SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2006年9月 5日

#46 大久保 尚哉 『走ってボールを積極的にもらってアタックする』

◆新大久保、小久保

—— まず、なぜ「カツオ」と呼ばれているんですか?

早速そこからですか(笑)。最初に言われ出したのは高3のときでした。高校ジャパンの合宿で、大部屋で雑魚寝していて、みんなであだ名をつけ合っていたんです。僕は頭と顔がデカいんで、「サザエさん」のカツオ君だ、と。髪が短い訳じゃなかったけど、そうなりました。でも定着するまでは、また込み入った事情があるんです(笑)。

—— その、込み入った事情をぜひ

高校時代は高校ジャパンで「カツオ」と呼ばれていただけで、大学4年間は普通に名前で呼ばれていました。

大久保 尚哉_画像1

サントリーに入って、同じ名前の大久保直弥さんがいたので、最初は"新大久保"とか"小久保"とか言われてたんです。でも長くて呼びにくい、と。そんな時、サントリーの選手がジャパンAの合宿へ行って、そこで高校時代のあだ名を知っている選手から僕が「カツオ」って呼ばれていたことを聞いてきたんです。

それでサントリーでもすぐに広まって、もう僕も「カツオ」と呼ばれないと振り向かないくらいになっちゃっいました。会社での行動予定表にも今は「カツオ」って書いてあって、 横に小さく"大久保"って、新人用に書いてあるんです。最初にサントリーで呼ばれ始めたのは、入ってすぐの5月ぐらいからでした。

—— どうでした?嫌だった?

最初は嫌でした、馴染みもなくて、違和感がありました。今は、いいかな(笑)って。ファンの人にも「カツオちゃん」なんて呼ばれて「はい」って応えちゃうんですが、「この人ちゃんとした名前知ってんのかな?」と思ったりはしてます。会社では上司でも誰でも「カツオ」で呼んでますし、覚えてもらえるということで、それはそれでいいんじゃないかと思ってます。

—— チームでもファンも会社でも。さすがに奥さんは......

嫁さんは名前で呼んでくれます。

—— いちばん聞きたかった「カツオ」の由来を聞けて満足です

もう終わりですか?(笑)

◆大運動会、小運動会

—— それではオーソドックスに、ラグビーを始めたのは?

小学校のクラブ活動でした。溝の口にある洗足学園大学附属小学校というところへ行っていたんですが、上級生になるとクラブ活動を選択するんです。僕は当時人気だったローラーホッケー部に入れなくて、ラグビーをやることになりました。

大久保 尚哉_画像2

—— ローラーホッケーが人気だったんですか?

当時、光GENJIが流行っていて人気があったんです。校庭でやっていました。

—— ラグビーをやり始めた時から背は高かった?

学校では後ろの方でしたが、もっとデッカイ人はいました。僕は160cmちょっとでした。

僕が通っていた小学校は、大学附属の中学、高校は女子校なので、中学受験を目指す学校でした。なので小3ぐらいから塾通い。学校終わって3時ごろに家に1回帰って、電車に乗って二子玉川にある塾に行ってました。

だからクラブ活動と言っても、授業に組み込まれているクラブ活動で、週に金曜日の5~6時間目の1回だけしかやっていなかったんです。

—— 中学は成城ですね、じゃあラグビー部がありますね

小学校の時にラグビーやローラーホッケーをやってましたが、僕自身は野球が好きだったので、野球部に入ろうと思っていたんです。でも当時同級生の中では足が速かったし、ラグビー部の顧問の先生に誘われたり、仲のいい奴がラグビー部に入ったりしたので、「じゃあラグビーやろか」(笑)って入りました。

—— 野球をそこでやらなかったことは後悔してませんか?

今は野球に興味がなくなったんで、そうでもないですね。

—— 中学のラグビー部はどうでした?

中学でラグビー部に入った後、カルチャーショックを受けました。中学になると上下関係が厳しくて、1年生がミスすると2年生が罰として走らされました。それが嫌で辞めたかったんです。

それから当時は皮のボールだったんですが、1年生はそれぞれボールを1つずつ担当して、軍手を右手にはめてボールにつばをつけて磨いていました。毎日昼休みにやって、部室の掃除もするんですが、ボールの光り具合が悪いと昼飯がいつまでも食えないんです。

大久保 尚哉_画像3

今考えてもバカバカしいと思います。でも僕が上級生になった時にもこれは継続していて。伝統的なものなんですね。1人がミスすると連帯責任を取らされ、"大運動会""小運動会"の名のもとに、走らされました。

—— 嫌で辞めたくてバカバカしいのに、なんでラグビーを続けたんでしょう?

