オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ

2016年6月29日(水)~8月28日(日)

※作品保護のため会期中、展示替を行なう場合があります。
※各作品の出品期間は、出品作品リスト(PDF)をご参照ください。

出展作品リスト(PDF)

第1章 ガレと祖国

シャルル・マルタン・エミール・ガレは、高級陶器とガラス器の製造販売会社を営む家庭に生まれました。父シャルル・ガレ(1818-1902)はナンシーを拠点とし、各地の製造所に委託して自社製品を仕上げていきました。1854年以来、ナポレオンⅢ世のいくつかの宮殿に食器を収め、1866年には名誉ある「ナポレオンⅢ世御用商人」の勅許状を得ています。その作風は、陶器・ガラス器ともに、素地の美しさを生かしながら、花やリボン文様などをあしらったヨーロッパの歴史主義に根付いたものでした。ガレは1863年から父を手伝い、陶器のデザインを始めます。のちに「私は父の伝統を、形や装飾を通して、ガラスや陶土において発展させていったのです。」と振り返ったように、ガレの造形の母体には、祖国に根付いた美意識がありました。 1870年7月19日、フランスがプロシア(現在のドイツ)に宣戦布告して始まった普仏戦争に、24歳のガレは義勇軍に志願して入隊します。この戦いは1871年5月10日のフランクフルト条約をもってフランスの敗北に終わり、ガレの故郷アルザス・ロレーヌ地方は一部ドイツ領に割譲されました。ガラス製造の委託先の1つであったマイゼンタールの工場は、このときドイツ領となってしまうのです。ここはかつて、ガレがガラス製造の手習いを培った初めての場所でもありました(1866-67年)。強い愛国心は、おそらくこの頃から芽生えたのでしょう。ガレの意匠には、ロレーヌ十字やナンシーの紋章アザミなどが、確固たる意思をもって施されていきました。次第に独自のスタイルを築いていったガレ様式の根底には、祖国の伝統と愛着心とが秘められているのです。


花器「フランス菊」
エミール・ガレ 1881-85年頃 サントリー美術館(野依利之コレクション)


意匠「花器〈フランス菊〉」
エミール・ガレ 1881年 オルセー美術館
©RMN-Grand Palais (musée d´Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

第2章 ガレと異国

ガレの作品には、イスラム、中国、日本など、異国の美術品の影響がそこかしこに見られます。ガレ父子の家業が繁栄した1850年代後半から1900年頃は、まさに万国博覧会の時代。世界各国が自国の文物をアピールするこの国際舞台に参加し、有効に活用しながら自社を発展させる一方で、夥しい数の出品物を目の当たりにするチャンスを得たことは、ガレが異文化を享受するうえで、極めて重要な役割を果たしました。1867年のパリ万博の際、ガレは父シャルルの参加を手伝って、半年間パリに滞在します。この万博は、欧米でのジャポニスムのきっかけとなったことでも知られます。約1,970件の日本の美術工芸品は、21歳のガレにも大きな衝撃を与えたことでしょう。そのうえ日本の展示ブースがペルシャとエジプトのブースに挟まれていたことからも、ガレがさらに双方を訪れた可能性は十分に考えられます。1871年のロンドン万博の際には半年をかの地で過ごし、アジア・オリエントのコレクションで名高いサウスケンジントン美術館(現在のヴィクトリア&アルバート美術館)を訪ね、所蔵品を詳しく研究したと伝えられています。
1885年4月、ガレは2週間ほどベルリンに滞在し、工芸美術館の中国の被せガラスを丹念に調査しました。1889年のパリ万博に出品したガレの作品には、中国の玉(ぎょく)やガラスからインスピレーションを得たものが少なくありません。出品に際し審査委員会宛に提出した出品解説書のなかで、ガレはその作り方や翡翠の模倣について、はっきりと述べています。本展には、昨年オークションに出されたガレ旧蔵の中国や日本の美術品が10件ほど展示されます。祖国の伝統とはひと味違った異国の様式は、ガレのフィルターを通し、姿を変えて生み出されていったのです。


