SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2008年6月26日

#148 土田 雅人 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 5代目キャプテン『監督にNOと言えるか?』

◆現状把握

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—— 土田さんの経歴を拝見させていただきますと、キャプテン時代も監督時代も優勝しています。土田さんは何か勝つための秘訣というものをお持ちなんですか?

いやいや、ないですよ(笑)。

—— キャプテンシーというものを意識されたのはいつ頃からですか?

常にスポーツをやっていて、小学生の時からだいたいキャプテンという役割をやっていました。ただ一言で表すならば、「究極の負けず嫌い」ということですね。そして仕事でもそうなんですが、自分が上に立たないとやらないタイプで、下で働いている時はいい加減にやったりもしましたしね(笑)。

僕は常に勝ち続けいているチームのキャプテンを任されるタイプではなくて、どちらかというと弱くて、ダメで、「しょうがないからお前がキャプテンをやれ」って言われてキャプテンをして、今までのチームを変えて大きくしてきたんですよ。今まで負けてきたのは何が原因なのかということを考えて改善していくので、一緒にやるメンバーも大きく変われたのかなと思いますね。

—— チームを変えようとする、その変え所のポイントというのは、どうやって見極めているんですか?

まぁ、現状把握ですね。僕の前に梶原さん(敏補)がキャプテンをやっていて、会社での部署も同じだったんですけど、梶原さんと勝てないことで大喧嘩をしたことがありました。まず選手が集まらないし、負けても平気な雰囲気だったんですよ。こんなチームでは絶対勝てないと思っていたんです。その当時、部員が30人くらいしかいなくて、練習も決まった内容のことしかやっていなくて、しかも試合には決まった奴しか出さないという感じだったんです。

僕は、何でチーム内で競争もしないで決まった奴を出しているんだ?って思っていたんですね。案の定、勝てないし、全国社会人大会にも出られない。それで中野島の昔の寮の食堂で、梶原さんと殴り合いのケンカをしました(笑)。僕はチームを変えようとするときに、勝てないのはキャプテンが悪いからじゃないのか?っていうところから始まる訳ですよ。

仕事が忙しいのは分かるんですけど、僕がキャプテンをした時は、必ず練習には来い、そしてグラウンドで戦う選手だけを試合で使う、というようにしたんです。本城さん(和彦)を外したりもしましたよ。冠婚葬祭以外で練習を休むのは許さないとして、全員が来なければ練習も始めなかったですから。当時は仕事優先で、練習に来ないのはしょうがないという感じだったんですけど、19時30分練習スタートなのに、1人だけ20時くらいに来たことがあったんですよ。その時は、そいつが来るまで練習を始めなかったですからね。

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—— そういう意識付けを行ったんですね

今みたいに毎日練習を行うわけじゃなくて、週に4日しかやらないから、その代りにちゃんと来てくれ、としたんです。それは、勝つためだったんですよ。そして勝つために、練習で競争をさせたんです。僕は当時の監督の山本さん(巌)に「僕が責任取りますので、練習に来なくていいです。負けたら僕がキャプテンを辞めますから、練習では口出しをしないで下さい」って言いました。それで僕が全部メンバーを決めて、練習メニューも決めていました。

—— 必ず練習に参加させるためには、会社へのアピールも大変だったのではないですか?

いや、それは本人次第です。仕事が終わるのが17時30分で、18時くらいに会社を出て、1時間かけて府中に来れば、19時30分からの練習には間に合うんですよ。ですけど、僕も営業で、ラグビー部の8割くらいが営業でしたから、新商品とかキャンペーンとかで忙しい日は、僕も練習を休みました。やはり仕事優先でしたからね。

—— キャプテンとしてのそういうやり方というのは、いつ頃からやられていたんですか?

大学(同志社)の時も平尾(誠二)とそういう風にやってきましたからね。まぁ、継続して強いところでやってないというのもあるんですけどね。サントリーもラグビーが強いから入ってきたわけじゃなくて、サラリーマンとしてスーツ着てっていう、そういう所でラグビーをやりたかったんです。サントリーラグビー部なんて全国社会人大会に出場できるようなチームじゃなかったですけどね。そういう環境を選んで来ているということも、悪いやり方を否定して、新しいことを作り上げる、というキャプテンとしてのやり方に繋がっているのかもしれないですね。

◆貯まっていたものを爆発

—— 社会人になっても、ラグビーは続けようと考えていたんですか?

