
作・達磨信
金曜日の夜、店は賑わっていた。運よく入り口に近いカウンター席に一つだけ空きがあり、良直は安堵する。坂戸マスターはカクテルをつくりつづけており、アシスタントの瑠璃ちゃんはグラスやボトルの準備で忙しい。
機転を効かせた瑠璃ちゃんがいつもの愛くるしい笑顔で、「申し訳ありません。しばらく、ほんのちょっとだけお待ちください」と言っておしぼりを手渡してくれた。持って生まれた朗らかさ爽やかさなのだろうが、彼女の接客はこころ和ませるものがある。いつものことだが、良直は微笑み頷きながら、まったく嫌味がなくて、憎めない、と感じ入るのだった。
最近、若い男性客が増えた。一度誰かに連れられて来て、このバーの空気感とマスターの接客を気に入ったのであろうが、リピートの要因の一つには瑠璃ちゃんの存在があるのではなかろうか。今夜も良直が見かけたことのない客が一人いる。落ち着かない様子は明らかに彼女のファンである。
良直は親友である有次の姉、藍と結婚した。有次曰く、良直は "片想いのプロフェッショナル"ということになる。小学校の低学年の頃から20年以上片想いをつづけたスペシャリストなのだ。プロの目は見逃さない。ファンたちは席に着いていても腰や尻が浮き加減だ。目にも落ち着きがない。
とはいえ金曜の夜なのに、瑠璃ちゃんの最強ファンといえるガッチリくんの姿がない。混み合う時間帯は避けて、遅い時間の登場なのだろうか。
おしぼりを手にしたままそんなことを想っていると、瑠璃ちゃんが「ごめんなさい。お待たせいたしました。何にいたしましょう。白州ハイボールになさいますか」と言って、良直の顔を見てニッコリと微笑み、「今日、何かいいことありましたか。なんだかとても楽しそうですね」と言う。
ああ、それそれ、その接し方。そのポッと灯が点るような安らぎの笑顔なんだな、と良直は想いつつ、「うん、まあね。厄介な仕事がなんとかね」と誤魔化した。すると「それはよかったですぅ。今夜は心置きなく過ごせますね」とまた微笑む。二つほど離れた左の席からこのやり取りを気にしている瑠璃ちゃんファンの圧が伝わってくる。
良直は「いつもの白州ハイボールで」とオーダーし、「ガッチリくん、今夜は来ていないんだね」と投げかけてみた。「ミットさんのことですね」と瑠璃ちゃんが返してきたが、一瞬、彼女の顔が曇ったような気がした。
「彼、ミットさんって言うんだ。ガッチリくんじゃなくて」
「ええ、キャッチャーミットのミット。あの方、学生時代、野球のキャッチャーだったこともあるらしいんですけれど」
ガッチリくんは納得したり、何か想いが浮かんだりすると、開いた左の手のひらを、グーに握った右の拳でパチンと叩く仕草をする。だからいつの間にかマスターと彼女の間では"ミットさん"になったらしい。
良直は「そういえば、よくやるよね。なるほど、ミットさんか」と言ってガッチリくんの真似をして左の手のひらに右の拳を打ちつけてみせた。すると瑠璃ちゃんは「そうそう、それです」と微笑み返してきたのだが、良直には彼女の目に翳りを感じた。それでも彼女はいつもの爽やかさを保ったまま、「白州ハイボールですね。しばらくお待ちください」と言って立ち去った。
瑠璃ちゃんファンの圧を感じながらしばらく小学生の頃の片想い時代を懐かしんでいると、坂戸マスターが「お待たせいたしました」と白州ハイボールを満たしたグラスを良直の手元に置いて、「先ほど、ガッチリくんの真似をしていらっしゃいましたね」と投げかけてきた。良直は「ええ。彼のこと、ミットさんって呼んでいるって聞いたもので」と返した。
するとマスターは急に小声になり、「彼、もう少ししたら大阪に転勤になるらしいんですよ」と言いながらカウンター内から少し前屈みになったので、良直も同じように上半身を傾けた。
「お気づきかもしれませんが、瑠璃ちゃんとミットさんいい感じなんですよ」
