桜前線が北上している。前線の主体となる観測対象はソメイヨシノであるが、わたしはあの美しく咲き誇った姿を直視できない。
連載第111回『世界を味わい深くする八重桜』(関連エッセイ参照)では、ソメイヨシノはあまりにも圧倒的で眩し過ぎると述べている。毎年、満開の桜並木の下をわたしは俯き加減で歩いているのだ。
妖艶さに拐(かどわ)かされるような不安なこころもちになる。桜の下に立ち尽くしてしまうと自分の存在が消えてしまいそうで怖い。子供の頃からなんとなく落ち着かない気配を感じていたような気がする。
最近、「フレンチ・スプリング・パンチ」を口にした。「エスプレッソ・マティーニ」(第131回『コーヒー豆3粒は健康・富・幸福』参照)や数々の話題作で知られたディック・ブラッドセル(Dick Bradsell /1959−2016)が1990年代後半のロンドンで考案したものらしい。
ブランデー、フランボワーズ(ラズベリー)のリキュール、レモンジュースに少量のシュガーシロップをシェークして、シャンパンを加える。ぶどうとフランボワーズの果実の甘味と酸味が見事に調和しており、さらにシャンパンの香味がエレガントにフランスの春を謳い上げる。
この華やぎのある春の飲み口に浸っていると、脳内スクリーンに何故か満開の桜の映像が浮かんできてしまった。まいりました、である。
桜の花弁がわたしの身体に降り注いでいるような感覚に陥る。ソメイヨシノはもちろん、これまでの人生で眺めたさまざまな桜とその時々の想いがアタマのなかを巡る。
そうしたなか、ひとつのフレーズが3D映像のように飛び出してくる。梶井基次郎の短編『桜の樹の下には』(1928初出/『梶井基次郎集』新潮文庫・参考)の強烈な書き出しである。
“桜の樹の下には屍体(したい)が埋まってゐる!”
とんでもなくショッキングな一文から、桜の花が見事に咲くことが信じられない、との語りへとつづいていく。作品に出会ったのは高校生のときだった。美に潜む醜を想像する心理に衝撃を受けながらも、なんとなく理解できるような気がした。
こうなると止まらない。坂口安吾の『桜の森の満開の下』(1947初出)へとつづいていく。大学生になり、やたらと本を読む先輩から、梶井作品の影響があるはずだから、とすすめられた。この作品はホラー版日本昔話的な感覚で痺れさせながら、人間の孤独を強調した幻想的な世界へと導く。
満開の桜の森は恐ろしいと感じている山賊が、都からの旅人を襲撃して、その旅人が連れていた女性を女房にしてしまう。ところが妖しく美しい女房は山賊のことを怖がりもしないで我が儘に振る舞う。しばらくして山賊は女房の願いから都に移り住むのだが、女房は山賊にたくさんの生首を狩ってこさせては “生首遊び” をするのだった。
そんな都での生活に嫌気がさして山賊は山へと帰る。女房も一緒だった。山賊は女房を背負い、風の吹く満開の桜の森を歩いていくと、女房は醜い老婆の鬼となり山賊の首を絞めてくる。やがて………頭上には桜の花、その下には無限の虚空があり、花弁が密やかに降る。
花吹雪に消える山賊の孤独が描かれているのだが、極めて妖美で、残虐的で、しかも透明感がある。“花の下には涯(はて)がない” “花と虚空の冴えた冷たさ”という表現が強く印象に残っている(坂口安吾著『桜の森の満開の下・白痴』岩波文庫/参考)。
