ある程度やって、あとは普通に仕事ができればと考えていましたね。ここまで継続するとは思っていませんでした。

—— キャプテンになって、いきなり全国社会人大会に準優勝しましたね

そうでしたね。当時は三洋電機と東芝府中が圧倒的に強かったんですけど、そこに勝って、全勝で東日本社会人大会に初優勝したんですよ。それで、全国の決勝戦まで勝っていきましたね。決勝で神戸製鋼に負けたんですけど、そこまでは大きく変えられたかなと思いますね。

—— 大きく変えられた一番の要因は、やはり練習に出させたことですか?

練習に出させることと、練習で競争することですね。

—— では、競争できるくらい選手が揃っていたんですか?

まぁまぁですかね(笑)。東芝府中や三洋電機に比べれば、劣っていたかもしれないですけど、ただやっぱり貪欲に「勝ちたい」って思っていたんですよ。

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—— ミーティングはどのように行われていたんですか?

当時は19時30分から練習でしたから、今みたいに毎回はできなかったですね。ただ、どうやったら勝てるかということは、当時は今みたいに大勢のスタッフもいないですから、選手みんなでビデオ作って、そのビデオを見て研究していましたね。

梶原さんとか、甲野(晃弘)とかも一緒に残ってビデオを見たりして。甲野は僕の高校の時の同級生なんですよ。それで僕は、同じ年代の奴らがずっとサントリーでやっててもつまらないよねとか、練習で頑張っても同じメンバーしか試合では使ってもらえないし、練習内容もつまらないし、対戦相手のことも研究してないしとか、みんなの心の中に貯まっていたものを爆発させただけなんですよ。僕が監督をやる時も同じで、何が悪いかが分かって現状把握すれば、すぐ答えが出てくるじゃないですか。そしてしがらみなくこなせば、試合に勝てるわけですよ。

僕が今回、ゼネラルマネージャーに就いて1か月の間で何をしたかというと、1週間でヒアリングをして問題点を見つけて、その問題点を解決するために社長にプレゼンテーションを行い、そのための必要な環境を整えたんですよ。何かを行うことに対して、YES、NOの判断を早くしてあげるということですかね。何が問題なのかを見つければ、解決策が見えてくるんですよ。ただ、今後様々な問題に対して、それぞれの間にギャップがあれば勝てないでしょうけどね。

—— しがらみを断ち切って、今までやってきたことを変えるというのは大変だと思うのですが、そこのコツは?

そこはコミュニケーションが取れるかどうかでしょうね。たとえば、僕がキャプテンをしていた当時の部員は30人ですし、初めて監督をしたときも32~33人しかいなかったんですよ。当時、サントリーは練習が始まるのも遅いですし、成績も良くなかったですから、あんまり部員が入ってこなかったんですよ。同志社で5軍とか、青学の工学部でラグビーをしていたとか、そういう奴も入れていたんですね。彼らがいなければ練習にもならなかったんです。

ですけど、なんで彼らがちゃんと練習に来ていたかというと、彼らに「お前ら5年やったらいいことあるし、社内に友達もできて楽しいぞ」って言っていたんですよ。それでもやっぱりレベルが違うんで、練習に来ても下働きばっかりですし、5年間1試合も出られないんです。そういう彼らに飯を食わせたり、モチベーションを上げたりするのが僕の仕事でした。

その彼らが今何やっているかというと、清宮よりも年が下ですけど、課長になっているんですよ。僕は彼らに、「仕事で頑張ってくれ」って言っていたんです。当然ラグビー部で仕事ができない奴がいっぱいいる訳ですけど、彼らが仕事で頑張って評価され、海外とかに行ってくれたりしたんです。そうすると、ラグビー部には優秀な奴がいるって、評価が上がるわけですよ。そういう風に一生懸命コミュニケーションを取って、やらせるんです。

僕がキャプテンだった時も、本城さんをメンバーから外したわけですよ。たぶん、本城さんがまだ日本代表だったか、ちょうど外された時だったと思いますけど。それで本城さんを外して、森山(敬太)というスタンドオフを使ったんです。その時、小西さん、本城さんという日本代表クラスを外したんですよ。ですけど、小西さんと本城さんは腐らずにちゃんと練習をしてくれたんです。こういうコミュニケーションを取らないと、チームがガタガタになってしまうんですよ。

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◆負けたくない

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—— 土田さんのそういう信念はどこから生まれたんですか?

