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サントリーホール オペラ・アカデミー 2019/20シーズン レポート

マエストロ・サッバティーニとの快調な9年目…しかし予想外のレッスン・シーズンに

山田真一(音楽評論家)

●第5期生のシーズンがスタート
世界のオペラハウスにその足跡を残してきた名テノール、ジュゼッペ・サッバティーニがエグゼクティブ・ファカルティを務めるサントリーホール オペラ・アカデミーも2019/20シーズンで第5期生を迎えた。サッバティーニ体制になってから9年目。一期2シーズン制の初年度になる。
軸となる20代を対象としたプリマヴェーラ・コースは今期、人数は厳選されたが、本アカデミー特有の「シレーネ」と呼ばれる発声方法を知っている受講生、初年度からサッバティーニのイタリア語を理解できる受講生…と質が高いことをうかがわせた。過去には秋のレッスンではひたすらシレーネに取り組むという年もあったが、今年は発声はむろんだが、それに加えてイタリア語の理解への指導、音楽そのものに関する指導というように、プラスアルファの指導を受けている受講生も早くも現れた。
例えば一年目ながら、ペルゴレージ『奥様女中』の「私の怒りんぼさん」のレッスンに秋から取り込んだ受講生の場合、音程 音階、発音への注意を促すと同時に、なぜ“静かに”と呼びかける時に敢えて濁音になっているのか、その理由を説明。音楽的にその場面をどのように処理すべきか、というように第一線のプロとしての知識をサッバティーニは次々と披露しながら指導する流れだった。
本オペラ・アカデミーも周知度があがってきたためか、予め内容を理解して参加する受講生も増え、秋からのレッスンを見学しても幸先の良いスタートの印象を受けた。

●「オペラティック・コンサート2020」への準備
また3月に行われる予定の「オペラティック・コンサート」で歌う曲の指導も始められ、既存受講生らがそれに取り組む様子も見学できた。それに合わせて、同コンサートに参加する修了生のレッスンも見学できた。
ヴェルディのオペラ『ファルスタッフ』は、本アカデミーでは例年フィナーレをアンコールとしてファカルティも一緒になって歌うレパートリーとして馴染み深い。このオペラの第一幕第二場で歌われる女声による四重唱「アリーチェ…メグ…ナンネッタ」も、しばしばコンサートで取り上げられる技巧的で聴いていて楽しい曲だ。
長年サッバティーニの指導を受けプロとしても舞台に立っている修了生らだが、コンサートへ向けての曲づくりはアカデミーと何ら変わらないもの。逆に言えば、アカデミーの彼の指導がいかに実践的で水準が高いかという証でもある。内容的にはアドバンスト・コースのコンサート前の指導の様子に近い。まず、曲が歌われる場面の状況説明をするが、いつもながらのコミカルな語り口も忘れない(特に『ファルスタッフ』は喜劇なので)。

「もっと一人一人が、生き生き歌うように」
サッバティーニは説明を通して、歌い手にすでに舞台に立っているかのような認識を持たせていく。すると説明後、歌い手の表情も豊かになり、自然と身体にも動きが付き、それぞれのキャラクターになったかのように歌いだす。
それを見たサッバティーニにも力が入り、ピアノにも細かく指示を出すために指導する位置も変えていく。それはまるで演奏者と指導者が互いに綱引きをしながら動いて行くかのよう。さすが修了生たちだけあって理解も速く、歌にすぐ指導内容が反映されていくのは小気味良い。するとサッバティーニはさらに力を入れて歌の場面の状況説明を披露し、日本人ファカルティも知らない説明や解釈にその場に居た全員が聞き入る。『ファルスタッフ』はとても技巧的で、フォルテでないところに難しさがあるので、オペラ好きなら是非見学してみたいと思わせる内容だ。時にはファカルティ全員参加でテンポの確認をするなど、アカデミーの一体感もあり、参加者の充実感が伝わってくるものだった。

サッバティーニによるレッスン(2019年9月)

