Vol.31
《野々宮蒔絵硯箱》
―四匹の名脇役―


秋の野原にぽつんと停まる牛車。車の屋根や側面にあしらわれた文様を薄く盛り上げ、前方に掛かる簾の一節一節もが丹念に表現されており、見事です。右上に浮かぶ月に銀が、左下の秋草の中の鈴虫には青貝がそれぞれ嵌め込まれています。そして、蓋を裏返すと鳥居が表されていますが、私たちがよくみかける朱塗りの鳥居とはどこか違うようです。その表面は黒や茶などの色漆が薄く盛り上げられ、凸凹とした木肌が精緻に表現されています。このように樹皮を剥がさずにそのまま用いる鳥居を黒木の鳥居と呼びますが、これが決め手となり、本作が『源氏物語』第十帖「賢木」の一場面を表していることが分かるのです。
『源氏物語』第十帖「賢木」にて、光源氏は娘の斎宮と共に伊勢に下向しようとする六条御息所に会うために、嵯峨野にある野宮を訪れます。秋草が茂り、松虫(今の鈴虫)の声すだく嵯峨野を進むと、斎宮が心身を清めるために籠る野宮には黒木の鳥居が立ち並び、なんとも神々しい雰囲気です。さて、六条御息所は源氏と恋仲であった女君ですが、源氏の心が離れていくことに思い悩み、この迷いを断ち切るために伊勢へと旅立つ事を決意します。源氏はこの決意を翻意させるために、野宮を訪れたのです。ですが、六条御息所の決意は変わらず、やがて夜も更けてしまったので、名残惜しくも二人は別れてしまいました。
ところで、この硯箱には、蓋表に三匹、見込に一匹と、合計で四匹の鈴虫が潜んでいます。幅22.3㎝、奥行22.8㎝、高さ4.5㎝の硯箱の中に、四匹は少し多いと感じませんか……?また、蓋表の鈴虫にあしらわれた青貝も鈍く光り、その存在をアピールしています。実は、二人が別れを惜しむ場面でも鈴虫の鳴く声が響き渡り、その声をモチーフに、六条御息所は源氏に別れの歌を贈ります。鈴虫も重要な役割を本場面において果たしているのです。なお、本作は「虫めづる日本の人々」(2023年7月22日~9月18日)に展示予定です。物語に登場する名脇役としての虫の活躍にも、どうぞご注目ください。
2025年3月7日
本稿は2023年発行の『サントリー美術館ニュース』(vol.292, 2023.3, p.6)を2025年1月加筆修正しました。