
作・達磨信
心臓の鼓動が聞こえてくるかのように胸が高鳴っている。いまだかつてこんな気持ちになったことはない。
目の前に立つ30代半ば過ぎの男性バーテンダーは爽やかな笑顔の持ち主である。そして穏やかな口調での話ぶりからは高い意識を抱いた賢者であることに気づかされ、目の輝きにいつの間にか惹きつけられてしまっていた。
「菜々ちゃん、あなたのフィアンセ、とっても素敵」
藍はこころのなかでこう呟いていた。
幼い頃から物語が好きで、本や映画に登場する人物へこころを動かされたことが何度もあった。それを恋心と呼んでいいのかどうか。
自分には初恋の記憶がない。現実世界で、目の前にいる男性に強く惹かれたことはなかった。ひょっとしてこれが、一目惚れというものなのか。
隣の席にいる夫の良直とは強い恋心があって結ばれた訳ではない。恋愛は他人事でしかなく、異性と暮らすなんてことは考えられなかった。煩わしさしか感じなかった。30を少しばかり過ぎてフランス留学を終えて帰国すると、弟の有次から良直が自分のことを慕いつづけていると伝えられ、結婚というカタチを経験しておくのもいいかしれない、と何故かそんな心理が芽生えた。
良直は3歳年下の弟の同級生で、幼い頃から知っている。正直で、石鹸の香りがするような清潔感のある男の子の印象があった。彼となら、一緒に暮らしても自分の生き方を変えることなく、自然体でいられるような気がした。
とはいえ、結婚前に良直との暮らしを想像してみたことはない。ところがいまはどうしたんだろう。藍のアタマのなかで高萩菜々子とバーテンダー竹邨洋孝との恋物語が勝手に展開しはじめると、自分が菜々ちゃんに憑依したかのように胸が熱くなってくるのだ。不思議なこころもちになっている。
良直のことは好きである。夫として愛している。しかしながら40代半ばにして藍のハートに異性への激しい感情の炎が燃え上がったのだった。
妻の藍がこれまで一度も見せたことのない、うっとりとした表情で竹邨洋孝の仕事ぶりを見つめている。良直はヤキモチを妬くよりも驚きのほうが優っていた。衝撃的なはずなのに、やけに冷静に彼女を眺めているのだった。
藍は幼い頃からの親友の姉であり、彼が小学校の低学年のときには憧れの女性として見るようになっていた。それからずっとマドンナだった。
藍のフランス留学は9年に及び、その間、独り身で帰国することを良直は祈りつづけた。自分が他人からどう見られているかなんてことはどうでもいいという人だ。素敵な女性だから口説いてくる男はたくさんいるだろう。それでも面倒臭いと無視するはずだ、という勝手な想いにすがりつづけた。
藍は母親になったいまも世俗的な意識の希薄な部分を隠せないでいる。その彼女がこんな恥らうような表情を見せたことはいまだかつてない。
良直にはわかる。自分の妻はいま、恋に落ちた。
ヒロは戸惑った。菜々子がロンドン留学の際にお世話になったフランス文学者の神丘藍さんとそのご主人がお見えになったからだ。
土曜日の夜である。ビジネスマンの客で賑わう平日とは空気感がまったく異なる。十分な会話が成立する、ゆったりとした接客ができるのだが、今夜のご夫妻の対応には少しばかり緊張感があった。
最初は誰なのかわからなかった。ご主人の姓で挨拶されたからだ。その後に菜々子の名前が登場し、また翻訳家でペンネームは旧姓の神丘であると明かされ、ついにこういう日が来たか、と腹を括った。菜々子から「神丘さんが店にいらっしゃるかもしれない」と聞かされていたのだった。
ヒロと菜々子がロンドンで劇的な再会をしてプロポーズに至ったことは津嘉崎さんの奥様を通じて神丘さんも知ることとなった。さらには昨年の夏に菜々子が一時帰国した際、津嘉崎さんの奥様、そして神丘さんと3人で食事をしている。その席で菜々子はヒロとのこれまでの経緯を伝えたらしい。
