
作・達磨信
多少の戸惑いはあるものの、救いの声でもあった。
「どうだろうね。一度会ってみては」
師匠の橋上がそう言うと、兄弟子である坂戸がヒロに向かって深く頭を下げた。そして隣の席に座った里原瑠璃が「よろしくお願いします」と神妙な顔つきでヒロを見つめる。
「お会いして、いろいろと話をしてみます」
ヒロがそう答えると、坂戸と里原は安堵した表情を見せた。
月曜日の営業前、店にはチーム橋上のメンバーが揃った。先週、橋上が花を活け替えに来ることがわかると、月曜日が定休日の坂戸はアシスタントの里原を伴い、橋上が花を飾り終える時間を見計らい登場したのだった。
橋上の引退前から、ヒロのアシスタント探しははじまっていた。ただし外に向けて広く募集するようなことはしていない。橋上の「縁ですよ。いい出会いが生まれるまで待ちましょう」という姿勢に、ヒロも同意していた。
今回、坂戸の店の常連客で、しかも里原の恋人でもあるという人をアシスタントにどうかという話が持ち上がった。大手企業のビジネスマンだったが、悩んだ末に退職した。いまは居酒屋でアルバイトをしながらバーテンダーという職に進みたいと切望しているとのことだ。
橋上の引退前に二度、そして今年のはじめにも一度、店にやってきているという。里原が風貌を説明してくれ、ヒロは大体の見当がついた。
「髪を短く刈り揃えていて、ガッチリとした体格の方ではありませんか」
里原の顔がほころび、坂戸が頷いている。はじめて店に登場したとき、「坂戸マスターのお店によく行っています」と言った30歳前後の客をヒロは覚えていた。橋上やヒロの所作をしっかりと見つめていた。
年齢が今年31歳になるそうで決して若くはない。30代後半のヒロとの歳の差もあまりない。そのあたり、橋上や坂戸のほうが気にしているようだ。
ヒロにはよくわからない。修業をはじめるには遅いのかもしれないが、要は本人の気持ち次第ではなかろうか。会って話してみないことにはなんとも言えない。すべてはそこからだ。ただしヒロの印象に残っていることに意味があるような気がする。それが縁というものならば喜ばしい。
気がつくと店を開ける時間になっていた。
「お客さんになってもいいかな。実は、瑠璃ちゃんと楽しみにして来たんだ」
坂戸がいつもの穏やかな口調でそう言った。橋上のほうも客の顔つきで席に座っている。ヒロは姿勢を正して3人と対峙すると苦笑してしまった。
ヒロが「なんだか実技試験のようで、緊張します」と言うと、橋上が「ごめん。今日が試験日だってことを伝え忘れていた」と笑わせる。
「そうだよな。師匠や先輩に居座られて仕事をするのは嫌だよね」
坂戸はそう言いながらも楽しそうだ。
「騙されちゃいけないよ。竹邨くんの、緊張します、は口先だけなんだ。彼は憎たらしいほど肝っ玉が据わっている。ちょっとやそっとでは動じない」
橋上のこの言葉に、「いやいや、誰だって緊張しますよ」と坂戸は気遣いを見せてくれ、里原は「わたしだったら逃げ出します」とポツリと言った。
その彼女に「さて、何にいたしましょう」とヒロは声をかけた。
「はい。ありがとうございます。知多でマンハッタンをお願いできますでしょうか。以前、飲ませていただいて、衝撃を受けました」
これに対して橋上も坂戸も「ほう」と声を発して、つづいて「では、わたしも」と口を揃えた。
里原が「竹邨さんはマンハッタンの摩天楼の夕暮れじゃなくて、深く静かな森に佇む湖の朝をイメージされているようです」と二人に話している。その声が次第に遠のいて行く。ヒロは自分の世界に没入する。
氷を入れたミキシンググラスにシングルグレーンウイスキーの知多とスイートベルモット、アロマティックビターズを加えてステアをはじめる。バースプーンの先端とステアする指先が一体化して材料が寄り添いはじめると、まだ夜が明けきらない湖の空気感、未明の冷涼な張りつめた感覚を覚える。指先から伝わるベストなミックスの状態を脳が感知して、ステアを終える。
