Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第54回
「面倒な憧れ」

作・達磨信

 なんともよく食べる。秋刀魚の南蛮漬けにバケットの付いたキノコのアヒージョを味わいながら、キュッとローヤルのオン・ザ・ロックを噛み締める。
 ヒロの右腕になってくれることを期待している粂澤勝也の食べっぷりは圧巻だ。見ていて気持ちがいい。
「しっかりとした味付けのものばかり食べるんだね」
「今日は特別です。ウイスキーの勉強をして頭が疲れ、名所旧跡を歩いて足が疲れ、かなりのカロリーを消費しましたから」
 粂澤は明るく元気に応える。屈託がなく、誰からも愛されるキャラといえるだろう。9月からヒロの下で働きはじめて、まだひと月に足りない。
 今日は粂澤と山崎蒸溜所見学をした。いきなりの日帰り社員旅行だ。
 7月初旬に面接をしたときに、白州蒸溜所には行ったことがあると話してくれた。そしてヒロの大先輩である坂戸マスターの店に行くようになってウイスキーの深い味わいに魅了されてしまったと聞いた。
 ならばすぐさま刺激を与えてやろう。山崎も知ることで仕事へのモチベーションが違うはずだ、と蒸溜所見学を手配して今日を迎えたのである。
 いまは夕方になり、無事に日程を終えてJR山崎駅前にあるダイニング&バーにいる。引退した師匠橋上清和マスターも贔屓にしていたが、料理が美味しくて、山崎を訪ねたならば必ず立ち寄らなければいけないツアー・コースとして必然的に組み込まれる店だ。
 料理をオーダーしてすぐに、日本のウイスキーの故郷、山崎蒸溜所見学の興奮がなかなか冷めないと粂澤は言った。そして白州蒸溜所との違いを彼なりに見事に語ってくれた。確かな目を持っているし、これまで優秀なビジネスマンであったはずだ、とヒロは感じている。
 興奮状態で何を飲むのかと思っていたら、ローヤルをいただきたい、と粂澤は言う。蒸溜所奥に鎮座する椎尾神社の鳥居がボトルデザインのモチーフになっているからで、山崎の記憶としてアタマに刻み込もうとしている。
 ヒロはオールドのオン・ザ・ロックを味わっている。オーダーしたのは鯖のきずし、合鴨のスモーク、いぶりがっことクリームチーズ。もちろん粂澤にも箸をつけるようにすすめている。どれもウイスキーの肴として最高だ。山崎シェリー原酒の香味が効いた芳醇さとの相性もいい。
 ヒロはちょこちょこっとつまみながらオールドを舌に浸潤させている。
「あの、最後、ご飯食べてもいいですか」
 まだ皿が空いていないのに粂澤は締めを考えている。ヒロは驚き笑いながらも、「うん、食べよう。俺はここのドライカレーを食べないと山崎に来た気がしないんだ」と返すと、彼はメニューを眺めながら悩みはじめた。
「ドライカレーが旨いんですか。どうしようかな。やっぱ親子丼かな」
 彼の食欲にヒロは驚嘆しながら、ローヤルとオールドのお替りを頼んだ。
 3ヵ月の試用期間があるとしてはいるが、形だけのものだ。決まった時間に出勤でき、普通に仕事ができて、清潔感があるだけでもう十分といえる。
 何よりも粂澤は雑巾の絞り方がわかっている。ヒロが橋上マスターにまず教わったのは、というよりも笑われたのは雑巾の絞り方や扱い方だった。
 最初の頃のヒロはさまざまな面で無知で、自分はこれほどまで役立たずの人間だったのかとひどく落ち込んだ。己の愚かさに愕然としたのだった。
 面白いことに粂澤と仕事をしはじめたらカウンター内が狭くなったように感じた。橋上オーナーと違って彼はガッチリとした体型だ。
 それでも学生時代に野球のキャッチャーをやっていたからだろう、フットワークがいい。ヒロの動線に支障が生じることが少ない。どうしていいのかわからない場合は程よい距離を保って指示を待つ。賢い奴だとヒロは想う。
 手先は器用とは言えない。ただそれは一概にマイナスという訳でもない。不器用な人は上達に時間がかかるかもしれないが、そのぶん揺らぐことのない強い基盤を築き上げるような気がするのだ。