あっははは(笑)。信念ですかぁ!たとえば、僕が平尾と一緒にいて、僕が彼ほどのラグビーの運動能力があったならば、こういう風にはなっていなかったと思いますよ。大学時代の平尾がキャプテンで、僕はバイスキャプテンで役回りも違うし、彼が日本代表の監督で僕がヘッドコーチ、その役回りも全く違うし、平尾みたいな奴を見ているときに、自分の役回りっていうのはこういう感じかなって考えながら、身に付けていったのかな。

—— 究極の負けず嫌いであるなら、土田さんがキャプテンになっていきなり全国社会人大会準優勝をしても、準優勝では納得していなかったのではないですか?

どうですかねぇ。当時のサントリーの力では納得していたかもしれないですね。サントリーラグビー部が初めて世の中に出て行ったっていう感じに思っていたのかもしれませんね。

—— 一緒にやった選手たちは、とても喜んでいたのではないでしょうか?

そうですね。みんなの自信になったんじゃないですかね。優勝したことがない奴らばっかりでしたから、僕は大学時代に3連覇して、優勝することの厳しさや連覇することの難しさとかをよく知っていたので、サントリーに入った時にみんなに優勝を経験させてあげたいと思っていましたね。連覇することは難しいけれども、優勝することは難しいことではないなという気持ちでやっていたんです。

—— 準優勝をしてみて、ご自身の自信にはなりましたか?

東日本社会人大会で全勝優勝したときは、自信になりましたね。春からずっと土のグラウンドでぶつかり合いの練習をしていましたからね。今は考えられないですけど、当時はコンタクト練習ってしていなかったんですよ。当時の練習って、ただ走ってパスして、コンビネーションプレーをして、サインプレーをして終わりだったんですよ。

ですけど、僕は徹底してコンタクト練習を取り入れたんですね。今でも覚えていますけど、春の三洋電機との試合前に、コンビネーションプレーの練習をしていたんですけど、全然上手くいかなかったんですよ。それで頭に来ちゃって、激しくやろうって言ったんです。試合の前の日にですよ(笑)。そうしたら、味方に足で踏まれちゃって、陥没骨折したんですよ。それで僕はその試合に行けなくなっちゃって。

結局、その試合には負けたんですけど、ラグビーって激しさというか、ファイティングスピリットがないと勝てないんですよ。そういうことが積み重なることで、東日本社会人大会初戦が三洋電機とだったんですけど、その試合に競り勝って、優勝までいったんです。

—— 全国社会人大会での優勝は難しかったですか?

当時、新日鉄釜石が7連覇していて、僕がサントリーに入った時に、その連覇を破ったのが東芝府中でした。そして、東芝府中が2連覇ぐらいして、その後に神戸製鋼が7連覇しましたからね。ずっと連覇続きでした。

◆1年間好きなようにやらせてほしい

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—— ラグビー理論はどのように研究をしていたのでしょうか?やはり海外をかなり研究したのですか?

当時、監督やコーチよりは、選手の方が日本代表なり留学なりで海外に行っていて、ビデオとかも撮ってきていたので、監督やコーチよりもキャプテンやゲームリーダーの方が、理論とかはよく知っていたんですよ。僕も日本代表で、海外によく遠征していましたからね。

—— キャプテン時代に苦労したところはどこだったんですか?

苦労の連続でしたよ(笑)。強いチームではなかったですからね。あまりラグビーをやる気ではなかったので、あえてサントリーを選びましたからね。でもラグビーをやっているうちに、神戸製鋼には平尾がいて、あれだけ連覇をしていたので、「負けたくない」という思いが沸々と湧き上がってきたんですよ。ただ環境を見ると、グラウンドは土だしボコボコだし、みんな練習には来ないしね。こいつらをどうしてやろうかって思いましたよ。

—— 土のグラウンドを芝に変えたりしたんですか?

