
作・達磨信
最近、誠一が随分と大人になったような。三十代後半の相手に対して口にすることはできないが、マスターの九谷はそう感じていた。
先週も彼は顔を見せてくれた。その前は隼坂鞠子と一緒に楽しそうにカクテルを飲んでくれた。登場する度に印象が変わった感が強くなる。
これまでの表情に見られた、尖ったような若さの勢い、そこに潜む甘さや弱さが洗い流されたかのように九谷の目には映った。猛暑を過ぎて秋となり、落ち着いた、というか、男前になった気がするのだ。
面白いことに、ジン・トニックのグラスを傾けている誠一を見つめながら良美社長がいつものストレートな物言いで、「あなた、なんだか様子が変わったんじゃない。最近、何かあったの」と九谷の想いを代弁した。誠一は困惑した表情を見せながらもこう返した。
「嫌だなー。何も変わりありませんよ。いまの季節にしては、ちょっと日焼けしたくらいですかね」
良美と誠一が二人だけで並んでカウンター席に着くのは随分と久しぶりのはずだ。三年ほど前だったか、マスターの九谷はこの二人にワールドウイスキー碧Aoのオン・ザ・ロックを丸氷で提供したことを覚えている。
あのとき、話題の主は高萩菜々子だった。良美の会社を休職してヨーロッパを旅して帰国した後、彼女はしばらく京都の実家にいた。良美は菜々子のことを「いつ日本を飛びだすかわかんないから」と言った。誠一と菜々子はいい関係に見えたが、それは誠一の片想いであって、見事にフラれてしまう。
良美は後に、あの夜の言葉を反省していると九谷に言った。
「悪いけど、菜々ちゃんのお相手とは信じられなかったの。だから意地悪な気持ちになり、揶揄う(からかう)ような言い方をしてしまった」
誠一は純粋でとてもいい人だけど、それが幼く見える。そんなことも彼女は口にした。あれから少しばかりの時が経ったいま、良美も誠一の心境に変化があったのではないかと勘繰っているのだ。
良美はここしばらくハマっているローヤルの水割のグラスを手に誠一の横顔を再び見つめて言った。
「言われてみれば、そうだね。でも、なんで日焼けしているの」
「この前の週末からしばらく休暇を取って実家に帰り、畑仕事を手伝ったんです。晴天つづきだったから、ちょっと日焼けしました」
「あら、ご実家は農家なの」
「ええ、実家は多摩のほうなんですが、昔からつづく農家です。この夏に祖父が亡くなり、いまは慌ただしくて、いろいろと大変なんです」
祖父が老いていくほどに農地を処分していったのだが、畑地に関してはまだそれなりの土地を所有している。今年の秋も市場に出荷できるほどの量の作物の収穫があったために、親戚や近隣農家の人たちの手を借りてなんとか祖父の魂を引き継ぐことができたという。
誠一の父は市役所勤めだった。公務員をしながら祖父と祖母を支えてはいたが、退職後の仕事は農地をどう転用管理、また上手く手放すかであり、それがいまは最重要となってきているらしい。相続の難しさである。
「大根を引っこ抜きながら、泣けてしまって。代々つづく立派な土地、祖父が耕した誇り高い土があるのに、手放すことの悲しみを痛感したんです。祖父に謝りながら手伝っていました。後継者としての自分を想い描いたりもして」
「まあ、ほんとうに」
良美は驚きながら、隼坂鞠子はこのことを知っているのだろうか、と心配になる。菜々子の後継者として育てている鞠ちゃんが、いま誠一にご執心のようなのだ。良美は社長として優秀な社員が去っていく経験を何度もしてきた。痛みは仕方ない。社員の幸せが第一である。でも、鞠ちゃんは農家へ嫁ぐ覚悟はあるのだろうか。立場上、いろんな想いが渦巻くのである。
