2026年9月16日(水)~11月8日(日)
※作品保護のため、会期中展示替を行います。
逸翁・小林一三は、明治6年(1873)に山梨県巨摩郡河原部村(現・韮崎市)に生まれました。慶應義塾に学び、三井銀行勤務を経て、阪急電鉄をはじめ、阪急百貨店、東宝などの阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者となりました。また戦前戦後の商工大臣、国務大臣兼戦災復興院総裁を歴任するなど、明治・大正・昭和の実業界・政界に大きな足跡を残しました。さらに宝塚歌劇の創設をはじめ演劇界・映画界においても重要な役割を果たしています。逸翁は学生時代より新聞に小説を掲載するなどの文筆活動を行い、また生涯を通じ近代数寄者として様々な人物と交流し、伝統のみにしばられない新たな茶道論を提唱したことでも注目されます。逸翁が収集したコレクションの一点一点には、逸翁の好みと美術への深い造詣がうかがわれます。

※展覧会会場では、章と作品の順番が前後する場合があります。また、展示内容は予告なく変更される場合があります。
古筆切とは古人の優れた筆跡の巻物や冊子から一部分を切りとった断簡のことをいいます。多くは鑑賞のために掛軸に表装され、あるいは手鑑・屛風に貼られ大切にされてきました。逸翁美術館は伝 小野道風筆の「継色紙」など、平安・鎌倉時代にさかのぼる古筆切を多数収蔵しています。『谷水帖』は、近代数寄者である鈍翁(益田孝)が、所蔵した古筆二十四葉を手鑑に仕立てたもので、「石山切」「高野切」に代表されるように、優美な仮名文字や華麗な料紙装飾が見どころです。貴重な「佐竹本三十六歌仙絵巻」は、大正8年(1919)に一歌仙ごとに分割され、逸翁は「藤原高光」を入手しています。さらには「楞伽経」「目無経(白描絵料紙金光明経)」「十巻抄」などの経典・経巻類も充実しており、逸翁コレクションの格調の高さを物語っています。


逸翁が収集したコレクションには、鎌倉時代の「地蔵十王像」や室町時代の稚児物語を絵画化した「芦引絵」のように、仏画や絵巻、奈良絵本においても優品が含まれています。豊臣秀吉(1537~1598)の面貌をとらえた「豊臣秀吉画像」には「これがよくに(似)申よしきい(貴意)にて候」との書入れがあり、没後に多数制作された「豊国大明神画像」の元となった貴重な画稿です。ほぼ同時代の「三十三間堂通矢図屛風」や「露殿物語絵巻」では近世初期における人々の生活風俗がいきいきと描写されています。
また室町将軍家の座敷かざりに代表されるように、日本では中国を中心として異国からもたらされた唐物が珍重されてきた歴史があります。逸翁美術館の収蔵品のなかでは「犀皮稜花盆」、「堆黒蝶果盆」といった中国漆器や、日本の蒔絵技術で装飾され輸出された南蛮漆器である「花鳥蒔絵螺鈿洋櫃 付籐編外櫃」、さらには染織の金更紗など、海外の様々な地域の美意識がうかがわれる工芸品も所蔵されており、コレクションの文化史的な意義を高めています。


江戸時代の与謝蕪村(1716~1783)と呉春(1752~1811)の作品群は、俳諧を趣味とした逸翁のコレクションの中核として、充実した内容を備えています。俳諧の名手であった蕪村にとって、五七五の俳句に簡略で洒脱な絵を添えた〈俳画〉は、第一人者として自負も抱いていたジャンルです。なかでも「花見句画賛」「石画賛」は蕪村自らの俳句と文字、絵の魅力がみごとに融合した優品です。また「奥の細道画巻」は蕪村が敬愛してやまない松尾芭蕉の紀行文『奥の細道』を絵入りで写した俳画の集大成というべき代表的作品です。今回は会期中巻替えをしながら全巻をご覧いただける貴重な機会となります。
蕪村の弟子であった呉春(松村月溪)は、逸翁美術館のある池田(呉服の里)に一時期住んでいたというゆかりも深い人物でした。蕪村の没後には円山応挙のもとで画作をするようになり、「松下游鯉図」「岩上孔雀図」には応挙の写生画風の影響がうかがわれます。呉春が描いた「白梅図屛風」は逸翁美術館を代表する屈指の名品です。夜の情景を暗示するごとく藍色に染められた特殊な背景に、白い花を咲かせた梅の枝が闇から浮かび上がるような画面に静かに向き合うと、呉春の師であった蕪村の辞世の句「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」が自ずと念頭に浮かんできます。他にも円山四条派に連なる長沢芦雪、松村景文や、谷文晁、森狙仙などの個性的な絵師たちによる江戸絵画の競演も見どころとなっています。