僕がキャプテンの時にはならなかったですけど、僕が監督をやった時にも選手が30人くらいしかいなくて、チームは弱かったんですね。それで、1月5日にトヨタと試合をして負けちゃうんですよ。そうしたら、現在の社長(当時副社長)に呼ばれて、「どうやったら勝てる?」って聞かれたんですよ。

それで、僕が「グラウンドを芝生にして下さい」って言ったら、「芝生にしたら勝てるのか?」って返ってきたんですよ。それで、「勝てます」って言ったら、芝生にすることが決まったんです。そのあと選手にそのことを話したら、チームにこれだけの理解者がいてくれるんなら頑張ろうって雰囲気になって、僕もそれで吹っ切れたんですよ。

その後に、全国社会人大会の決勝リーグに進んで、1回戦で神戸製鋼と当たっちゃうんですよ。周りの誰一人として、神戸製鋼に勝てるとは思っていなかったんですが、神戸製鋼の8連覇を阻止するのは僕らしかいないっていう気持ちでしたね。それで試合をしたら同点だったんですけど、トライ数でサントリーが勝ったんですよ。それでそのまま優勝しちゃったんですね。その後にグラウンドが芝生になったんですよ。優勝したから芝生になったのではなくて、本当は1月5日の時点で芝生にすることは決まっていたんですね。

—— 他にはどのような苦労をされているんですか?

僕は何でもしたんです。キャプテンの時に、監督と一緒に外国人選手を獲りにカナダにも行っているんですよ。当時は代理人もいなかったですからね。あと、ニュージーランドにも行きましたね。そういう仕事は監督の仕事で、キャプテンの仕事ではないんですけど、その頃は日本のチームにも外国人選手が入りだした時期で、獲りに行かなきゃいけなかったんです。それで監督と2人で海外のクラブチームに行って、日本に来てくれる選手を探しました。英語も出来ないのにそんなことをしていましたね。

あと日本人選手も、中村(直人)を含め、僕が獲ってきました。キャプテンの僕が京都まで行って獲ってきたんです。そういうことまでやってきたから、何でも分かっているんですけどね。

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—— キャプテンと監督は、やり方は違うものなんですか?

全然違いますね。ただ、僕がキャプテンの時は、山本さんに1年間好きなようにやらせて欲しいって言ったんです。そこから、メンバーも練習も、全部僕が決めました。それで、みんなが練習に来だして、練習で競争させたことで、今まで試合に出ていなかった奴らが頑張りだして、チームの層が厚くなったんですよ。それは、キャプテンとしての喜びでもありましたね。

—— 梶原(敏補)さんが、土田さんがキャプテンをされているのを見て、自分のやり方が間違っていた、とおっしゃっていたんですが、どう思われますか?

どうですかね(笑)。難しいですよね。時代によって、キャプテンに求められるものは違いますしね。キャプテンにゲームキャプテンを求めるのか、チームのリーダーを求めるのか、監督の代わりを求めるのかなど、その時のチームによって違いますからね。僕の場合は、監督の代わりとして求められていると感じたので、あぁいうやり方をしたんですよ。

◆一度だけ辞めた

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—— ラグビーをやり始めたのはいつ頃からですか?

高校からです。その前はずっと野球をやっていました。結構上手かったですねぇ(笑)。

—— では今頃は別の監督をされていたかも知れないですね

いやいやいや、それはないですよ(笑)。絶対、秋田で野球をやっていて、甲子園に出たとしても、1回戦負けで、プロ野球にも入れないし、日本一なんて無理ですからね。当時、秋田工業ラグビー部って、全国でも14~15回優勝していて、常に決勝には行っていましたからね。そのテレビ中継を見ていたんですよ。その時はラグビーのこと全く知らなかったんですけど、友達と2人で図書館に行って、ラグビーマガジンを読んだりしていました。

秋田で強い高校スポーツって、能代工業のバスケットか、秋田工業のラグビーだったんですね。それなら、秋田工業のラグビー部に入ろうかって、全く知らないのに入ったんですよ。僕、小学校の時にミニバスケットで全国大会に出たこともあるんですけど、あんまり能力があるとは感じていなかったんですよ。しかも、バスケットって、背が高いほうがいいじゃないですか。なので、何も知らないですけど、ラグビーかなぁって。

—— 野球のポジションは?