 ヒロは多少まともになった頃に橋上から、「キミは器用で飲み込みが早い。それは認めるけれど、一つ一つの仕事を丁寧に繊細に、細部まで徹底的にやり遂げることを意識しなさい」と言われた。それからはボトルやグラス、器材を丁寧に扱い、最後の一滴をグラスに注ぎ終わり、客の手元に提供するまで気を入れて研鑽をつづけてきた。凡事徹底。その意味を日々噛み締めている。
「あの、竹邨さんはオールドがお好きなんですか」
 ローヤルのオン・ザ・ロックを口にしながら粂澤が聞いてきた。
「キミと同じで今日は特別かな。椎尾神社の鳥居を意識してローヤルとキミが言ったから、俺は山崎シェリーが効いたオールド。山崎つながり」
 そう答えたのだが、オーダー時にオールド好きの爺ちゃんや菜々子の顔が何故だか浮かんできたのである。
 この夏、爺ちゃんは体調を崩した。ロンドンから菜々子が短期ではあるが帰国してきて、ヒロのところに居るときは毎日のように爺ちゃんを見舞った。そのときだけは爺ちゃんの体調はよくなった。ほんの少しではあったが彼女とオールドを飲むこともあったという。
 母が菜々子の見舞いを歓迎しながらも、彼女の夏休みが終わった後のことをひどく心配していたことはヒロには痛いほどわかった。彼女が再びロンドンに発つと、やはり爺ちゃんは寝たり起きたりの日々に戻った。
 ヒロは強い爺ちゃんしか知らない。とはいえ今年91歳。衰えて当然ではある。それでも鍛え上げた剣士で、竹邨先生といえば誰もが一歩退いて頭を垂れるほどの存在だ。達人として名を馳せ、細身ながら強靭な爺ちゃんが衰弱していくなんてことは受け入れ難いのだった。
「実は、僕は小学生まで剣道をやっていました。お父さんの竹邨先生に頭を撫でられて褒めていただいたことがあるんです」
 粂澤が父のことを知っていると明かして、ヒロは"なんだか、いろいろと驚かせてくれるな"と胸の内で呟く。父は長く大学の剣道部の監督をやりながら、全国のいろいろな道場に依頼されて子供の指導もおこなっていた。
「小学校の高学年のときに正月の全国高校サッカーをTVで見ていたら、竹邨という凄いスター選手がいて、ゴールを決めた。お爺さんは剣道の師範、お父さんは大学剣道部の監督、お母さんは学生チャンピオンだった、と紹介されたんです。えっ、あの竹邨先生の息子さんなんだ、って驚いちゃって」
「余計なものを観てしまったな。忘れてくれないか」
 ヒロは今更サッカーをやっていた高校時代に触れられたくはなかった。
 粂澤は坂戸マスターの店の常連になったときに、坂戸さんがかつて橋上さんの右腕であり、いまそのポジションにヒロがいることを知ったのだという。
「橋上さんは雲の上の存在です。でもその右腕が竹邨さんだった。もう信じられないような出会いなんです。こうしてウイスキーを飲んでいることも信じられません。竹邨さんはすべてにおいて僕の憧れの人になっちゃいました。だから緊張して、毎日のように迷惑ばかりおかけしている自分が情けなくて」
「ほんとうにそうか。そうは見えないけど」
 こう答えてヒロは気持ちを落ち着かせるかのようにオールドをゆったりと啜り、「憧れは捨ててくれ」とつづけた。粂澤は「それ、どこかで聞いたようなセリフですが、ズルいっす。竹邨さんだって橋上さんのカクテルブックを見て憧れたって聞きました。憧れ、OKでしょう」と返してきた。
 体調を崩す前に爺ちゃんが「人をどう導けるか。それで上に立つ者の真価が問われる。責任の重さはもちろんのこと、とても面倒だぞ。ヒロはまだ若い。こころして、な」と言った。横にいた母が「お爺ちゃん、その点はヒロは心配ありません。なんてたって竹邨師範の孫なんですもの」と明るく言い放つと、爺ちゃんは「そうか」と言って苦笑した。何か言い足りなさそうだった。
 手元で輝くオールドのロックにそのときの爺ちゃんの顔が浮かんだ。
 爺ちゃん、たしかに面倒だ。

(第54回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

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