●予期せぬアカデミーの中断
ところが年が明けた2020年、COVID-19と命名された新型コロナウイルスの波が日本にも襲い掛かかった。やっかいなことに、このウイルスは飛沫から感染するという。対面での会話はもちろんだが、歌うことで人は飛沫をかなり飛ばす。歌のアカデミーの活動はどうなるのか、と心配していたところ、2月末に政府から大型のイベント・集会の中止等の要請、学校の休校要請。4月には緊急事態宣言により全市民への外出自粛の要請という予想外の社会状況の中で、予定されていた「オペラティック・コンサート」は中止。サッバティーニの来日指導も中止となり、オペラ・アカデミーの活動そのものが脅かされる事態となった(緊急事態宣言発出によりサントリーホールは休館となった)。特に春以降ヨーロッパでコロナ感染が猛威を振るい始めたことから、海外からの渡航に厳しい制限が加わり、当面はサッバティーニが日本で指導することは不可能になった。

しかしアカデミーのスタッフ、ファカルティ等の多大な尽力により、4月以降はYouTubeによる間接的なレッスン、そして6月には感染症拡大防止ガイドラインを策定のうえ、日本人ファカルティによる対面によるコーチング・レッスンが再開された。この時点では日本中の学校やレッスンが中断していたことを考えると、受講生にとってはこの早期の再開は「とてもありがたかった」と口を揃えて感謝するほどの早い動きだった。
そして、ローマ在住のサッバティーニによるZoomによるオンライン・レッスンも6月中旬より実施されることになり、サントリーホール オペラ・アカデミーの活動も再び軌道に戻ることが可能になった。

感染症拡大防止ガイドラインを策定のうえ、対面レッスンを再開(2020年6月)

●コロナ禍でのオンライン・レッスン
コロナによって世界中で自宅待機、リモートワークが進んだ2020年、仕事や学習などで欠くことのできないツールとなったのがZoomアプリケーションだ。これは米国のZoomビデオコミュニケーションズが提供するインターネット利用によるWeb会議サービスで、パソコン、スマホなどインターネット利用が可能なコンピュータ機器で利用できる。同種のサービスは多々あるが、Zoomは初心者にも簡単に利用でき、少人数短時間であれば無料というハードルの低さから世界で今回、爆発的に利用者が増えた。
オペラ・アカデミーではこれをリハーサル室内のパソコンやタブレットと、サッバティーニのパソコンを繋げ、いわばネット中継する形でレッスンを再開する体制をつくった。ここでオペラ・アカデミーとして重要なのは、やはり「音」の設定だ。ネットを介したコミュニケーション・ツールは従来からテレビ電話をはじめ多種多様あったが、クラシック音楽のような繊細な音とまで言わずとも、音声の質に関しては二の次というものが多かった。筆者も従来アプリでは音声が聞き取りにくいという問題から余り使わないでいたが、Zoomアプリはシンプルな仕様にも関わらず、音声が良質で、参加者が何十人となっても質が落ちないことに驚いた。とはいえレッスン室の音とまったく同じものが機械を通して届くはずもないので、ファカルティとスタッフはこの問題に事前に力を入れて取り組んだという。その甲斐あってZoomレッスンが軌道に乗ると毎週連続して東京・ローマ間でアカデミーレッスンが行われることになった。
筆者もZoomを通して取材することになったが、多人数で繋げているにも関わらず、レッスン室の音、サッバティーニの指導内容ともによく聞こえ、指導を受けることにより、受講生の声や歌い方に変化が起きる様子もじゅうぶん聞き取ることができた。その点で、今回のような困難の中、Zoomは実に有効なコミュニケーション・ツールだと感じた。

ローマ在住サッバティーニによるオンライン・レッスン(2020年6月)
リハーサル室後方でオンライン・レッスンを聴講する受講生

●Zoomレッスンのある一コマ
東京は従来と同じサントリーホール内のリハーサル室。通常であればサッバティーニが受講生全員の聴講を奨励しているが、コロナ対策で室内には当日レッスンを受ける受講生のみという制限。それ以外はZoomにて参加。受講生と伴奏ピアニストの間にはビニールパテーションが張ってある。歌唱者以外はピアニストを含め全員がマスク着用。歌唱者が変わると床やパテーションの消毒をし、ピアニストが変わると鍵盤を拭くというようにコロナ対策が徹底されている。
一方、サッバティーニはローマにある自宅の仕事場。パソコンの小型カメラを通しても膨大な楽譜と、美しい楽器が置かれていることがわかり、庭に面したいかにも芸術家の部屋という感じが伝わってくる。Zoomアプリでは参加者の中から画面を選んで拡大することもでき、画像的にもより多くの情報に接することが可能なため、東京、ローマともに様子がよくわかった。