模玉花器
エミール・ガレ 1889年 ダルビッシュ ギャラリー コレクション

第3章 ガレと植物学

ガレの作品は、さまざまな植物のモチーフで溢れています。ガレは芸術家であるとともに、植物学者でもありました。芸術を含め、94ある著作のうち40ほどは、植物学や園芸、草花栽培に関するもので、早くから植物の突然変異を支持するひとりでもありました。ガレの植物に対する深い関心は、田園や森林をこよなく愛した母ファニー・ガレ=レヌメール(1825-1891)の影響を受けています。幼少期には家庭教師に教えられ、ナンシーの象徴主義画家J.J.グラヴィル(1803-1847)の『生命を与えられた花々』を読み解いたといいます。14歳の頃から友人と植物採集に出かけ、著名な植物学教授ドミニク=アレクサンドル・ゴドロン(1807-1880)とも知り合い、入念な観察結果を教授に提供するなどして、次第に植物学に没頭していきました。1877年にはナンシー中央園芸協会の創立メンバーとなり(1891年副会長就任)、翌年フランス国立園芸協会加入、1880年には教授ゴドロンの後任としてナンシー植物園監督委員会のメンバーに任命されています。こうして植物学者としても認知されるようになったガレの自宅には、1ヘクタール以上の広さの庭園に、ロレーヌの自生種や北米の木々、日本からもたらされた草木など、2,000種以上の植物が栽培されていたといいます。作品のインスピレーションは、文字通り、ガレの隣でひしめいていたのです。
本展には、ガレの指示の下に描かれた制作のための草案や素描が、実際の作品とともに展示されています。それは単なるデザインのための絵画でなく、博物学的細密画「ボタニカル・アート」としても成り立つほどの写実性を兼ね備えています。ガレの愛情に満ちた植物学者としての研究成果は、ガラスに、陶器、家具に形を変えていきますが、これを成し得たのは、素材を探求し尽くした芸術家の高い技術力でもあったのです。


花器「アイリス」
エミール・ガレ 1900年頃 サントリー美術館(菊地コレクション) ©藤森武

第4章 ガレと生物学

「我が根源は、森の奥にあり。」
ガレ工場の扉には、オランダの生理学者ヤーコプ・モレスコット(1822-1893)の言葉を引用した一節が掲げられています。植物を愛したように、それとともに生きる虫、鳥、動物たちも、ガレの心情を語る代弁者としてアレゴリーの対象となりました。制作過程で描かれたデッサン類が物語っているように、植物の場合と同じく、ガレは取り上げた自然のモチーフを生物学的な視点から探求しています。1901年4月28日のナンシー派の第2回公開講座において、「近代の自然科学の普及に応じた装飾品を創作しようと望む制作者には、生理学的な基礎知識が必要だ。」と述べています。海の生物たちもまた、ガレに創造性を喚起させた重要な要素です。1900年8月17日に行なった「象徴的装飾」と題した講演のなかで、ガレはいかに海洋学者たちの解き明かす海の神秘が、芸術家たちの装飾の宝庫となり、思いがけない素材を提供してくれるかを語っています。
テレビもインターネットもない時代、ガレにとって、こうした知識の情報源は、家の蔵書に収められた専門書や、父の代から購読していた自然科学冊子『マガザン・ピトレスク Le Magasin Pittoresque』(1833年創刊)といった書物とその挿図が主体でした。なかでも1899年から1904年に出版されたエルンスト・ヘッケルの『自然の芸術形態 Kunstformen der Natur』は11冊の分冊で、蘭(らん)、杉、蛙、蛾、蝙蝠、くらげ等々、植物から昆虫、海洋生物にいたる無脊椎動物の精緻な細密画が掲載されており、ガレ作品の重要な発想源となったことは明白です。
しかしガレは、単に自然を博物学的に写し取ったのではありません。モチーフはあくまでも彼の心情を伝える手段であり、自然が象徴する真の感情を、色と形を与えて分かち合うこと、それこそがガレの、芸術家の役割だと考えていたのです。