サードやったり、ファーストやったりしてましたね。最後は4番ファーストでした。

—— テレビや雑誌でラグビーを見ていて、実際にラグビーをやってみてどうでした?

2年生からレギュラーになったんですけど、3年生でキャプテンになって開花しましたね。キャプテンをやりだしてから、少しずつラグビーが面白くなっていきました。

—— 野球の練習と比べると、ラグビーの練習は厳しいと思うんですが、どうでしたか?

キツかったですね。僕は何度も辞めようと思いましたよ。僕が入部した時は60数名入ったんですけど、最後まで残ったのは13人でしたからね。僕も一度だけ辞めましたから。監督に言われて戻ったんですけどね。

—— ラグビーの一番の魅力って何ですか?

ラグビーをやり始めた頃は、こんなに色んなタイプの人間ができるスポーツって面白いなぁって思っていましたね。太っていたり、運動が得意ではないタイプでも、押すことや仲間を助けることに関しては天下一品だったり、足が速くて凄い運動能力はあるんだけど、力は弱いとか。

—— キャプテンとしてサントリーを強くして、そのあと監督に就くまでの間はどのような感じでしたか?

僕はもともとラグビーで生きようと思ってサントリーに入ってないですから、仕事をしますって言っていたんですけど、本城さんに「フォワードコーチをやってくれ」って言われました。嫌だったんですけれどね。その時は本城さんが監督で、清宮がキャプテンでしたから、僕の出番はないかなって感じで、ほとんど練習には行ってない時期でしたね。もともと監督とキャプテンでやっていたチームでしたから、あんまりコーチなんていなかったんですけどね。

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—— 日本代表のコーチになって、得るものは大きかったですか?

得るものは大きかったですよ。けれど、代表のコーチでしたから苦労しました。ラグビーの世界を見るという意味でいい経験になりましたね。その経験は2000年に僕がサントリーの監督をした時に、とても役に立ちました。

それに、代表の選手やスタッフは色んなチームから集まってくるので、色んな考え方に触れることができましたね。僕の実績なんて関係ないですから、そこでどうモチベーションを上げるかとか、どのような練習メニューを考えるか、というところがかなり苦労しました。しかも仕事をしながらでしたからね。

—— 土田監督がお手本にしていた監督は?

いないですねぇ。監督なんて気合と根性じゃないですか(笑)。ですけど、現状把握ができている人がいなさすぎるんですよ。会社から言われたから優勝するとか、会社から言われたからこうするとか。現状把握して、今そこにいないのに、無理矢理そこまで持っていって優勝するというのは無理ですよ。今、優勝できる状態にあって、気合と根性があって、優勝するって言うのは分りますけどね。けれども、参考になった監督というのはいますよ。山本さんの戦略を立てるというところは参考にしていますよ。

◆もっとラグビーのステータスを上げて行こう

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—— 昨シーズン、サンゴリアスが優勝しました。どのように感じましたか?

僕の感想としては、決勝戦の試合自体は面白くなかった。あまり良くないと思いました。そのことは清宮にも伝えました。僕は清宮に対して、彼は世界をリードするラグビー、リーディングジャパンラグビーをしてくれると考えているんですよ。それが彼のポリシーだし、チームスローガンもアライブですから。けれども、決勝戦の試合は勝ちたいがために、やりたいことをどんどん削っていったラグビーだったんですよ。それではいけないと思ったんです。だから、清宮にも言ったんですね。

ですけど、次の日の新聞を見て、反省しましたね。選手のコメントが載っていたんですけど、前年に東芝に負けて、あの悔しさから1年が始まった。だからあのラグビーをして勝つことが良かったんだ、ファイナルラグビーだ、と。その記事を見て、1年間苦労したんだなって思いましたよ。言っちゃいけなかったなって。

