Vol.33
歌川広重《東海道十一 五十三次 箱根》
―箱根のお山はどこへ?

江戸時代 嘉永年間(1848~54) サントリー美術館

江戸時代 天保4年(1833)頃 サントリー美術館
松明を片手に、夜道を進む人々。右下に「箱根」の文字があるため、この地を取り上げた図のようです(図1)。本作は歌川広重が手掛けた、いわゆる「東海道五十三次」のうちの一図ですが、我々のよく知る「広重の箱根図」とはかなり様子が異なっています。実は、反り立つ壁のような山を描く作品は「保永堂版」と呼ばれるシリーズに属するもので(図2)、本作は「隷書版」と通称される別シリーズの中の一枚です。保永堂版の大ヒットにより風景版画の名手となった広重のもとには、同テーマの依頼が次々と舞い込み、生涯で二十種以上の「東海道物」を制作したと言われています。隷書版は題が隷書体で書かれていることから名付けられたもので、保永堂版に次ぐ高い評価を得ています。
しかし、ここで謎がもう一つ。隷書版の箱根図には、保永堂版の切り立った山が見当たりません。もちろん、保永堂版の表現には誇張もありますが、箱根の山を越える峠は、『東海道名所記』(万治2年〈1659〉)に「けわしき事、道中一番の難所なり」と記されるなど、東海道を語る上で欠かせない名所でした。では、あの巨大な山はどこにいってしまったのでしょうか。
隷書版の箱根図をよく見てみると、足元には大きな石が並び、男たちがそこに足をかけながら登っているのが分かります。結論から言えば、この石は自然のものではなく、人工的に設置された石畳です。標高800メートルを超える箱根峠は急斜面が続き、かつ雨や雪が降ると地面がぬかるんだため、箱根越えは困難を極めていました。そこで幕府は延宝8年(1680)、莫大な公金を投じ、箱根峠に石畳を敷きます。つまり本作は、箱根の山を遠方から捉えるのではなく、「箱根の山中」を描いているのです。
旅行が今ほど簡単では無かった江戸時代、広重の東海道シリーズは、まるで自分が実際に絵の中の場所を目にしたかのような楽しみを与えてくれるものでもありました。箱根の山中をクローズアップした隷書版の箱根図は、鑑賞者が画中の一行とともに旅をしている気分をより盛り上げてくれたに違いありません。
2025年3月7日
出典:『サントリー美術館ニュース』vol.294, 2023.9, p.6