レッスン内容は従来と全く同じ。サッバティーニには東京滞在中と同じように細かいジェスチャーを交え、表情豊かに、時に歌いながら指導する。聞こえてくるのも間違いなくサッバティーニの声とわかるもの。
取材中、偶然にも秋のレッスンで聴いた新受講生に再び接することもできた。曲も偶然にも秋と同じ『奥様女中』のアリア。半年の成長ぶりがZoomからも聞き取れ、声にもっと伸びがでてきたように感じられた。しかし、サッバティーニの指導は従来どおり。問題点をあっというまに10以上指摘。Zoom越しでもレッスンの緊張感が伝わってきた。
例えば、「ポルタメントとレガートを混同しないように」、「音が下がってくるのは頭への響かせ方が悪いからだ」と歌の途中でもすぐに止める。また、少しでも音階がズレたり、ぶら下がったり、スムーズでないとやはり即座に止める。Zoom越しでも、まるで同じ部屋にいるかのように問題点をサッバティーニは発見し、修正させた。
曲の前には発声練習をまず行うが、それは単なる準備運動でなく、曲を見越しての発声の準備、声のコントロールの練習となっている。そして、発声で出た課題は、アリアでも同じように出てくる…そのため「もっと発声練習を」という指摘がサッバティーニから何人にも出された。
それでも彼女の場合、新受講生の中では発声ができているので、歌詞の内容にも踏み込んだ指導にも入っていった。

「何のために、その言葉を発していますか」
といつものように、その場面の歌い手の心情、行動を細かく理解させる指導を行う。こうした指導の時には東京では立ち上がって大仰な仕草もするが、それも同じ。そのため時に顔が画面からはみ出るほどの勢いも(!)
「演技がまだまだ!きれいに歌おうとしていて、演者になっていない」
とオペラのアリアならではの指摘も何度も出る。そして、音量の変化、アクセントの付け方などの指摘は、決して勢いで言っているわけではなく、楽譜にある記号通りなのだ。
サッバティーニが、大きいとはいえないタブレット画面に映し出されるため、「最初の頃はタブレットに向かって声を出してしまった」と受講生には戸惑いもあったようだが、新受講生、既存受講生、アドバンスト・コース生、それぞれの特徴どおりのレッスンがオンラインでもされているという印象を筆者は受けた。

Zoom越しでも緊張感のあるレッスン
ジェスチャーを交え、表情豊かなサッバティーニ

●「オペラ・アカデミー コンサート」ゲネプロ
コロナ禍で2020年のレッスン取材もZoomによるものに限定されたが、9月下旬のコンサート前、ゲネプロから現地取材が許可された。ブルーローズ(小ホール)へ行くと、映し出された画面でしかうかがい知れなかった状況がよく理解できた。
サッバティーニが映るタブレットは歌い手の正面に置かれ、ちょうどサッバティーニと対面しているような感じになる。タブレットの横にはパソコンを操作するスタッフが座りZoomを操作。オペラ・アカデミーにとっては生命線でもある「音」を拾うために高性能マイクを別にセッティングしている。レッスンではこれでうまく行っていたが、場所をホールに移したことでやはり音量調整に時間を掛けることになった。普段話す音量とは全く違う、しかもホールに響く音という点でスタッフの苦心が伝わってきた。
ゲネプロなので、歌を止めず歌うという流れは例年と同じだが、その場にサッバティーニがいないということで、今回は全員がまず歌ってから、コメントは最後にまとめて出すという形になった。例年なら歌っている間にサッバティーニがジェスチャーで様々な指示を出すが、今回は日本人ファカルティが送っていた。

