
作・達磨信
師走の土曜日の夜、店の客は津嘉崎さんだけとなった。静けさが夜の深まりを知らせている。マスターの橋上清和が土曜日に登場することはなくなり、引退へ向けてのカウントダウンがはじまっていた。
津嘉崎さんは響のオン・ザ・ロックをゆったりと飲んでいる。自宅で響を愛飲しているから、酒場で飲むウイスキーは他のブランドと決めているはずなのに、珍しいことだった。
ヒロがその理由を聞く前に、津嘉崎さんが口を開いた。
「竹邨さんは変わらないね。平常心を保ちつづけている。大したものだ」
「案ずるより産むが易し、でした。それにマスターといろいろと対策を練ってきましたので、なんとか乗り越えられています」
「いや、あなたがこの店を継承することを心配して言っている訳ではありません。それよりも、あなたの潔く爽やかな、その姿に感心しているんです」
尊敬する目上の人からの過分な言葉にヒロは戸惑い、「毎日、ただただ必死です」と返したのだが、津嘉崎さんは強面の顔をゆるめてヒロを見つめる。
響を口にして、しばらくの沈黙があり、再び津嘉崎さんが話しはじめた。
「竹邨さん、そして菜々子さん。お二人は美しい木のようだ。すくすくと空に向かって美しい立ち姿を保っている。その下に人は集うんです」
買い被りが過ぎる、とヒロは困惑してしまう。
「わたしではなく、彼女はそう言えるでしょう。10年以上前のことになりますが、高萩菜々子という木に向かって近づいていくと、見上げるほどの高さと美しさに圧倒されました。自分の小ささに気づかされたのです」
「そのときのあなたはまだ苗だったかもしれない。それでも空に向かって大きく美しい立ち姿となる木の苗だったんです。だからいまがある」
ヒロはまた戸惑い、「どうなさったんですか、急に」と返した。
「そうですよね。いきなり木と言われてもね。申し訳ない。実は想うところあって、植樹の支援をはじめたんです」
「ええっ、今度は森林の育成活動ですか。お休みになる暇がないのでは」
「大丈夫。バーで酒を味わう時間はあります。森をパトロールする訳ではありません。山を知らないわたしに森の管理は無理ですよ」
そう言いながらグラスを傾ける津嘉崎さんは、時の人である。今年、戦争報道写真展をプロデュースした。日本はもちろん世界各国を巡回する一大イベントであり、大きな反響を呼んだ。いまは北欧で開催されているようだが、戦争へのアンチテーゼとしてマスコミが取り上げつづけていている。
大学で教えることからは退いたようだが、国際政治の分野では日本を代表する学者であり世界的にも影響力がある人だ。そして戦争の報道写真展に関しては開催地を飛び回り、講演をおこなってもいる。忙しいはずなのに、津嘉崎さんのアタマのなかではいろいろな想いが巡っているのだろう。
「いつだったかな。碧を飲みながら、ウイスキーのロマンについて語ったことがあるでしょう」
そう言われて、ヒロは記憶を辿ってみる。2年以上前のことだったような気がするのだが、よくは覚えてはいない。
「5大ウイスキーのブレンドから大海原の航海、旅するロマン、そしてデジタルの時代に非効率なウイスキーづくりへと話が発展していったでしょう」
津嘉崎さんがその時の様子を説明してくれるのだが、まだヒロの脳裏にシーンが浮かび上がってこない。それでも津嘉崎さんは話をつづけた。
「あの時、碧でマンハッタンをつくってくださった。碧がカクテルとして新たな味わいで魅了してくれました」
マンハッタンと聞いてヒロの記憶がよみがえった
「たしか津嘉崎さんは、いま自分にロマンはあるか、と自問自答されていたような。そして新たな航海に挑戦しなくてはとおっしゃっていました」
「実は戦争報道写真展の構想はあの時に芽生えたんです。そしてその後すぐにミズナラの植樹も想い浮かんだんです。竹邨さんのおかげです」
どんな理由があろうとも戦争を起こしてはいけない。戦争が教えてくれるのは、人間の醜さ、惨めさだけだ。そのことを写真で伝えたかった。
