Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第42回
「祝福のエール」

作・達磨信

 菜々子と過ごす久しぶりの夏は淡々と過ぎて行った。
 掃除や洗濯は二人で手分けしておこなう。ヒロは昼過ぎに仕事に出かけるのだが、その前に一緒に食事をする。深夜に帰宅すると菜々子が待っている。
 はじめのうちはぎこちなさがあったが、次第にこの暮らしがずっとつづいていたような気になる。ヒロの日々のルーティンが崩れることはなく、特別に今後の生活について真剣に語り合うこともなかった。
 今回の帰国ではパスポートやロンドンでの学校を含めた生活面での書類変更手続きの面倒を考えて、籍はまだ入れないことにした。しばらくはロンドンと東京で、互いにいまを大切にした生活をする。最終的には菜々子が納得のいくタイミングで一緒になればいい。それだけを確認し合った。
 互いの実家にはこのことを伝えたのだが、ヒロの爺ちゃんだけはやきもきしていたようだ。そのため、あらためて状況説明のために菜々子が出かけて行った。爺ちゃんは彼女に手をしっかりと握られ、「これからはヒロさんのパートナーでありつづけます。どうかお祖父様の孫の一人に加えてください」と頭を下げられると、思い切り相好を崩したらしい。
「お爺ちゃん、デレッデレのグッダグダになっちゃった。菜々ちゃんは子供からお年寄りまで、みんな虜にしちゃう。彼女に勝る女性はなかなかいない」
 母の真由美がそう教えてくれた。子供とはヒロの甥っ子のことだ。先日菜々子を連れて行ったときに、全員で写真を撮った。彼女と手を繋いで写った甥っ子の顔は、ポーッと頬が赤らんでおり、目は泳いでいた。
 その次の日曜日、京都の菜々子の実家を訪ねたヒロもまた、この兄妹には勝てない、と認めざるを得なかった。
 兄の陽輔は想っていた以上に無口だった。常に表情には柔らかい笑みを湛えており、静かに相手の言葉に聞き入る。必要以上に口を開かない。
 ヒロの店を訪ねて来たときは妹への情愛が強く出ていたのだろう。普通に会話をし合ったはずなのに、今回は固い握手をして、「ありがとう」の声を聞いただけのような気がする。
 その「ありがとう」には、いろんな想いがこもっているようで胸に深く伝わるものがあった。京都に来てくれて、妹への愛に、一家を代表しての家族になれた喜び、未来へ向けての期待など、たった一言に気持ちがあふれ出ているのだった。サッカーの全国大会で鉄壁のセンターバックとして立ちはだかった高萩陽輔は、人柄も大きくて強い。
 そして菜々子。かつてヒロが彼女に抱いた感情はあまりにも幼稚だった。つい彼女と自分を比べてしまっていた。
 高い志を保ち、その頂へと地道に歩んでいく。飽くなき研究心、探究心。すべてにおいて敵わない。彼女への嫉妬ばかりが増幅した。自分がとても小さく想え、ただただ自分の未熟さに苛立ち、焦っていた。
 代々造園業を営む裕福な家庭で育ってきた兄妹ではある。しかしながら高校生のときに父を病で失う不幸を経験した。陽輔は将来性を見込まれていたサッカーを断ち切り、家業へと専念した。高校3年生。そのときの振る舞いには未練の姿は一切なかったと聞く。
 父を亡くした菜々子のショックは大きかったようだ。そしてサッカーを断念した兄の姿にこころ打たれ、彼女は自分の志に向かって突きすすむことで悲しみを乗り越えようとした。亡き父が喜ぶ姿になろうと決意した。
 二人とも強い。人生一路。細くてもしなやかで折れることを知らない若竹のような、強靭な芯がこころに植っている。
 ヒロはこの兄妹を育てた母に接してみて、この人にこの子供たちあり、と実感した。淡々と明るい。些細なことで感情が揺らぐことのない人であろう。自分の領分というものを理解し、飾ることなく、主張することなく、そして何事にも愛がある。ヒロがカウンター越しの接客で得る、誇らなくても香る品位や謙虚さといった人間性に通じるものがある。
 菜々子の祖母の存在も大きい。お嬢さん育ちで、お花とお茶以外は何もできない女性だという。優しさだけが取り柄の、ある意味、とても困った人でもあるらしい。「ほんの小さな頃に、娘のわたしがしっかりしないと駄目なんだ、って植え付けられた」と菜々子の母が笑わせる。祖母はその横で笑みを絶やすことなく、「これ、ほんまのこと」と平然としているのだ。
 それでも行儀作法だけはしっかりと教え込まれたそうだ。

