Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第53回
「聡明に楽しむ」

作・達磨信

 80歳を超えている。大柄でもなく小柄でもなく、中肉中背で、際立つのは姿勢だ。背筋がピンと伸びている。これが年齢を読めなくしている。
 威圧感はない。穏やかな表情を崩すことなく人を柔らかく包み込む。気遣いを見せるときはさらに柔和になる。それはまるで人生の悦びを知る者が持ち得る光のように周囲に明るさと温もりもたらす。
 この人が周囲に与える安心感、安定感はどこから生まれるものだろうか、と錦一は不思議でならない。

 バーテンダー界のレジェンドである橋上清和さんが店にはじめてお見えになった。カウンター席に着かれて料理を召し上がっていただいている。一つ離れた席では錦一の父である二代目がお相手をしている。
 職人としての敬意からか、二代目の高揚感は頂点に達していた。レジェンドの一言一句も聴き漏らしてはならないといった緊張状態がつづいている。
 今日、橋上さんは不定期開催の市民講座『極める』で講演をされた。これは市役所の広報にいる錦一の幼馴染でサーフィン仲間の諒汰が中心となって企画しているもので、専門性の高い仕事で功績のある人たちを招いている。店の常連客である国際政治経済学者の津嘉崎さんも講演されたことがある。今回は幸運にも店の定休日の日曜開催だったので錦一たちは拝聴することができた。
「ごちそうさまでした。とても美味しくいただきました」
 橋上さんは箸を置いて、礼を述べられた。
「日曜日で河岸が休みなもんで、新鮮な魚をお出しできなくて残念です」
 二代目が恐縮してそう言うと、「お休みの日なのに、わたしのためにお料理をつくっていただき申し訳ありません。ステーキが驚くほど美味しくて、そして津嘉崎さんのお義父様の越水画伯スペシャルコースをいただけて光栄です」と橋上さんは頭を下げた。
 愛には「響のミスト、食中酒として素晴らしかった。こちらは津嘉崎スペシャルとおっしゃいましたが、冴えた飲み口で、しなやかさもあり、またお料理の味わいを損ねることなく仕上がっています」と声をかけ、称えた。
「ほんとうですか。とっても嬉しいです。津嘉崎さんにはそのときによってローヤル、あるいは響でおつくりしています。クラッシュド・アイスを使ったウイスキー・ミストをお教えくださったのは、竹邨さんです」
「わたしのお店に何度かお見えいただきましたが、彼とそんな会話をされていたんですか。すると、女将も竹邨くんの大ファンでしょう」
「はい。熱烈なファンです。ロンドンにフィアンセがいらっしゃるとお聞きしました。凄い遠距離恋愛。なんだか自分がロンドンにいらっしゃる彼女のような気持ちになって、胸がキュンと締めつけられちゃって」
 錦一と愛も新婚時代に5年間ほど離れて暮らしたことがある。電車ならば海辺の古都と東京とは1時間ほどの距離でありながら、別居生活がつづいた。
 錦一は高校卒業後に京都へ料理修業に出た。1歳年下の愛は翌年、錦一を追って京都の大学へ進んだ。錦一が東京の料亭に異動となったとき、愛は大学を卒業して故郷に戻り市役所に就職する。それと同時に結婚したのである。
 錦一は東京で5年勤めて故郷に戻り三代目となったのだが、その間、愛は市の広報で働いた。実のところ、諒汰の大企業の宣伝部から市役所への転職、越水画伯の展覧会開催や津嘉崎さんの講演の実現には彼女の貢献がある。今回の橋上さんの講演にしても、彼女が諒汰のために動いたのだった。
「竹邨くんファンなのに、わたしなんぞが登場して申し訳ありません」
 橋上さんはそう返したのだが、錦一はこの人はすべてをお見通しだ、と感じ入る。「わたしなんぞ」という言葉に、愛さんの働きはわかっていますよ、との気持ちがこもっている。柔和な表情から放たれる謙虚な言葉と態度は、まさに人生の悦びを知る者の優しさそのものである。
「その竹邨さんという若者に、わたしもお会いしたい。橋上さんが後継者としてすべてを託しちまえるんですから、素晴らしい方なんでしょうね」