嫌で嫌でしょうがなかったけど、あれよあれよという間に中2になっていて、中2で試合に出られるようになって、いちばん初めに出た試合で、なぜかわからないけど2トライしちゃったんです。それが面白かったんですね。中3になると年齢順で出られるようになるんですが、上手い奴らは2年から出ていました。

◆中学で20cm以上伸びた

—— 当時から背が高かったんですか?

中学に入った時に164cm、卒業する時に185cmでしたから、20cm以上伸びました。でも肉がついていなくてヒョロヒョロでした。身長が高くなるに連れて、足の速さが衰えてきました(笑)。体育の授業でバレーが得意で、アタックを打っても決まったので、高校ではバレー部に入れって言われました。

僕もその気になって、高校へ入ったらやる気でいたんです。バレー部の奴らとも仲良くなったんですが、中学卒業前の2月に、ラグビーの新しいスパイクを買っちゃったんです(笑)。親に買ってもらって、もったいないなと思って、それでラグビーを続けることにしました。

—— 高校も成城学園ですね

エスカレーター式なので、中1のときの中2、中3がそのまま高校のラグビー部にいるんです。中学の時ほど上下という感じはなくなっていましたが、高1の時は部活の雰囲気がフワフワした、どこに目標あんのかなという感じで、それに流されて、とりあえずやっているという状態でした。

大久保 尚哉_画像4

高3の人たちにセンスがあって、それでやっている感じで、練習も大したことやってなかったんです。その先輩たちが、11月の都大会の準々決勝で負けて、高2の新しいキャプテンになったんですが、そこから本気でラグビーにのめり込んでいったんです。

キャプテンになったその先輩は熱い人で、やるからには花園を目指す、という人でした。東京には国学院久我山ほか強豪がたくさんいますが、思いっきり1年やれば夢じゃないぞと。ラグビー部顧問の体操出身の先生も、お前らが全力でやるなら土日もやろう、と練習を見にきてくれて、それから辛い練習が始まりましたが、楽しい毎日でした。

—— 高校では身長は?

高1~3年で4cm伸びて、そこで止まって、今189cmです。

—— 自分で見て中・高ではどんな選手でしたか?

中学でも高校でも計画的にウエイトトレーニングができてないですから、まだパワーがなくて、力のない分、持久力で走ってカバーするみたいな感じでした。

◆江戸川でやれた自信と感触

—— 花園を目指した結果は?

高2の年は、がんばってやり過ぎて、4月の関東大会では2、3回戦であっけなく負けてしまいました。休みなく練習してきて、今までみんなでやってきたことは何だったんだろうってことで、1週間、まるまるオフにして遊びまくろうと、リセット期間を置いたんです。

そのあと7、8月の合宿を経て、花園の東京都予選では準決勝まで行ったんです。準決と決勝を江戸川陸上競技場でやっていましたが、僕らの高校はそんなところへ行くのも初めてでした。相手は国学院久我山で大差で負けましたが、とにかく江戸川でやれたということで、自信と感触がつかめました。みんなで目標に向かってやって結果が出て、高3の時よりもこの時の方が印象に残っています。

大久保 尚哉_画像5

高3の時は新キャプテンが決まってやり始めて、余力があるまま新人戦とかに勝って、都の第6代表ぐらいで関東大会に出て、Gグループでしたが優勝できて、また自信が持てました。その辺で高校代表候補に選んでもらって、オール東京にも選んでもらって、愛知国体に東京代表で出て優勝しました。

高3の花園予選では準々決勝で負けて、結果を出せませんでした。大雨の日で、都立三鷹高校のグラウンドでやったんですが、今でも映像が蘇ってきます。最後の最後にゴールキックを入れられて負けた、そんな感じの試合でした。

—— そして大学は筑波大へ

はい、大学はまず成城大学へ行くという選択肢もあったし、早稲田にも憧れがありました。高校のオール東京のフォワードコーチで、池戸先生という筑波大出身の方がいて、その尊敬している方の薦めもあって、最終的に筑波大学を選びました。

