着想のマエストロ 乾山見参!

2015年5月27日(水)~7月20日(月・祝)

※作品保護のため会期中、展示替をおこないます。
※各作品の出品期間は、出品作品リストをご参照ください。

出展作品リスト(PDF)

第1章
乾山への道 ― 京焼の源流と17世紀の京都

尾形乾山は寛文3年(1663)、京都の裕福な呉服商、雁金屋に生まれました。この雁金屋は徳川家や後水尾院(ごみずのおいん)の中宮・東福門院(とうふくもんいん)の御用を務めた豪商で、有力町衆として代々芸術的な活動も行なってきました。また尾形家は本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)や樂家とも血縁関係があり、この恵まれた文化的環境が乾山自身の美意識に大きな影響を与えたと言われます。
桃山時代から江戸初期にかけて、さまざまな産地のうつわが京都をにぎわせていましたが、京都でも焼物の生産が始まります。近年そうした京焼の技術的な系譜が明らかになるにつれて、乾山窯もそれまでの押小路焼(おしこうじやき)や仁清といった京焼の伝統を踏まえた窯のひとつだったことが分かりました。
焼物としての「乾山」は、こうした町衆の美意識と京焼の伝統が直に結び付いたところに誕生するのです。この章では、乾山を育んだ17世紀の京都と、京焼の源流についてご紹介します。

第2章
乾山颯爽登場 ― 和・漢ふたつの柱と大平面時代

若くして隠棲の志の強かった乾山は、元禄2年(1689)に仁和寺門前に移り、文人隠士としての生活を始めます。近隣には野々村仁清の御室窯(おむろがま)があり、そこで作陶を学んだようです。そして元禄12年(1699)、京都の北西、鳴滝泉谷に窯を築き、満を持して陶工としての活動を始めます。窯の名前は「乾山」。京都の乾の方角にあることに由来します。
この鳴滝窯で生まれた特徴的なうつわのひとつが一幅の絵画のような角皿類です。絵画でうつわを飾るのではなく、絵画をそのままうつわとする。まさに着想の転換です。また、これによって和歌に基づく大和絵的な色絵と、漢詩に基づく水墨画的な銹絵(さびえ)という、文学的・絵画的なイメージによって、それまでの京焼にはなかった「和」と「漢」ふたつの世界を鮮やかなコントラストで描き出すことにも成功しました。

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色絵定家詠十二ヶ月和歌花鳥図角皿
尾形乾山 元禄15年(1702)
MOA美術館

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色絵桔梗文盃台  
尾形乾山 江戸時代 18世紀 
MIHO MUSEUM

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銹絵山水文四方火入 
尾形乾山作・尾形光琳画 江戸時代 18世紀
大和文華館

第3章
「写し」― 乾山を支えた異国趣味

銹絵による独自の唐様を生み出した乾山は、一方で海外陶磁の「写し」にも早くから挑戦していました。それは中国・東南アジア・ヨーロッパなどの舶来品を珍重する文化人向けの「焼物商売」。何より乾山自身がそうした受容者側の出身です。彼らの好みは手に取るように分かったことでしょう。そもそも京焼には「写し物」の伝統があり、こうした一群は乾山窯を経済的に支えた主力商品のひとつだったとみられています。
あくまでオリジナルは着想の原点としてその持ち味を生かしつつ、さまざまな要素と組み合わせて新たな意匠にまとめ上げるのが腕の見せ所でした。

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色絵阿蘭陀写花卉文八角向付
尾形乾山 江戸時代 18世紀 
出光美術館

第4章
蓋物の宇宙 ― うつわの中の異世界

鳴滝の窯では角皿類や写し物をはじめ、多種多様のうつわが作られていましたが、その中でも特に個性的なのが「蓋物」です。丸みを帯びた柔らかな造形は、籠や漆器に着想を得たと言われています。
この蓋物に共通して表されるのが、外側の装飾的な世界と対照をなす内側のモノトーン空間です。それはさながら蓋を開けて初めて明らかとなる「異世界」。この世ならざる世界の扉を開けてしまうこのうつわは、未知の体験へ誘う一大イベントを演出したことでしょう。そう、乾山はこの蓋物でひとつの「宇宙」を 作り出してしまったのです。

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重要文化財 白泥染付金彩芒文蓋物 
尾形乾山 江戸時代 18世紀 
サントリー美術館

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重要文化財 銹絵染付金銀白彩松波文蓋物 
尾形乾山 江戸時代 18世紀 
出光美術館

第5章
彩りの懐石具 ― 「うつわ」からの解放

乾山窯は正徳2年(1712)、鳴滝から京都市中の二条丁字屋町(ちょうじやちょう)に移転し、懐石具を多く手掛けるようになります。懐石具自体は鳴滝時代から作られていましたが、時はまさに京焼全体が飲食器の量産に向かっていた時代。乾山も競合ひしめくこの分野で、果敢に勝負に出たのでした。
ここで乾山最大の武器となったのは、琳派風の文様や文学意匠に基づく斬新なデザインです。文様の輪郭に縁取られた向付、内側・外側の境界を超えて、水流が駆け巡る一瞬を取り出したかのような反鉢など、立体と平面の交叉するその着想は、現代の私たちから見ても遊び心にあふれ、新しく見えるものばかりです。
こうして乾山は「うつわ」の枠にとらわれない彩り豊かな懐石具で成功を収めたのです。

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色絵竜田川図向付
尾形乾山 江戸時代 18世紀
MIHO MUSEUM

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色絵菊図向付
尾形乾山 江戸時代 18世紀
五島美術館


色絵春草文汁次
尾形乾山 江戸時代 18世紀
サントリー美術館

第6章
受け継がれる「乾山」― その晩年と知られざる江戸の系譜

乾山は晩年の享保16年(1731)頃、江戸に下り、京都の窯を養子の猪八(いはち)に託しました。猪八も精力的に活動を続けたようですが、その後の窯の消息は不明で、京都での乾山の系譜は途絶えてしまいます。
しかし、乾山の没後約半世紀を経て、江戸で「乾山」が復活する出来事がありました。それが酒井抱一の光琳顕彰活動です。彼によって江戸で人知れず継承されていた乾山の系譜が発見され、乾山は「緒方流」のひとりとして琳派の中に位置付けられます。そしてこの抱一から三浦乾也(みうらけんや)をはじめとする近代の陶工にまで「乾山」が受け継がれていくことになります。
彼らが「乾山」をどう受け止めたかは各者さまざまです。こうして「乾山」は、今度はそれぞれの継承者の「着想」となって生き続けることとなったのでした。

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重要文化財 武蔵野隅田川図乱箱  
尾形乾山 寛保3年(1743) 
大和文華館

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