(ソプラノ)は、サッバティーニからは母音に問題があり、押して歌うので音がつぶれると指摘された。潟美瞳(ソプラノ)は発音に少し難があり、声に敏捷性はあるが、なめらかな歌い方に弱点を見出されていた。岩石智華子(メゾ・ソプラノ)も同様に母音がそろっていないと指摘されていた。
 伴野公三子(メゾ・ソプラノ)は良い声をもっているが、支えが外れてポジションが下がりがちな点を指導されていた。ビブラートをしっかりかけろ、という指摘も。ビブラートについては、多くの受講生が注意されていた。息が支えられていればビブラートは自然にかかる、というのだ。牧羽裕子(メゾ・ソプラノ)は深い声が広がるが、歌いながら支えが外れてしまう。
 プリマヴェーラ・コースの受講が2回目の頓所里樹(テノール)に対しては、声が前に向わないこと、フレーズが途切れてしまうことなど、初めてでないだけにどうしても指導が厳しくなる。谷島晟(テノール)は、良い声だが少し押し気味。石本高雅(バリトン)も響きは良いが、低声なのに低音が出ない。「もともとバリトンだったのか」「なぜテノールからバリトンに転向したのか」と突っ込みを入れられていた。
 プリマヴェーラ・コースの受講生は、やはりプリマヴェーラ・コース(ピアノ)の岡山真奈、齊藤真優、横山希のいずれかと組んで演奏する。ピアノに対してもサッバティーニから、「もっとリズムを」「遊びがほしい」といった注文が投げられる。
 アドバンスト・コースの受講生に対しては、長く指導をしてきただけあって、サッバティーニもより厳しくなる。萩野久美子(ソプラノ)は、声をもっと前に響かせるように指摘された。石井基幾(テノール)に対しては、喉で押してばかりで自然な響きがつくれていないと、苛立ちながら罵倒される局面もあった。ちなみに、アドバンスト・コースの受講生が歌う際は、コーチング・ファカルティの古藤田みゆきがピアノを弾く。
 もちろん、期待が大きいほど言葉が厳しくなっていることが、容易に察せられる。そして多くのアカデミー生は、マエストロの指摘を受けたのち、少しずつでも声が変わっている。
 たしかに言えるのは、日本にいながらこうした本質的な指導を受ける幸運に恵まれた若い歌手は、滅多にいないということである。だから、日本における同様のアカデミーで学んだ歌手とくらべ、発声や発音、言葉のつくり方など基礎のレベルは総じて高い。
 サッバティーニによるレッスンは、日本に到着した6月29日から、コンサートの総稽古(ゲネラル・プローベ)が開催される7月10日までの12日間に、2日間のオフを設けただけで集中的に行われる。コロナ禍だったので致し方ないとはいえ、先輩たちの水準に達していないと言い放たれた彼らは、7月12日までにどれだけ弱点を克服し、成長を見せるだろうか。楽しみでしかたがない。