逸翁は、実業家としても茶人としても、松永安左エ門(雅号・耳庵 1875~1971)や五島慶太(雅号・古経楼 1882~1959)などと深い交友を結び、茶会をひらいては自慢の道具の取り合せを共に楽しみました。茶入、茶碗、花入、水指といった逸翁美術館が所蔵する茶道具は、いずれも逸翁の審美眼によって選ばれ、好んで茶会に使用された器ばかりです。なかには「五彩蓮華文呼継茶碗」における逸翁銘「家光公」のように逸翁が自ら銘を付けた茶碗も少なくありません。逸翁は旧来の伝統にとらわれることなく椅子席の茶室を設けたり、外遊の際には積極的に西洋の陶磁器やガラス器を入手して持ち帰り、茶器に見立てて茶会に転用したりしてみせました。セーヴル窯の「赤地金襴手写花鳥文壺(水指)」や、「草花文緑ガラス小壺(茶器)」はその代表的な例であり、逸翁コレクションに華やかな彩りを添えています。さらに懐石料理に丼物や洋食を取り入れるなど創意工夫を試みており、新たな茶の湯の在り方を提案しました。


逸翁は評価が定まった過去の名品にとらわれず、同時代を生きる画家や工芸作家の新作にも魅力を見出し、積極的に交流を結び制作を支援しました。逸翁が三井銀行に勤務していた明治34年(1901)頃には鏑木清方(1878~1972)から「八幡鐘図」を購入したことが知られます。とくに絵画における鈴木華邨(1860~1919)と、漆工における三砂良哉(1887~1975)は、逸翁の好みに合致したようで、今もなお、それぞれ多数の作品が収蔵品として大切にされています。「黒地歌劇雛祭楽譜蒔絵棗」は、棗の蓋と身の合わせの部分に逸翁自作の歌劇「雛祭」の楽譜を蒔絵の意匠として施したもので、宝塚歌劇二十周年の記念茶会で用いるために逸翁が良哉に作らせた独創的な茶道具です。他にも、北大路魯山人(1883~1959)や河井寛次郎(1890~1966)、与謝野晶子(1878~1942)などの作品における制作経緯には逸翁との交流を物語るエピソードが知られており注目されます。


逸翁が筆を揮った「藝又藝」は、日本舞踊家の花柳禄寿に贈った扁額で、芸の道に終わりはなく、学び続け、生涯歩み続ける道なのだという逸翁の教えに触れることができる言葉です。
宝塚歌劇団に常に掲げられる「清く、正しく、美しく」という逸翁の理念は、もともとは「朗らかに、清く、正しく、美しく」と語られたことが知られています。蕪村の俳画や、洒落た逸翁銘、おおらかな茶器の見立てを思い合わせると、この逸翁の言葉の響きには、逸翁美術館のコレクション全体にも通じる晴朗な趣きが感じられるといえるでしょう。
逸翁は生前、「一都市一美術館」という構想を思い描いていました。海外視察を経たのちに、国立の美術館・博物館だけではなく、日本の各小都市にも一つの美術館を持ちたいものだと願い、いずれは美術館を開設することを見据えて各ジャンルの作品収集にも力を注いでいました。残念ながら逸翁は、昭和32年(1957)春に、この夢が実現する前に他界しましたが、逸翁美術館は、まさにその遺志によって設立された美術館に他なりません。
その4年後、昭和36年(1961)に、東京・丸の内のパレスホテル9階に開館したのがサントリー美術館です。実は逸翁の次女・春子は、サントリーの創業者である鳥井信治郎の長男・吉太郎と結婚しています。深いつながりをもつ逸翁美術館とサントリー美術館は、いうなれば親戚のような美術館といえましょう。この章では、明治・大正・昭和の激動の時代に、茶の湯を通じて日本美術に深く携わり、「一都市一美術館」を構想した逸翁の、多角的な業績と生涯を辿ります。

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