カクテルグラスを赤い液体で満たし、カクテルピンに刺したマラスキーノ・チェリーを沈めると湖面が微かに揺らぎ森は目覚めはじめる。ただし、まだ眠たげに霧にかすんでいて、真の目覚めは飲み手に委ねてからのことになる。
飲み手がひと口含む。ウイスキーの温かい香味とベルモットのふくよかな甘さがシンクロした味わいは、目覚めを呼ぶ朝の光である。そしていたずらっ子のようなチェリーの甘さを噛みしめ、ふたたび啜ると、湖を取り巻く自然が深呼吸しはじめる。
そんなシーンをヒロはイメージしながらつくる。完全にカクテルづくりに入り込んでしまっていて、いつの間にか客の手元にマンハッタンを満たしたグラスがあることに気づく。
「おおーっ、いいですね。湖の朝霧が晴れていくような、そんなイメージ」
坂戸がそう言うと、里原が「清々しい朝のタッチですよね」と返した。
ヒロは覚えている。彼女が以前やってきたとき、ライウイスキーやバーボンでのマンハッタン、そしてスコッチでのロブ・ロイは飲んだことがあるが、ジャパニーズウイスキーとスイートベルモットとのレシピを試したことがないと言った。それならばと知多ベースでつくってあげたのだった。
「出汁のよさが生かされている。バランスがいい。後口もいい」
坂戸がそう評価すると、「まさに」と橋上は頷き、こうつづけた。
「かつて響を生んだチーフブレンダーは、モルトは味噌、グレーンは出汁とよくおっしゃっていた。あるスコッチのブレンダーは、油絵の具の溶き油(画溶液)である揮発性のテレピンやペトロールにたとえて、絵の具の伸びのよさでグレーンを語っていらっしゃった。このマンハッタンは、まさにジャパニーズの出汁のよさ、そして伸びのよさが生きている」
ここから橋上と坂戸のグレーンウイスキー談義がはじまった。
知多に限って言えば、世界共通語になったUMAMIに似たポテンシャルを抱いている。シルキーな滑らかさと光沢感があり、それだけで料理の一品といえるほど美味しくいただける出汁の味わい深さに通じるものがある。
ウイスキーの歴史のなかでグレーンはブレンデッドにおいて出汁的な貢献をしてきた。もちろん昆布のグルタミン酸、鰹節のイノシン酸といったものを含んでいるはずもないが、味噌汁にたとえるならば味噌であるモルトの香味を生かしながら調和して、しなやかな味わいへと導く役割を担っている。
ただし、出汁といっても、どんな特長のある出汁なのか、それが重要だ。
知多蒸溜所ではとうもろこしを主原料として、大まかにクリーン、ミディアム、ヘビーの3タイプの酒質をつくり分けているようだが、ヘビータイプは穀物用の香味が最も強く感じられる。しかも鰹節のようなニュアンスをも抱いている点が特徴的だ。感覚的なものでしかないとはいえ、UMAMIに通じる味わいが確かに存在している。
二人の大先輩が真剣に語り合い、二人の弟子は静かに聞き入る。語り終えた橋上はヒロを見つめ、「素晴らしい知多ハッタンです。酒質を理解し、すっきりとしたタッチに仕上げてある」と称賛した。
「褒めすぎです。よしてください。調子に乗っちゃうじゃないですか」
ヒロは橋上の言葉がくすぐったかった。すぐさま橋上が返してきた。
「ああ、これです、これ。口先だけなんだ。調子になんか乗らないからな、キミは。一度くらい、調子に乗ってんじゃないよ、って叱ってみたかった」
「優秀な弟子がいて幸せだったってことでしょう。そうでしょう」
坂戸のこの問いに、冗談とも本気ともつかない口調で橋上は答えた。
「わたしの力不足。彼のほんとうのうま味を引き出せていない。悔しいよ」
(第51回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希