植樹に関しては、知人に引退されたウイスキーの蒸溜関係者の方がいて、地方自治体の森林保全活動を支援するプロジェクトを立ち上げられた。そこで自分も協力者の一人になろうと考えた。真っ直ぐに青空に向かって伸びているミズナラの若木の写真を目にして浮かんだのはヒロや菜々子の姿であり、次世代に自然環境保全を伝え継ぐ活動を手助けしたいとの想いを抱いたという。
ミズナラはウイスキーの樽材として貴重である。そしてどんぐりを落としてくれる。いま食べ物を求めて熊が街にまで出没して大問題となっている。熊にとってどんぐりは栄養価の高い大切な食料となる。
津嘉崎さんはグラス片手にそう語ってくれて、今夜、響を飲んでいる謎が解けたのである。ヒロは「響の後は山崎になさいますか」と聞いた。「さて、どうしましょうか」と言って津嘉崎さんは笑った。
ブレンデッドウイスキーの響やシングルモルトの山崎にはジャパニーズオーク、ミズナラ材でつくられた樽で熟成したモルトがブレンドされている。
ウイスキー貯蔵熟成の樽材はアメリカンホワイトオークを主役に、ヨーロピアンオークの代名詞であるコモンオーク、なかでもスペイン産のスパニッシュオークが知られているが、ミズナラ樽でのモルト熟成は日本独自のものだ。その香味特性にはスコッチウイスキーのブレンダーたちが一目置く。
神社仏閣の香りと表現され、白檀、伽羅といった香木を想わせるオリエンタルな香味にココナッツや柑橘系の甘みも潜む。現在はスコッチの関係者も日本のミズナラ材を求めるために躍起になっている。垂涎の樽といっていい。
「ミズナラがウイスキーの樽材としての役割を担うためには100年では足りないくらいでしょう。200年以上もの歳月を重ねたものもあると聞きました」
ヒロがそう言うと、津嘉崎は苦笑しながら応えた。
「そう、わたしなんぞが死に絶えて、それから何代か経て、一本の木が立派な大樹となる。途方もない時間が必要です」
津嘉崎さんの言葉が重く響くようになってきた。ヒロは場の空気を和らげようと、「山崎を飲まれますか」と声をかけた。
「気分的には土や植物の香りがする森を散策したい感じです。今夜最後の一杯は、森を想わせるような味わいをお願いできませんか。難しいでしょうか」
申し訳なさそうに、珍しく津嘉崎さんがバーテンダーを困らせるオーダーをしてきた。こころを十分に満たせるかどうか、ヒロは少しばかり悩んだ。
「今夜はとても寒いようですから、ホットウイスキーはいかがでしょう」
「ホットで森ですか。ほう。ウイスキーはなんだろう。面白い」
できあがるまでの時間、津嘉崎さんは物思いに耽っていた。
「熱が少し冷めた、グラス上部の曇りがゆるんだくらいが美味しいかもしれません。アイリッシュのピーテッド・シングルモルト、カネマラのお湯割です」
津嘉崎さんはゆったりと味わい、やがて嘘のような笑顔を見せた。
「これは木、そして草、さらには土。まったくもって森ですよ。スモーキーなのに、スパイシーなのに、温かくて、独特の甘さがある。かつて誰かと焚き火を囲んだことがあったような、そんな懐かしさを覚えます」
いつになくハイになっている津嘉崎さんの反応にヒロは驚くしかない。
「やはり竹邨さんはウイスキーを扱うのにふさわしい美しい木です。だからあなたの傍には人が集う。木は語らなくても言葉を伝え、木樽熟成したウイスキーは無言ながら飲む度に記憶を呼び覚ましてくれ、知をめぐらせることができるんです。とにもかくにも、このカネマラのお湯割は気に入りました」
いつになく津嘉崎さんは饒舌だ。今夜の言葉はこれから店を背負っていく自分へのはなむけだとヒロは受け止め、感謝する。しかしながら、多くの人に愛される大樹となるにはまだまだ年輪が足りない、と自分を戒めるのだった。
(第45回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希