一方、九谷は、誠一がいまの仕事、店舗デザインを辞めるとは到底想えなかったが、もし彼が農業の道にすすむとしたならば、鞠ちゃんと結ばれることはなく、彼女の仕事を第一に考えて別れを選ぶのではなかろうか。ただ、鞠ちゃんの様子からすれば、誠一に寄り添うような気もしないではない。
「それで、どうするの」
この良美の質問には、誠一が実家の後継者になるのか、そして隼坂鞠子との関係はどうするのか、との二つの意味が含まれていた。
「どうもしませんよ。これまでよりも頻繁に実家に帰るようにはなるんでしょうが。年を重ねたら、父と同じように家を継承することになるのかな」
家族で繋いでいけるならばこのままで、と先日決まった。誠一の両親の元へは親戚や近隣の農家の人たちがこれまで通り集まり手伝ってくれ、老いた祖母はアドバイザーの役割を担う。妹夫婦も時には駆けつけるだろう。だから、ある程度の農地はこのまま所有するのだ、と誠一は語った。
「ごめんね。教えてもらえないかな。鞠ちゃんとはどうなの。彼女に聞くのが筋なんでしょうけれど、いまの話の流れから、ほんとうにごめんなさい」
良美が申し訳なさそうに聞いた。
「実は、彼女をこの夏に実家に連れて行きました。家族に紹介するために。その時に夏野菜の収穫を一緒に手伝ってくれたんです」
誠一がそう語ると、良美は「まあ」と口をあんぐりと開けて驚き、そして目を真ん丸くさせながら満面の笑みを浮かべた。九谷もなんだかとても嬉しくなり、手を叩きそうになる。誠一はそんな様子を無視して言葉をつづけた。
「祖父に鞠子さんを紹介したら、とても喜んでくれたんです。彼女が花を扱う仕事をしていることが嬉しかったようです」
そう言ってしばらく間があり、誠一は噛み締めるかのように言葉を重ねた。
「自分は生活に大切なものをすべて土から頂いてきた。あなたもわたしと同じだ。花も土。それに水からもたくさんの恩恵を受けている。祖父はこんな話を鞠子さんにしたんです。彼女、感動しちゃって」
店の静けさは深まり、良美も九谷も誠一の次の言葉を待った。
「土にたくさんのものを頂いたから、自分はもうすぐ土に還る。すべての恩恵を土に返すんだ、って祖父は言ったのです。それからひと月後、突然のことでした。とても暑い日でした。祖父は肺炎で亡くなりました」
しばらく沈黙がつづいた。切ないながら、静謐な時間がカウンターに降り積もっていく。
九谷は自分がどう動いたのか何も覚えてはいない。気がつくと誠一と良美の前にシングルモルトを満たしたショットグラスを置いていた。
誠一がグラスを鼻へと近づける。ゆったりとノージングする。
「ああ、ピートの香り。もしかしてラフロイグですか」
聞かれた九谷は我に返り、「うん、そう」とだけ応えた。
ピーティーなウイスキーは麦芽乾燥時にはるかな時を積み重ねて堆積した腐植土、泥炭(ピート)を焚いて発芽を止めることによってスモーキーさが付着したものだ。そしてウイスキーの原料である大麦も水も健康な大地が育んだ賜物である。九谷は誠一の祖父の言葉に突き動かされ、土の産物ともいえるウイスキーを、ピーティーなラフロイグを、グラスに注いだのだ。
「ちょうど夏季休暇だった鞠子さんも告別式に列席してくれました。二人で話したんです。天国は、空のずっとずっと上にあるとは限らないんだ、って」
誠一が語り終えると、良美は姿勢を正し、深く頭を下げて言った。
「失礼な物言い、どうか許してください。貴重なお話をありがとう。土に還られたお祖父様、言葉がありません。とにかく、すべてに感謝です」
良美は目頭を熱くしながら声を絞りだした。九谷はこころが震え過ぎて、想いを巧く言葉にできないもどかしさを覚えていた。
すべてに感謝。たしかに。
店は深く、深く、鎮まっていく。土に還るかのように。
(第44回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希