「いい感じって、マスターがそういう空気に導いたんでしょう」
「うーん、そうかな。いや、まあ、それは置いといて。二人ともショックでね。遠距離になっちゃうので落ち込んでいるんです」
「そうでしたか。なんだか彼女、いつもと違う気がしたんです」
良直は小声で返しながら、自分の20代の頃を思い出していた。
3つ年上の藍がフランスへ留学したとき、良直は目の前が真っ暗になり、未来が見えなくなった。すべてにやる気が失せ、沈み込んだ。
「姉ちゃんは色恋とは無縁。フランスに行っても、男と話すより、自分のやりたい勉強のほうが第一だから大丈夫だ。帰国するまで気長に待ってな」
有次の慰めの言葉が唯一の救いだった。
ハイボールのせいだろうか。昔の自分の情けない姿がグラスを立ち上る泡のように次々と脳裏に浮かび上がる。その度に胸の内で苦笑する。
気づくと左の席の二人組が会計をして帰っていった。そこへ絶妙のタイミングでミットさんが登場して、良直の左隣に座った。
瑠璃ちゃんもミットさんも照れくさそうな顔つきで挨拶している。そしてミットさんは良直にも丁寧に頭を下げた。良直も同じように返す。
常連客同士の静かなやり取りをしていると、ふと藍が聞かせてくれた話が浮かび上がった。ミットさんのハイボールが出てくるタイミングを待って、良直は坂戸マスターに声をかけた。
「マスターの師匠、橋上清和さんのお客さんに、高名な政治経済学者の津嘉崎先生がいらっしゃいますよね」
「ええ。津嘉崎さんはわたしも親しくさせていただいています。年に数回、この店にもお見えになるんですよ。土曜日にいらっしゃるのでお会いできていないだけなんです。それよりも、津嘉崎さんがどうかしたんですか」
「実はわたしの妻が津嘉崎さんご夫妻にとてもお世話になっていまして、その関係で耳にした話です。橋上さんの下に、竹邨さんというお若いバーテンダーがいらっしゃるんですよね。マスターの弟弟子になるんでしょうか」
「そうです。彼は優秀ですよ。正式には発表されていませんが、来年には彼が橋上の店を継ぎます。レジェンドが築いた名店に素晴らしい跡取りができたので、わたしも安堵しています。それで、竹邨くんがどうかしたんですか」
マスターにも若手バーテンダーの結婚話は伝えられていないようだ。まだ籍を入れていないそうだから、公表していないのだろう。
良直は、いま自分がそれを明かしてもいいものかどうか迷ったが、もう後戻りはできないと腹を括った。良直はマスターと会話するようにしながら、瑠璃ちゃんとミットさんにも言葉が届くように、竹邨とロンドンにいるフィアンセの関係と成り行きを話した。詳細は自分にはわからないと言いつつも、良直なりに遠距離を超越したラブストーリーとして伝えた。
語りながら、そばにいる若い二人がとても感動しているのがわかる。瑠璃ちゃんは眩しいお日さまのような笑顔になった。ミットさんは目が覚めたような顔つきで聞き入ってくれていた。
「フィアンセの菜々子さんという女性は京都出身で、山崎蒸溜所が近いこともあってなのか、シングルモルト山崎が大好きなんだそうです」
良直はフィアンセのウイスキー好きを伝え、「日本はいいですね。関西に行けば、山崎蒸溜所がある。日本のウイスキーの故郷がある。残念ながら、わたしは山崎に行ったことがありません。行ってみたいな」と締めた。
するとマスターもいつもは見せないような笑顔で、「では次は山崎になさいますか」と言った。良直が「ええ、お願いします」と答えると、ミットさんが左手の掌に右の拳を打ち当てて、「わたしも」とつづいた。
ショットグラスのなかでシングルモルト山崎は甘美で華やかな香りを放ちながら麗しく輝いている。良直はしばらくその美しい姿に見惚れる。
鮮やかな煌めきは若い二人の未来への讃歌のように想えた。
(第43回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希