Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第49回
「浮世離れ」

作・達磨信

 週末の夕食後、こころ安らぐ時間。良直はリビングのソファーに腰を落ち着かせて角瓶のオン・ザ・ロックを飲む。
 キッチンでは妻の藍と4月から小学5年生になった娘の結衣が食後の後片付けをしている。良直の耳に届く二人の会話は愉快でなかなかに興味深い。
 娘の担任の先生が、ある男性アイドルグループの大ファンだという。「そんなグループ知らない。興味ない」と娘は先生に言った。すると「ウソーッ、ほんとなの」と不思議な生物にでも出会ったかのように驚かれたらしい。
「先生って、ママと同じくらいの年なんだよ。それなのにどうして20歳にもなっていないアイドルのファンになるのか、わたしには理解できない」
「それはおかしいわよ。年齢は関係ないでしょう。それにね、大人って子供が大きくなっただけなんだよ。子供より、特別凄いってことはないの」
「じゃあ、大人って子供とどう違うの。身体の大きさだけなの」
「簡単には言えないけれど。そうねぇ。現実的な大きな違いは、大人はお金を稼ぐ手段を知っているというか、お金儲けの手段が増えるってことかな。同時に、子供の頃よりも可能性がグーンと広がる。自分のやりたいことを、理想を抱いて、熱心にやりつづけると、いいことあるよ」
「ふーん、そうなの。可能性が広がるのか」
「これから中学生、高校生になっていくなかで、好きなこと、やりたいことに熱中してごらん。何かが見えてくるから。面白くなるのは、そこからだね」
「そう言われても、いまはなんにもイメージできないな。それよりも、とにかく先生はさぁ、一人で勝手に青春してればいいじゃん。わたしなんか相手にしないでさ。お金儲けして、せっせとコンサートに行けばいいんだよ」
 良直はこのやりとりを黙って聞いていた。感心さえもした。藍が言った、大人は子供が大きくなっただけ、の言葉に大いに納得したのである。
 子供の頃から藍は良直にとって憧れの女性で、大人になっても彼女への想いは変わらなかった。そして彼女と結婚して、娘ができ、親となったものの、自分は子供のままただ大きくなっただけのような気がする。
 結衣は藍の子供の頃にそっくりだ。違う点といえば、結衣は一人っ子でかなりませている。先生にしてみればオマセで手強い厄介な生徒のはずだ。
 藍には良直と同級生の弟、有次がいた。彼女の場合、子供の頃はやんちゃな弟との喧嘩はしょっちゅうで、そのときばかりは年相応の幼さを見せた。
 それにしてもこの母娘はいったいどうしたものだろう。世間の動きと同調することが極めて少ない。いい例が、オリンピックや世界的な注目を浴びるイベントがあっても恐ろしいほど興味を示さない点だ。浮世離れしている。
 ちょっと待てよ。浮世離れという言葉は死語かもしれないな。あるいは老人語と呼ばれる部類に属しているのかもしれない。ひょっとして昭和で終わりを告げてしまっているのではなかろうか。
 あっ、大人になればウイスキーが飲めるんだぞ。まあ、娘に対してこんなことを口にすれば、藍に余計なことだと叱られるだけだ。

