
作・達磨信
週末、営業を終えて帰宅したヒロは脱力感に襲われる。一週間、仕事をやり切った充実感と心地よい疲労感もある。しかしながら今夜はいつもの脱力感はなかった。
気怠さはあるものの頭は冴えわたっている。心身のアンバランスさにどう対処していいのかわからない。
日付はすでに日曜日。寝て起きれば休日であるのに眠れる気がしない。脳内スクリーンの幕が閉じることはなさそうだった。深夜に街角を煌々と照らすコンビニのような明るさがあり、そこに映し出されているのは面倒な想い、というかどうでもいいことばかりだった。
どうでもいいことなのに頭から上手く消えてくれない。怒りはなく、苛立ちというほどのものでもなく、胸の内に中途半端な感情が居座っている。
今夜の伸之の話が燻っている。ボウモアの甘美さのなかにあるスモーキーさを嗅ぎながら、彼はこう言った。
「SNSに、ヒロさんへの嫌がらせ投稿がある。許せない」
バーテンダー界のレジェンド橋上清和が引退して、店を継いだヒロに対しての嫌味なコメントを目にしたらしい。取るに足らないことなのだが、大学の後輩でヒロを慕ってくれている伸之にしてみれば頭に来ることだった。
彼の話を聞きながら、なんだか変な一週間だったな、とさほど気にしていなかったことまでが記憶の水底から浮かび上がってきたのだった。
何をするのも億劫で、老人のように動きは緩慢になる。普段であればゆっくり風呂につかるところをシャワーで済ませ、冷蔵庫からウイスキーのハイボール缶を取り出す。
ヒロはハイボール缶を常備している。角ハイ、トリハイ、ビームハイなどが最低でもひと缶ずつ冷蔵庫に入っているのだが、それには理由がある。
プレミアムなウイスキーは精神的にリラックスした状態で飲みたい。ところがいつも一定の心理状態であるとは限らない。やけに味わいが気になってしまう夜があり、テイスティングにはまり込みそうになる。職業病だ。そんなときにハイボール缶は気持ちを切り替えるのにもってこいないのだ。
また、疲労感の強いときには重宝する。面倒がないのがいちばんだ。プルトップを開けるだけでいい。そのシンプルなスピード感に救われる。
今夜はトリスハイボール缶を選んだ。しかもタンブラーを用意して、氷を入れた。シャワーを浴びて気分があらたまったせいなのか、なんとか身体に喝を入れることができた。
飲むスタイルだけは崩さないようにとの想いがあった。気持ちが落ち込んでいる訳ではないのだから雑な飲み方をしてはいけない。とにかく穏やかに飲んで、こころを清めようとしたのだった。
缶から丁寧に注ぎ入れた一杯をテーブルの上に置く。光の加減だろう、透明感のあるゴールドの液体が美しい。立ち上り弾けるソーダ水の小珠には気怠さを洗い流してくれるような爽快感がある。見つめていると、なんだかプレミアムウイスキーのハイボールを飲もうとしているような気になる。
意識してゆったりとグラスを傾ける。冷たくすっきりとキレのある味わいが口中を滑っていく。レモンが効いた心地よい口当たりは、リフレッシュドリンクとして最高である。ヒロが店でお客様に提供しているウイスキーハイボールとは異なる旨さがある。
これはこれで立派なカクテルではなかろうか。二口目を口にしながらそう想う。すでにこころは凪いでいた。
伸之が教えてくれたSNS情報のあらましはこうだ。
レジェンドの跡を継いだ若いバーテンダーは、師匠の真似をして取材を断っているらしい。何様のつもりなんだ。立派な花がかざられているが、いまだに引退したレジェンドが活けに来ているらしく、若いのはただ甘えているだけで独り立ちできていない。その他は根拠のない噂ばかりのようだ。
伸之は「誰がこんなことを発信するんだろう。常連のお客さんにはいないですよね」と怒っている。ヒロは「誰でもいいじゃんか」と返した。
ヒロの師匠、橋上はマスコミ取材を一切受け付けなかった。カクテルブックをはじめ数冊の著書がある。名前は知られているのに、顔はあまり知られていないという現代では珍しい人間である。
勝手な噂が真実のように広まっていた。会員制バーではないのに、紹介者がいないと入れてくれない、とか、一見さんお断り、だとか。
たしかに敷居が高い面はあるだろう。ベテランバーテンダーたちの多くが尊敬し目標とする人物として橋上の名を挙げる。長年にわたり彼らがマスコミに対して、橋上を慕い、影響を受けてきたと語ってきたために、変に崇められてしまっていた。若いバーテンダーにとっては雲の上の存在でもある。
それでも及び腰ながらの初来店の客もいる。勇気を振り絞って来ました、という人がいる。そいうとき、橋上は穏やかな微笑みを湛えながら歓待し、最初の一杯をつくり、きちんと頭を下げて、その後はヒロに任せる。
ヒロは心地よい時間を過ごしていただけるように穏やかな接客につとめて送り出す。何も特別なことはしない。自然体で丁寧に酒を供するだけでいい。
「常連になっていただこうなんて欲を出してはいけない」
橋上には常にそう言われてきた。そしてヒロが少しずつカクテルをつくらせてもらえるようになったときに、「技術を磨いて、美味しいカクテルを提供するのは当たり前のこと」と言われた後に、さらにこう付け加えられた。
「バーテンダーは酒を売るのではない。自分を売る仕事だ。お客さまから愛されるかどうか。ただし媚を売ってはいけない。自分を磨きなさい」
これが師匠からの教えだった。清潔感にはうるさかったが、他に特別に教わったことは何もない。ほんとうに何もない。不思議と何もない。
ヒロは教えの通り淡々と仕事をしてきた。背伸びしても越えられないものがある。階段を一つずつ上っていくしかない。急いても仕方がない。いまはレジェンドの跡を継いだプレッシャーしかない。この重圧に耐えていけば、いつかは竹邨の味わいが生まれてくるはずだと信じている。
そういえば週のはじめに、高校時代にサッカーでヒロと対戦した、という客が来た。その客の出身校とは練習試合をしたような気がする。名前とポジションを言われたがまったく記憶にない。橋上引退が新聞のコラムで伝えられたとき、閉店することなく弟子が跡を継ぐ、と書かれた。
「コラムに竹邨洋孝の名があったから驚いた。消えた天才ストライカーが、まさかバーテンダーになっていようとは」
やたらと親しげにそう話しかけられた。そして他には何本かメディアの取材依頼もあった。名店を引き継いだのだからいろいろとあるのは仕方ないが、こんなことを気にかけていては前にすすめない。
トリスハイボールで口中を潤す。すると突然、母からのメールを何日も無視していたことを想い出し、スマホを手にする。
「今日は母の日。菜々子さんからピンクのカーネーションが届きました。今年もロンドンから気にかけてくれていて、とっても嬉しい」
その文面につづいて、母がピンクの花びらに口づけをしている気色悪い画像が張り付いていた。そしてまた二日後にもメールをよこしていた。
「既読になってないじゃん。あなたいま難しい顔をしてるでしょう。そういうときのヒロは絶不調だからね。美人の母の画像を見て笑顔になりなさい」
何言ってんだか、と想いながらもヒロは笑ってしまう。
そうか、難しい顔をしているか。しかしながらこんな写真を撮ったのは誰だろう。父に決まっているか。いい歳をして、子供の悪ふざけじゃんか。
氷の音を立てながらリフレッシュドリンクの残りを飲み干す。
(第50回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希