清宮の器からすれば、ラグビーがどんどん小さくなっているように感じたし、日本のラグビーを、という彼の思いを、サントリーとしてサポートしてあげられる人もいなかったのかな、って思いましたね。まぁ、優勝、準優勝という結果は最高だと思うんですけど、お客さんにとって勝つことが喜びなのかって考えた時に、サントリーのラグビーは違うんじゃないかって、清宮とも話しているんです。

最初、清宮も僕に文句ばっかり言っていたんですよ。ですけど、僕が思いを伝えていくと、清宮ももう一回お客さんを喜ばせるようなラグビーを作ろうよってなってきたんです。清宮の思うラグビーじゃなくて、サントリーのラグビーが底辺にあり続けるためには、それに合う監督を僕が選ばなければいけないんですよ。それには清宮がベストだと僕は思います。

僕とサントリーと清宮の思い描くラグビーが一緒になって、それで勝つようなチームになることを考えてるんですよ。けれども、昨シーズンは清宮も苦労したんだな、って新聞を読んで1日反省していました(笑)。

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—— 先輩キャプテンとして、選手に一言お願いします。

今、45人の部員がいて、また清宮のリーダーシップやコーチ陣、外国人やスタッフ、医療、メディカル含めて、すごくいいんですよ。環境が良すぎるんですよね。やっぱり、45人の選手は全員がライバルだし、出場した15人は清宮監督のおかげで出られるんだけど、出られなかった30人は常に悔しさを持っていいんですよ。

また、メディカルのメンバーもみんな仲良くやり過ぎなんですよ。僕がここのところ面接で言い続けているのは、もし来年の日本選手権決勝で三洋電機と試合をした時に、この選手を試合で使えるか?と監督に言われて、ちゃんとNOと言えるかどうかを聞いているんですよ。そこまでちゃんとコミュニケーションを取っていますか?って。

もう1つ言うならば、全員怪我をしないストレッチをやらせたり、トレーニングをさせているかどうか。去年同じところを怪我した選手が5、6人いたんですよ。グラウンドが堅いことを分かっていながら、監督にストレッチが大切だとか、こういうトレーニングをすれば怪我をしないと言えるようなチームですか?って聞いているんですね。

たとえば、月曜日にメディカルミーティングをやったとして、今怪我をしている選手は4週間後に治ります、ということをやっていて、本当にこれで勝てるのかって思うわけですよ。来年の日本選手権決勝で三洋電機とやるとして、その1週間前のメディカルミーティングでは、清宮が本当に信じて選手を使う使わないの判断ができるかが大切なわけですよ。

こういうことを、今ミーティングでは言っているんです。僕は清宮と勝負する人間を増やしていくことが仕事だと思っていますからね。選手をもっと前面に、競争するような環境にするのも僕の仕事と思っていますから。

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—— 新ゼネラルマネージャーになって、環境改善して、負けたら大変ですよね。その厳しさはチームに伝わっていると思いますか?

厳しさだけではなくて、リラックスする時はリラックスすればいいですけど、会社を挙げて応援してくれていることが当たり前と思わないことですね。そういう良い環境がサントリーにはあるし、そういうのは他のチームにはないので、その環境を理解することですね。

僕は清宮に、もっとラグビーのステータスを上げていこうって言っているんですよ。何連覇するというよりは、こういう勝ち方をしたい、そして、ラグビーのステータスを上げていきたいってやっていかなきゃダメなんですよ。今、完全にサッカーに負けていますよね。だから、自分たちでやっていこうって動いているんですよ。

例えばイングランド代表のウィルキンソンが日本でプレーしたら、ラグビーを知らない人でも秩父宮に来るかもしれないじゃないですか。そういうことをやってみようじゃないかって、そういう夢を抱きながら楽しんでいるんですよ。

—— オーガナイザーはプロ化したとしても、チームは混合体ですか?

僕は稼げるようになれば、独立してもいいと思いますよ。今、サンゴリアスはアディダスさん、インテルさん、ダンヒルさんしかスポンサーがいないわけで、これでは独立はできないですよ。

だから僕はスポンサーを探すようにみんなに言っているし、サントリーがもっともっと応援されるようなチームになれれば、スポンサーに色んな企業がついてもいいと思うんですよ。それに、チーム名からサントリーというのを外してもいいと思うんですよ。愛称でサントリーをイメージさせてもいいと思うし、ファンの方から名前を募集してもいいと思うんですよね。

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—— GMで優勝したら、三冠達成ですね

いや、GMは長くできるから、別に(笑)。

—— これからの連覇をもちろん目指していますよね?