高校の顧問の先生から、筑波は学生寮がすごく綺麗でいいところだと聞いていました。それが行ってみたら27号棟とかあって、1号棟に200人ぐらい入っていて、体育会だけじゃない学生寮で、ほんとに狭くてそこではテレビを見て寝るだけしかできないところでした。僕が入ったところは特に"スラム街"と呼ばれているところで、雑木林の中にあって、5~7月は湿気がすごかったんです。湿気で電話機が壊れたり、雨の日に濡れたリュックを置いておくと翌日にはカビが生えていたり、部屋の中にダンゴムシやナメクジが入ってきたりと、とにかく嫌でしたね。

1年生は優先的に入るということで、2年になって速攻でそこを出て卒業するまで、学校の周りにあるマンションを借りて住みました。普通、ラグビー部の寮だったらご飯が出てきますが、筑波はぜんぶ自炊か外食でした。だから栄養面で問題があって、学生向けの食堂が幾つかあったので、毎日違う食堂に行ったり、練習のないオフの暇な日には自炊もしてみましたが、1回だけの食事では食材もあまってもったいないので、卒業するまで外食パターンでした。

大久保 尚哉_画像6

◆大物食い

—— プレーの方はどうでしたか?

大学に入った1年の時は、明治の黄金時代で、大学対抗戦(※1)に50連勝とか51連勝している時で、その連勝を筑波がストップした試合に出させてもらったんです。

※1:大学対抗戦=
関東大学ラグビー対抗戦グループのことで、Aグループは早稲田、帝京、慶應、明治、日体、筑波、立教、青山、Bグループは成蹊、学習院、明学、東京、成城、上智、一橋、武蔵が所属。一方、関東大学ラグビーリーグ戦グループには、関東学院、法政、大東文化、東海、流通経済、日本、中央、立正が所属。

筑波は大物食いと言われていましたが、勝った時は鳥肌が立つほど嬉しかった。明治が最後ロスタイムを入れても残り3分ぐらいの攻撃で、そこから明治が目覚めたように猛反撃を開始して、2点差で勝っているこっちは、ペナルティしちゃいけないし、もちろんトライを取られてもいけないし、明治は自陣22mからの怒濤の攻撃でした。

最後はフルバックとウイングの2人がライン沿いに走った選手を押し出して、タッチラインに出した後、レフリーのホイッスル吹かれるまでが本当に長くて、ようやくノーサイドになって、みんな両手を挙げて喜んだのが、頭に残っています。1年で出させてもらって、明治に勝ったことがいちばんの思い出です。

その年はリーグ戦5位で、その順位だと大学選手権でだいたい関東リーグ1位と当たるんですが、ラトゥ(※2)が4年でキャプテンをやって、オト(ナタニエラ/東芝)なんかもいた大東文化大にも勝ったんです。

※2:ラトゥ・シナリ=
1965年トンガ 生まれ/フランカー、ナンバーエイト/日本、トンガ の2か国代表

今までテレビで見ていたスーパースター、明治であれば赤塚選手(隆/クボタ)、信野選手(将人/リコー)たちが、目の前にいてやるなんて、最初は実感がわかなかったくらいでした。

大久保 尚哉_画像7

—— 早稲田は意識しませんでしたか?

大学へ入ったらそのチームが勝つことが目標になるので、早稲田へもし入っていたらなんていう気持ちはまったくなかったですが、ちょっと特別な感じはありました。早稲田には対抗戦の4年間で1回も勝てず、4年の時の引き分けが最高でした。この試合は勝てる試合を落とした感じで、悔しかったのを覚えています。

—— 大学の時には代表に選ばれましたか?

7人制代表候補とU23に選んでもらったりして、遠征に行ったりしました。7人制代表には大学3年の夏合宿の時に選ばれたんですが、先生に連絡があって「お前、選ばれたらしいぞ」「えっ、僕がですか?」「なんだ、今、人材不足か」と皮肉みたいなことを言われたのを覚えてます。

◆歳をとってきて充実

—— 大学からサントリーへ入りました

他の会社からもお誘いがあって、中高はしょうがないとしても、筑波も1位になれなかったチームでしたので、強いところでやりたいという気持ちがありました。そしてサントリーは、仕事とラグビーの両立がいちばん徹底されていると思いました。実家も府中グラウンドに近くて、子供のころからよく知っていました。

サントリーへ入って1年目、仕事とラグビーの両立が始まりましたが、シーズン中は夜7時半からの練習でした。それはそれで大変でしたが、2年目になって土田監督(雅人)になると練習時間が早まりました。そうするとさらに限られた時間の中で仕事をするので大変でしたけど、若い時の方が大変だと思ってましたね。歳をとってくると、要領を覚えて充実感が出てきます。

大久保 尚哉_画像8

—— 今年はサントリー何年目ですか?