前半を終えて全員舞台に並んで待機してタブレット画面から発せられるサッバティーニのコメントを聴いた。一人あたり2分程度だが、イタリア語の発音、フレーズ、音量、音程、姿勢や身体の使い方、発声の仕方、リズムの取り方、表情、さらにピアノ伴奏に至るまで実に細かく、良かった場合ははっきり褒めるなど、ホールにいる筆者にも違和感のない、例年のサッバティーニと変わらぬコメントだった。
本番前にも係わらず(だからこそ)、コメントは厳しいものが並んだが、筆者にとっては数か月ぶりの受講生のナマの声は聴いていて心地よく、今期は少数精鋭と聞いていたが全体として高い水準だと感じた。
難しい点はやはりピアノの音。マイクは歌い手の前にあるので、ローマにどこまで正しく音量や音色が伝わっているのか、ファカルティやスタッフの調整が必要だった。
サッバティーニのコメントがいかに的確だったかを証明するように、ゲネプロの後半はすべての受講生の声が良くなっており、表情も豊かになったのが印象的だった。

サッバティーニのコメントを聞く受講生

●一年目を締めくくるコンサート
9月24日、第5期生の「サントリーホール オペラ・アカデミー コンサート」が行われた。プリマヴェーラ・コースの副題は「イタリア古典歌曲およびオペラ・アリア」、アドバンスト・コースは「イタリア室内歌曲およびオペラ・アリア」である。出演者はプリマヴェーラ・コース第5期生9名(うち新規生5名、ピアノ1名)、アドバンスト・コース第4期生2名となった。
コンサートは後半に向かって良くなり、例年と変わらず各受講生が一年の成果を存分に出せた内容だと感じた。
異なったのは全員参加のアンコールがなかったこと。舞台は受講生のみで、ファカルティの舞台紹介もない、「密」を避けたものだったが、まだ一般のコンサートも少ない中、久しぶりに生の歌い手の声を聴けたという感慨からか、例年に劣らない拍手が会場からは送られた。
もう一つ例年と大きく違ったのは、恒例のサッバティーニが会場後席に座り曲を盛り上げていくようなジェスチャーを送ることがなかったこと。このことに関して、後日受講生に話を聞くと、既存の受講生からは「いつもはマエストロの顔を見ただけで思い出したこともあったので、違和感があった」、「今年は聴衆だけだったので逆に緊張感があった」、「コンサート直前までオンラインで声を掛けられていたので、見られている(コンサート状況はローマに生中継)という緊張感を持てた」という声があった。新規受講生は例年の様子は知らないものの「見られているという意識を持ってできた」、「指導されていた雰囲気を頭に浮かべてできた」と、不在でも中継されていることから緊張感を持てたようだった。

「オペラ・アカデミー コンサート」より(2020年9月)

●Zoomレッスンの感想
しかし、リモート指導のすべてがこれまでのオンサイト指導と同等とはやはり言い切れない点も参加者からみればあったようだ。
3年以上アカデミーに参加している受講生からは、「終わったあとすぐに感想を聴けずに残念」というものや、コンサート後のメールのやりとりではサッバティーニの感想が「現場の生で聴くものとは違う感じ」だったという声があった。
レッスンにしても回線や使用機器の調子いかんでは音が聞きづらいこともあったようで、すべてが最良の状態ではなかったようだ。また、声もまた「楽器」である以上、通常の声とは違い、音色その他微妙な表情をすべてリモート機材で伝えているかは難しく、聞く側のスピーカーによってもかなり変わるだろう。レッスン中であってもプロを目指す受講生たちだけに天井の高いリハーサル室いっぱいに響きわたる声量をマイクが拾えず、またソフト側で音割れを避けるために音量をカットしてしまう仕組みもある。
そうした点も踏まえると、秋に一度指導をしてサッバティーニが「受講生全員の声を知っていたこと」で、質の高いレッスンがリモートでも可能だったという指摘もあった。また、ピアノの音とのバランスが課題と感じた受講生は少なくなかったようで、Zoomも万能というわけにはいかなかったようだ、
一方、通常であればサッバティーニの指導は来日時にまとまって行われるが、今回は6月中旬以降、分散して毎週のようにルーティーン化して行った結果、「レッスン回数が増えたので良かった」という。平行して日本人のファカルティの指導があり、コメントも貰えることから、サッバティーニから与えられた「課題を日本人ファカルティと一緒に解決」することもでき、スムーズに勉強が進んだという声もあった。
手探りから始まったオペラ・アカデミー初のリモートレッスンとなった今シーズンだったが、質を落とさずにコンサートまで成功させたファカルティ、スタッフに拍手を送りたい。

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