 二代目の言葉に、橋上さんは笑顔で「はい」と返す。二代目はつづけた。
「今日の講演で、若い人たちに向けて、いまを聡明に楽しむ、と語られたことが印象に残っています。竹邨さんがそういう方なんでしょうか」
 橋上さんは大きく頷き、「聡明に楽しむ、という言葉はある詩人が書いた一節です。実は竹邨くんの仕事ぶりを見て、詩人の言葉を想い出し、なるほどそういうことなのか、とわたしが学んだのです」と言った。
 そして「彼の話をする前に、わたしにカクテルをつくらせていただけませんか。こちらにはラフロイグのご用意があるようですから、使わせていただけませんしょうか」と要望したのだった。皆が驚き、そして喜んだ。
 店の酒棚に置かれているのは、ラフロイグのストレートを食後にゆったりと味わう常連客がいて、その客のためのボトルである。
 皆に見つめられながら、橋上は手際よくカクテルをつくった。ミネラルウォーターではなく、ソーダ水にラフロイグをフロートさせたものだ。
 一昨年の夏のことだったと記憶する、と橋上さんは言った。花火大会の帰りにいらっしゃった常連客の無茶振りに応えて、竹邨さんがつくってみせたウイスキー・フロートだという。そのとき竹邨さんはこう説明したそうだ。
 ある作家の小説のなかに、花火の煌めきを一滴一滴の雫に見立てて、大輪の雫がたちまち消えた、というような表現があった。煙花をラフロイグのスモーキーさや味わいにたとえ、口中でスパークしながら硝煙となって消えていくような、そんな感覚をイメージしたのだ、と。
「そのお客様は、小説の表現をジャズ的な即興性でカクテルに仕上げてしまう彼の感性に感動されましてね。その夜は他のお客さんも巻き込んで、花火の話で盛り上がりました。彼はお客様を見事に虜にしちゃうんです」
 橋上さんはその様子を見て、詩人が書いた“聡明に楽しむ”という言葉を理解したそうだ。そして竹邨というバーテンダーの凄みを実感した。
「彼は読書をするが多読ではない。音楽も聴けば、映画も観る。でも決してマニアックではない。それでも自分の知見を見事に表現できる。おそらく観察力や判断力が誰よりも優れているんでしょう」
 だから安心して彼にすべてを託せる、との想いが芽生えた。
「彼の聡明な仕事ぶりから、自分の成したことに未練など持っちゃいけないんだと教わったのです。新たに活躍する人は、必ずや登場するんでから」
 竹邨さんは功名のために仕事をしている訳ではない。いま何が大切か、何が求められているか、それを察知していかに対応するか。最終的には、自分は満たされ、達成感はあるか、と問いながら真摯に仕事をしているのだ。
「うーん。竹邨さんとおっしゃいますが、それは橋上さんご自身のこれまでの生き方そのものじゃないんですか」
 二代目が気持ちを語ると、橋上さんは笑顔を崩すことなくこう応えた。
「日々の仕事は瞬間芸みたいなもの。明日も同じようで、違う一日。花火のように咲き、消えていく。無にはじまり、無に終わるんだ、と想えるようになりました。だから自分のために何かを遺そうなんて考えることは意味がない」
「それでも、橋上さんが築き上げた店は存在している訳じゃないですか」
 二代目は質問を重ねる。橋上さんは優しい眼差しを見せて、「いや、店は竹邨くんの色に新たに染まるのです」と返した。
「親から子へと代々引き継いでいく、わたしたちの生き方とは違うんでしょうかね。無に終わる。それでいいんですか。凄いな。到底敵いません」
 そう言って唸っている二代目に温かい眼差しを向けながら、「職人として家業を継いでいく厳しさに比べたら、わたしどもの生き方なんて、高が知れていますよ」と橋上さんは言った。
 承認欲求が強い時代にあって、この人は謙虚に静かに、人生の悦びを伝え遺す仕事を立派にやり遂げられたのだ、と錦一はこころのなかで呟いていた。

(第53回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

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