8年目です。土田さんの最後の年、社会人4年目の時に、ナンバーエイトで試合に出る機会が多かったんですが、春の最初の方の試合でダメで、監督から怒られて、夏合宿前の練習で1回、ロックで試合に出たんです。

それで吹っ切れてトントン拍子に良くなって、合宿でも思い通りにプレーができて、英国のプロチームのサラセンズ(※3)が来て、8月の終わり頃に国立競技場で試合をしました。結局負けましたが、後半20分まで善戦して勝っていて、この試合で自信をつけました。

※3:サラセンズ=
イングランドの最上位リーグ「プレミアシップラグビー(12チーム)」に所属/本拠地はワトフォード

吹っ切れたのは、それまでナンバーエイトで何をやってるか分からない状態になってしまっていて、決め事を守らなければと小さく型にはまってやろうとしていたんです。それがロックで出て思い切ってできて、そうか、別に思い切ってやればいいじゃん、という気持ちになって楽になりました。

サラセンズ戦では、バカでかいプレーヤーに力で対抗してもしょうがないので、持ち味の走力を使って、攻めないと勝てないのでボールを持ってぶつかっていく、積極的にボールをもらいにいく、ということを心掛けてやりました。自分では70点ぐらいの出来でした。

—— 自分の長所は何だと思いますか?

走る、走力、ですね。

—— 短・中・長距離とありますが

中距離ですね。3,000mとか1,500mの測定は、昔から得意でした。好きじゃないですけど(笑)。後はボールを積極的にもらってアタックすることですね。

成城や筑波では自由でしたが、サントリーへ入って2~3年目、土田さんが監督になって、決め事が多くなって、その中でもボールをもらいにいかなきゃいけないのに、決めに縛られてボールをもらいにいけなくて、戸惑っている自分がありました。2年目はリザーブ、3年目、4年目はナンバーエイトで出て、さっき話した吹っ切れたところに繋がるんです。

大久保 尚哉_画像9

◆去年は安定して充実した年

—— 昨シーズンはどうでしたか?

去年は永友監督(洋司)の最後の年でしたが、春から体調も良くて、最近ではいちばんいい状態だったと思います。仕事の内容が4月に変わって、それまで別会社に出向していたんですが、戻ってきてスーパーの営業担当になりました。やりたかった仕事でしたし、ラグビーも調子よくやれていて、仕事も新しくて大変なことも多いけど充実していて、体的にも精神的にも安定して充実した1年でした。試合も、シーズン前半は怪我して出られなかったけど、その後の試合にはコンスタントに出させてもらいました。

—— 良かった原因は?

子供が生まれたことかもしれません。去年の9月に娘が生まれて、自分では意識してなかったんですが、考えてみるとそうかもしれません。それと仕事が変わって生活のリズムが変わったのも良かったんじゃないでしょうか。

—— 自分の性格をどう思いますか?

恥ずかしがり屋、目立ちたがり屋の短気、の何とかなるさ精神。つかみどころがないですね(笑)。試合中にカッとなることもありますが、どこかで冷静に見ている自分もあります。

—— ご両親は?

両親は親父が毎回見に来てくれます。地方の試合でも旅行がてら来てくれていました。テレビ放送がない時は、ビデオに撮って送ってくれたりもします。もう趣味と化してますね。NECでサラリーマンをやってたんですが、定年で自分では"自由人"と言っています。バレーボールをやっていたらしくて、9人制の時代で、母親も9人制をやっていたみたいです。2人とも背が高いんです。あと兄妹は姉貴がいます。

—— 今年の目標をお願いします

まずチームの優勝ですね。トップリーグもそのあとのトーナメントも。

将来的には、1日でも多くラグビーを続けて行きたいですね。大学にしても高校にしても、同期の奴らでラグビーをやり続けてるのは僕だけ。社会人やったり先生をやったりしている奴らに、会ったり電話したりすると頑張れよと言ってくれるので、なかなかそう言われると辞めづらいですよね(笑)。

大久保 尚哉_画像10

—— ずっと続けているラグビーの魅力は?

プレーがどうのというよりも、1回試合をしたり、合宿で一緒になったりするだけで、友達になれます。その友達が仲間として一生続く、それがラグビーの魅力ではないでしょうか。

(インタビュー&構成:針谷和昌)

一覧へ