ご主人のほうはヒロの兄弟子に当たる坂戸さんのバーの常連客であり、橋上清和という伝説のバーテンダーの店を訪ねてみたかった、とおっしゃった。お子さんがいま、学校の春休みを利用してご夫妻の故郷の実家に行かれているので、このときばかりと夫婦でお見えになったのである。
お二人とも落ち着きがある。面白いことに、温厚そうで理知的なご主人が一歩下がり、奥様の神丘さんを優しく見守っているように感じられるのだ。
ウイスキー好きというおふたりは白州ハイボールをオーダーされた。そして飲みはじめた途端に神丘さんが「この後、竹邨さんのカクテルを是非飲んでみたいんです」とおっしゃった。ヒロが「何かご要望はございますか」と訊ねると、「ウイスキーを使ったものがいいです。口当たりがよくて、そんなに甘くなければ嬉しいんですが」と明るく気持ちのよい言葉が返ってきた。
期待しながら待っていると、グリニッジ・サワーというロック・スタイルのカクテルが登場した。藍はカクテルを前にして、竹邨の言葉に歓喜する。
「以前、旅のエッセイ集を出されていますよね。フランスはもちろん、欧米のたくさんの街での体験が綴られているなかで、わたしはニューヨークを題材にされた『グリニッジビレッジの凱旋門』の話が好きです」
それは藍がフランス留学から戻り、翻訳を本業とする前、大学で講師をしていたときに出版したものだった。あの一冊を彼は知っている。
「少年のような清々しいタッチの文章と、話に登場する角張った凱旋門の佇まいから、グラスはあえて男性的なものを選びました」
地味な旅のエッセイを竹邨が読んでくれていただけでも嬉しいのに、少年のような清々しいタッチの文章、との賛辞はこの上ない評価である。
藍の胸は熱くなり、頬は火照り、完全に竹邨ファンになってしまった。
竹邨はつづけて、ウイスキーはスパイシーでドライなジムビームライ、それにレモンジュース、シュガーシロップ、卵白を加えてシェークして氷を入れたグラスに注ぎ、最後に赤ワインをフロートさせる、と丁寧に説明した。
「これは凄い。素晴らしい。信じられないくらい美味しいです」
先に口にした良直が驚いている。そう言えば夫が隣にいたんだ。一瞬、存在を忘れてしまっていた。夫に対してのいまの正直な想いは、竹邨の虜になってしまったから「仕方ないじゃん」であった。
口にすると赤ワインのタンニンのニュアンスをかすかに感じるものの、たちまち卵白に抱かれた滑らかで柔らかいフルーティーな感覚が広がった。そこにはライウイスキーのスパイシーさとレモンの酸味が潜んでもいた。
口当たりのよさだけでなく、複雑な重層感があるから楽しい。藍は「あまりにも美味しくて、幸せ過ぎて、言葉がありません」と高揚した声で応えた。実のところカウンターを飛び越えて竹邨に抱きつきたいほどだった。
パリで生活していた自分が摩天楼のマンハッタンを訪ねて凱旋門を見た。そのときの新鮮な想いを綴った文章から導かれたカクテルは見事としか言いようがない。ライウイスキーのサワーはアメリカ。ならば赤ワインはフランスなのだろうか。バーテンダー竹邨。この人は只者ではない。
菜々ちゃんはとても魅力的な女性だ。その彼女が竹邨を一途に愛しつづけてきたことに納得する。竹邨もまた菜々ちゃん以外の誰かを愛することなんかできないであろう、との想いも強くした。なんだかとても羨しい。
藍は嫉妬という感情をこれほどまで意識したことはなかった。
良直も竹邨に魅了されていた。藍を夢中にさせる男なんかいないと想い込んでいたのだが、彼が見事に覆した。何よりも若くして超然、毅然としたオーラがある。年月を重ねながら、バーテンダーとしてどんな熟成をしていくのだろうか。良直はファンとして彼の酒を味わいつづけるつもりになっていた。
(第48回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希