もちろんですよ。

—— 清宮監督にとっても最大のモチベーションですね

僕は彼のラグビー人生にとって、最高の環境を与えるし、その中で本当にできるかどうかを勝負してほしいと思っています。

■サントリー歴代主将 ■サントリー戦歴

2006年~
山下 大悟(H15年早大卒)

2005年~
田中 澄憲(H10年明大卒)

2003年~
早野 貴大(H9帝京大卒)

2000年~
大久保 直弥(H10法大卒)

1999年
坂田 正彰(H7法大卒)

1995年~
永友 洋司(H5明大卒)

1992年~
清宮 克幸(H2早大卒)

1991年
甲野 晃弘(S61中大卒)

1989年~
土田 雅人(S60同大卒)

1987年~
梶原 敏補(S58早大卒)

1985年~
小西 義光(S55専大卒)

1982年~
浜本 剛志(S54慶大卒)

1980年~
稲垣 純一(S53慶大卒)

2007年:
第5回ジャパンラグビートップリーグ 優勝
第45回日本選手権大会 準優勝
2006年:
第4回ジャパンラグビートップリーグ 準優勝
第44回日本選手権大会 ベスト4
2005年:
第3回ジャパンラグビートップリーグ 6位
第3回マイクロソフトカップ 準優勝
2004年:
第2回ジャパンラグビートップリーグ 8位
第2回マイクロソフトカップ ベスト8
2003年:
第1回ジャパンラグビートップリーグ 4位
第1回マイクロソフトカップ ベスト8
第41回日本選手権大会 ベスト8
2002年:
第10回ジャパンセブンス準優勝
プレミアチャレンジ2002 対 サラセンズ戦 42-61
東日本社会人リーグ優勝
第55回全国社会人大会優勝
第40回日本選手権大会準優勝
2001年:
第9回ジャパンセブンズ優勝
国際親善試合 対 ウェールズ戦 45-41
東日本社会人リーグ優勝
第54回全国社会人大会優勝
第39回日本選手権大会優勝
2000年:
第8回ジャパンセブンズ優勝
東日本社会人リーグ優勝
第53回全国社会人大会(ベスト4)
第38回日本選手権出場(優勝、vs神戸製鋼)
1999年:
東日本社会人リーグ3位
第52回全国社会人大会出場
1998年:
東日本社会人リーグ優勝
第51回全国社会人大会(準優勝、vsトヨタ自動車)
1997年:
東日本社会人リーグ優勝
第50回全国社会人大会出場(準優勝、vs東芝府中)
第35回日本選手権出場(3位)
1996年:
東日本社会人リーグ3位
第49回全国社会人大会出場(ベスト4)
1995年:
東日本社会人リーグ3位
第48回全国社会人大会出場(優勝、vs三洋電機)
第33回日本選手権出場(優勝、vs明治大学)
1994年:
第2回7人制全日本選手権(ジャパンセブンス)で優勝
東日本社会人リーグ3位
第47回全国社会人大会出場(ベスト8)
1993年:
東日本社会人リーグ2位
第46回全国社会人大会出場(ベスト8)
1992年:
東日本社会人リーグ5位
(但し、東北優先条項により全国大会には出場できず)
1991年:
東日本社会人リーグ3位
第44回全国社会人大会出場(ベスト8)
1990年:
東日本社会人リーグ3位
第43回全国社会人大会出場(ベスト4)
1989年:
東日本社会人リーグ優勝
第42回全国社会人大会出場 (準優勝、vs神戸製鋼)
1988年:
第41回全国社会人大会出場(ベスト8)
1987年:
第40回全国社会人大会出場(ベスト8)
1985年:
第38回全国社会人大会出場(ベスト8)
1981年:
2部リーグ戦全勝で1部に昇格
1980年:
リーグ戦全勝で2部に昇格
関東社会人ラグビーフットボール連盟3部に加入
4月 創部

(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:五十嵐祐太郎)

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