柿沼 亮介(かきぬま りょうすけ)
早稲田大学高等学院教諭
2017年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者
柿沼 亮介(かきぬま りょうすけ)
早稲田大学高等学院教諭
2017年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者
日本古代史は、《古い学問》である。それは単に古い時代を扱っているというだけでなく、古いからこそそれだけ研究の蓄積があるということでもあるし、かっちりと確立した方法論による〈伝統〉的な研究が好まれる傾向にあるという意味でもある。もちろんこれは研究が成熟しているということを表しているが、一方で将来的な展望が見通しにくい学問分野になってしまっているともいえる。
こうした状況の中で、日本古代史の〈伝統〉の強みを明らかにしつつ、他分野と協業する柔軟性を提起することで《古い学問》の閉塞感を打ち破る可能性が示されたのが、2024年4月17日に開催された堂島サロンであった。今回は、古都奈良における発掘調査をリードしてきた独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所の馬場基氏(埋蔵文化財センター長)から、「ちいさなことから探るおおきなこと」と題したご報告があった。以下、ご報告の要旨や議論の様子を紹介しながら、《古い学問》である古代史の新たな可能性について考えてみたい。
馬場氏のお話は、数量を表す単位である「斗」と「升」が、木簡においてどのように書き分けられているかというところから始まった。歴史学では、一点一画をもゆるがせにせず史料を丁寧に読み解くことが研究の出発点となる。図像としてよく似た文字を区別する作業は歴史学の得意とするところであり、「小さな点」があるかないかで2つの字を判別できるというお話は、歴史学の基本的な方法論を振り返るものだった。
木簡や墨書土器、漆紙文書などの出土文字資料の場合、書かれている情報は断片的で文字数も多くないことがほとんどである。しかし、大宝令制定以前の地方行政区画が「国―郡―里」だったか「国―評―里」だったかをめぐる郡評論争が、藤原宮跡から出土した「評」と書かれた木簡によって決着をみたように、漢字一文字によって歴史が書き換わることがある。これは、単に新しい史料が発見されればよいということではない。近年、現存していないと考えられていた唐令の一部が、寧波の天一閣で見つかった『天聖令』の写本から発見された。これによって研究は大きく進展したが、これは単に唐代の令文が見つかっただけで研究が進んだということではない。様々な典籍に残された唐令の逸文を拾い集めたり、継受した側である日本の養老令の注釈書である『令義解』や『令集解』の分析をもとにした地道な唐令の復原研究が行われてきたからこそ、新たに発見された史料を解釈し、研究を前に進めることができたのであった。このように古代史は、少ない史料を精緻に分析しながら、高度な学問体系を築き上げてきたのである。《古い学問》にはそれだけの力と魅力がある。
その意味で木簡に書かれた一文字一文字を丁寧に読みながら歴史像を更新していくという作業は、日本古代史が積み上げてきた〈伝統〉的な方法論と考古学の協働により、《古い学問》の力で新しい史料を生かしていく営みであるといえよう。
さて、木簡の研究は何という文字が書かれているかを判断し、内容を理解するだけで終わりではない。馬場氏のお話は、文字を読む以上のところに展開する。まず、木簡には漢代の簡牘(文字が書かれた木や竹の札)に似た書体がよくみられ、漢代以来の古い形の漢字が日本に入ってきているということが分かるという。さらに木簡の文字が滲んでいない理由を、墨液と筆記の際の身体技法から説明された。墨液については、走査型電子顕微鏡などを用いて実験した結果、転用硯(土器)を用いたことが関係しているのではないかということである。木簡が用いられなくなっていく9世紀末~10世紀頃に、硯も土器製から石製になるという示唆的な指摘もあった。身体技法については、4世紀の中国の「女史箴図巻」や12世紀の「信貴山縁起絵巻」に手紙を手に持って書く人の姿がみえ、さらに漢代の墓の壁画には板を手に持って書く人が描かれていることから、木簡は手に持って書いていたと推測する。そうすると筆の中ほどを持つ「一本がけ」をしていたことになり、この持ち方だと筆圧・筆速を一定になり、さらに「とめ」「はね」「払い」で力を入れずに行書風に連綿に書くことで滲むのを防ぐことができ、まさに木簡の文字になるという。
木簡というモノを総体として扱っているからこそ、書体や滲みといった図像から得られる情報をも分析し、書かれた内容以上のことが読み取れるということだろう。しかも古代史や考古学の知識・方法論だけでなく、科学的な分析手法や書道、美術史など様々な分野の知見を取り入れることでそれが可能となっている。文字を追究し、断片的な史料から大きな議論を組み立てていくという日本古代史の研究手法を突き詰めていった先に、学際的な世界が広がっているのである。
話は木簡から、東アジアの中で日本文化がどのように位置づけらえるかというところへと向かう。