昼顔形花器「蛾」
エミール・ガレ 1900年 サントリー美術館 ©藤森武


意匠「昼顔形花器〈蛾〉」
エミール・ガレ 1899年 オルセー美術館
©RMN-Grand Palais (musée d´Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF


飾棚「森」
エミール・ガレ 1900年頃 サントリー美術館

第5章 ガレと文学

学生時代、フランス語論文、ラテン語、ギリシャ語、ドイツ語、哲学、修辞学といった文系科目で次々と最優秀賞などを獲得したガレ。神話や聖書の世界を表わした作品はもちろん、特に1880年代から彼は、前時代、同時代の文学者が残した印象的な一節を作品に刻み込み、幻想的な世界を雄弁に物語りました。シャルル・ボードレール、ヴィクトル・ユーゴー、ピエール・デュポン、モーリス・メーテルリンク、ロベール・ド・モンテスキゥ、ポール・ヴェルレーヌ等々、ガレが取り上げた文学者の名を挙げれば枚挙にいとまがありません。これらは「もの言うガラス Verrerie parlante」と呼ばれ、ガレの象徴性を深遠なるものに築き上げていきました。「たとえ人が嘲ろうとも、私は中世の建築が信仰と理念に基づいて建てられたのと同様、私の花瓶に語句を与え、私のガラス器の買い手を文字によって導くというやり方を取り続けます。作曲家がオペラ台本から構想を得ることは異論なく許されるのに、なぜ装飾家には認められないのでしょう?」
1898年、作品に詩文を付すことについて、ガレはある芸術雑誌でこのように述べ、作品に人の心を揺さぶる響きを与えることの重要性を語りました。もちろん、彼の作品は詩句を説明的に表したものではありません。それだけでも十分に詩的で、幻想的な造形に、ガレは美しい旋律を与えたのです。


栓付瓶「神秘の葡萄」
エミール・ガレ 1892年 オルセー美術館
©Musée d´Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF


習作「葡萄の蔓」
エミール・ガレ 1885-1920年 オルセー美術館
©RMN-Grand Palais (musée d´Orsay) / Tony Querrec / distributed by AMF

エピローグ ガレの究極

「(前略)革命は達成された。それはもはやムラノでもボヘミアガラスでもない。最高音の弦さながらに、爪の下で震えるガラスの薄片でも、きらめくダイヤモンドの粒でもない。かつてはガラス職人の最終目標だった透明さも、昨日のガラス職人の栄光だった切子装飾も彼は求めない。ガラスはもはや、窓ガラスのような透過される物体でも、鏡のような反射像を返す物体でもないのだ。それ自体、何かを語るものであり、その何かとは、ときに重く、優しく、楽しげな色彩の歌なのである(後略)」
上記は、1900年のパリ万博へのガレのガラス作品を賞賛したある批評家の言葉です。祖国を愛し、異国に憧れ、命ある自然を紐解き、そこに自身の心情を重ね合わせ、色と形の世界に言葉による音色を与えながら、象徴的に表現していったガレ。すでに見てきた通り、彼は自らの内面を吐露するために、あらゆるものに目を向け、探求し、取り込んでいきました。それには当然のことながら、表現を可能にする技術開発も継続的にする必要がありました。特にガラスについて言えば、彼のメッセージを伝える手段として、もはやただ美しく危うい、透明なガラスではなし得なかったのです。1898年、ガレは2年後のパリ万博を前に2つの技術の特許を取っていますが、その1つは「パチネ」といい、ガラスの透明性を意図的に失透させる技法でした。
素材の持ちうるこれまでの可能性をはるかに越えてガレが到達したのは、たとえ用途を兼ね備えていたとしても、「彫刻」の領域だったといえるでしょう。最後にエピローグでは、究極のガレをご覧いただきます。


脚付杯「蜻蛉」
エミール・ガレ 1903-04年 サントリー美術館


習作「蜻蛉」
ルイ・エストー 1903年以降 オルセー美術館
©RMN-Grand Palais (musée d´Orsay) / Tony Querrec / distributed by AMF

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