 角瓶のバニラ様の甘い香りにこころ満たされながら、良直は取り留めも無く想いを巡らせる。
 そうだ、ウイスキーだ。この角瓶だ。想い出した。浮世離れって言葉は藍のお爺ちゃんが口にしたのだった。
 彼女にとって角瓶はお爺ちゃんのウイスキーとして子供の頃からいまに至るまでずっと繋がっている。亀甲ボトルの煌めきはかつて自分に注がれた祖父母の愛情を想い出させるものだ。
 幼い頃、母のベッドを独占するのはいつも弟であり、藍は祖母の寝床で本を読んでもらいながら眠りにつくことが多かった。その隣では祖父がショットグラスに満たした角瓶を啜りながら文芸誌を読んでいた。そのゴールデンブラウンの液体の輝きは大人になった藍の友となった。
 良直にとっても角瓶は藍のお爺ちゃんと飲んだウイスキーであり、こころの酒でありつづけている。藍がフランス留学中、有次に誘われて何度かお爺ちゃんとグラスを交わした。
 はじめて一緒に飲んだときに、有次が「良直は、姉ちゃんのことが好きなんだ」と伝えると、爺ちゃんは「キミは必ず藍と結ばれる」と自信たっぷりに言った。根拠もなくそう言われるだけでも良直は救われた。
 お爺ちゃんは藍の気持ちが読み取れると言った。
 藍は浮世離れしている。自分の世界だけで十分満足しきっているから男に惚れるってところまでになかなか辿り着かない。逆に惚れられると、ありがた迷惑でしかない。とにかく「待ってなさい」と言われたのだった。
 それならば自分が告白しても、ありがた迷惑ではないか、と良直は聞いてみた。すると、浮世離れしているから意外性も期待できる。日本に帰国して、さあ仕切り直しってときがチャンスだな。結婚なんて文字はアタマにないところにそれが新鮮に刷り込まれていくはずだ、と言った。
 有次といえば、黙ってグラスを傾けながらお爺ちゃんの話に真面目な顔をして頷いていた。芝居がかって見えたが、親友への想いやりなんだと良直は感謝した。そしてじっと待っていると、お爺ちゃんの予言通りになった。

 そんな藍にいま変化が訪れている。この春から、たまの土曜日にバーに行くようになった。竹邨洋孝という良直よりも年下のバーテンダーのファンになってしまったからだ。藍が親しくしているロンドン在住の高萩菜々子さんのフィアンセなのだが、とても優秀なバーテンダーである。
 先週の土曜日にも出かけた。一人では恥ずかしいから、と津嘉崎夫人を強引に誘っている。夫人は藍のフランス留学前に、高萩菜々子さんにはイギリス留学前にそれぞれの会話のレッスンをしている。二人の女性の性格はよく知っているから、藍が「竹邨さんのファンになってしまった」と声をかけてきたことにはかなり驚かれたらしい。
 それでも藍の誘いはとても嬉しかったようだ。とはいえ、ご主人ご贔屓のバーでもある。ご主人の息抜きの場に立ち入ることを躊躇っていると、津嘉崎さんから「気にしないで行ってきなさい」とお許しが出たのだった。
 夜遅くに帰宅した藍は「竹邨さん、今夜も素敵だった」と良直に楽しそうに語った。翻訳の仕事はもちろんのこと、プライベートにおいても余程の驚きがないかぎり外出先であったことなど話してくれたことはなかった。その彼女がずっとしゃべりつづける。良直が「もう遅いから、つづきは明日にしよう」と言っても解放してくれなかった。
 帰宅して興奮気味に語る藍の姿は、男性アイドルグループに熱を上げる結衣の担任の先生と同じではないか。ということは、ごく一般的な女性の一面を見せるようになったということだろう。これからどうなるのだろうか。いまのところ竹邨さんがらみの一面しか変わっちゃいないが、さて。
 いきなり、「ちょっといただくね」と藍から声をかけられる。気づかないうちにリビングに来ていたようで、手にしていたグラスをソファーの背後から奪われた。彼女は少し口に含み、次にスーッと残りを飲み干してしまった。
「氷が溶けて、かなり薄いじゃない。新しいの、つくってあげる」
 そう言ってキッチンに行き、戻ってくると「はい、どうぞ」と言って美しく輝く角瓶のロックをテーブルの上に置いて、唐突にこう聞いてきた。
「あのさ、最近の野球って、バット2本持って打ってもいいの」
 良直はなんのことかわからず、「えっ、なに」と聞き返した。
「二刀流って、よく言ってるじゃん」
 どうやら投打で大活躍の日本人MLB選手のことらしい。いまさら、と呆れるしかないが、良直は何故かとても安堵しながら新たな一杯を傾ける。
 いつもの藍である。角瓶もいつもの美味しさである。

(第49回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

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