木簡に様々な書体がみられることからは、平安時代以降に書体が一定になる以前の日本では、漢字の伝来には様々なルートが存在していたことが窺える。中国や朝鮮半島から日本列島への文物の移入は、一度になされるのではない。当然、大陸の文明のあり様は時代によって変化していくため、日本列島の文化には、大陸の文化が複合的に混ざり合っているということになる。木簡の書体には、文化の重層性が表れているのである。
紙や板を手に持つ書き方もまた同様である。手紙や木簡は手上で書くのに対して、典籍や経典などは机上で書いていた。このように両者が並存する文化は、晋代に日本列島へと入ってきたものである。その後、唐代には筆の持ち方は「二本がけ」となっていたが、日本では手上筆記と「一本がけ」が中世に至るまで続けられた。そして手上筆記は連綿と書くために漢字を省略するひらがなにつながり、机上筆記は直線的なために画数を省略するカタカナにつながった。両者は書く場面・内容・身体技法が異なっていたために日本列島において並存していくことになったのである。
こうした文化の重層性について、中国の南朝系の文化と北朝系の文化が時間差で日本列島へと伝わったことと関連させた議論が行われた。簡牘や木簡に用いられる木は、漢代の西域や新羅では板材とは限らないが、日本の木簡は南朝の晋や百済の木簡とよく似ていて、板材が好んで用いられる。文字の形状もまた、日本の木簡は晋と近似し、新羅とはやや様子が異なるという。また、朝鮮半島は石の文化といわれ、高句麗や新羅では石碑が多く作られたが、実は百済では他の二国ほど石碑は作られていなかった。そして日本列島も石碑が少ないとはいわれるが、関東には上野三碑をはじめとして古代の石碑が列島の他の地域よりは多くみられる。これは高句麗系や新羅系の渡来系移民を、古代国家が東国に移配したことと関係するのだろう。
このように、日本列島へは南朝系の文字文化が百済経由でもたらされる一方で、北方系の文字文化もまた新羅を経由して入ってきた。そして先に南方系、後から北方系の知が導入されたため、仏教用語は呉音であるのに対して律令などの法制用語は漢音というように、それぞれの文物がもたらされた時代の中国文化がそのまま日本列島の中で生き続けることになった。中国では失われてしまった発音や文化が日本列島に残り、後進地域にこそ古い時代のものが保存されるという現象が起こったのである。
木簡を皮切りに、議論は日本文化そのものを考えるところへと発展した。しかし一方で、日本古代史に漂う閉塞感もまた話題となった。《古い学問》である日本古代史では、先ほど述べたように高い水準での研究が行われてきた。しかし方法論が確立し、蓄積が多くなり、研究が高度になればなるほど、参照すべき研究は増え、研究への新規参入のハードルは高くなる。そして研究が蛸壺化し、さらには自己目的化してしまうきらいもある。そのため硬直化し、「すでに出来上がった学問」のようになってしまっているのではないかという懸念も提起された。
たしかに日本古代史では、考古学に比べて民俗学や文化人類学の成果が用いられることが少ないように、学問的な「純血性」が好まれ、しかも貴ばれる研究テーマも制度史に偏重している傾向にある。《古い学問》の閉塞状況を打ち破る上で重要なのは、木簡研究において行われているような他分野との連携であろう。馬場氏のお話の中に「木簡は運用の最前線である」として、制度と実態の乖離を埋めてくれるものであるとの指摘があった。また議論では、「歴史学者は内科医、考古学者は外科医、文学研究者は心療内科医」という発言もあった。歴史像の構築のためには日本古代史の方法論だけでなく、多様なアプローチを組み合わせることが効果的であろう。制度の解明を得意とする日本古代史と様々な分野の協業によって生まれるシナジーに期待したい。
このように日本古代史が開かれた学問になっていくことは、文化財保護の観点からも重要である。今回は高輪築堤の問題など発掘と遺跡の保全についても議論になったが、文化財を保護し、後世に遺していく上で、社会的な理解を得ることは不可欠である。しかし、シルクロード・ブームも今は昔。古代史に対する社会的な注目は、高いとはいえない。私はふだん高校の教壇に立っているが、古代史が専門だと話すと、「古代っていつですか?」と聞かれることもしばしばだ。日本古代史の学問としての〈伝統〉を受け継ぎ、文化の継承に寄与していくためにも、社会に対してどのように関わっていくかが問われている。
議論では歴史学と歴史小説の関係について、ライトノベルの方が視覚化することが求められるため、最新の研究成果を取り入れる傾向にあることが紹介されていた。生活史の研究が進展してきている中で、ライトノベルは社会と歴史学とのかすがいになり得るのかもしれない。
日本文化が東アジアの様々な文化を重層的に受け入れながら形成されたように、日本古代史もまた様々な分野と協業することによって、より立体的に歴史像を解き明かすことができる。《古い学問》の価値を社会に対して発信していくためには、その強みを見せつけつつも、横綱相撲だけを目指すのではなく、自ら相手の懐に入り込んでいくことが求められているように思う。
柿沼 亮介(かきぬま りょうすけ)
早稲田大学高等学院教諭
2017年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者