 ヒロが京都の菜々子の実家を訪ねていた頃、錦一の店には津嘉崎さんご夫妻の顔があった。奥様の友里さんの実家に暑中見舞いにいらしたのである。
 津嘉崎さんのお母様もお誘いしたのだが、猛暑に動く気がしないと東京に止まっていらっしゃるとのことだった。
 友里さんが「涼しい季節に連れて参ります。たまにはこちらの美味しいお料理を食べさせてあげたい」とおっしゃった。錦一の妻で女将の愛が、ロンドンにいらっしゃる娘の杏実さんは、ご主人の夏季休暇を利用して一時帰国はされないのか、と聞くと、無理してまだ1歳3ヵ月ほどの赤ちゃんを連れて猛暑の日本に戻ってくることはない、と連絡を取り合ったという。
 そんな会話から錦一も愛も驚き、こころから祝福する出来事を聞かされたのだった。津嘉崎さんから紹介されて橋上清和マスターのバーへ何度か訪ねたことがあるが、右腕の若いバーテンダー、竹邨洋孝が結婚するという。
 お相手は友里さんがかつて英会話を教え、また反対に活け花や庭の手入れを教わった女性だという。津嘉崎さんご夫妻は竹邨との関係を知る由もなく、ロンドンの杏実さんから話を聞き、まさに青天の霹靂だった。
「わたしは二人を存じ上げているんですが、優秀で魅力的な若者です」
 津嘉崎さんのこの言葉を受けて、友里さんが高萩菜々子という女性の素晴らしさを語り、娘の杏実さんの憧れの女性である、とつづけた。錦一はカウンター越しに黙って話を聞きながら、竹邨の姿を想い起こし、また菜々子という女性に想いを馳せた。「二人とも、強い芯がある」との津嘉崎さんの言葉に、バーテンダー竹邨の若くして凄みを感じさる仕事ぶりが目に浮かんだ。
 何よりもしなやかな対応力に感心させられる。彼のような職人は、たとえこころが揺らぎ、悩んだり、落ち込んだりしそうになっても自分を失うことはないだろう。愛が以前、竹邨の接客を受けていると、「賢すぎる弟が自分にできたような、そんな気分になるから不思議」と言った。錦一は愛のその褒め言葉を聞かされたとき、職人として嫉妬してしまったが納得もした。
 愛はいま、津嘉崎さんご夫妻にローヤルの水割をつくっている。竹邨のアドバイスから彼女なりに感覚を磨いてきたようで、近頃は客から「飲み口がよくて、しなやかな甘みとふくよかさも感じられる」と評価されてきている。
 混ぜるとか冷やすといった感覚ではなく、ウイスキーと水を馴染ませるイメージが大切で、マドラーを使い急がず、焦らず、グラスの内側に沿ってステアする。飲みながら、食事をしながら、氷が溶けていくなかで時間経過による味わいの変化も楽しんでいただけるように、少し濃い目くらいにつくること。
 大袈裟ながら、指先や手、いや肉体が、精神が、マドラーと一体化するような境地に達するよう気持ちを込めて彼女はつくりつづけている。
 愛がつくったローヤルの水割が満たされたグラスを見つめていると、竹邨の姿とともに、錦一の脳裏に愛が好きな風景がオーバーラップしてきた。
 彼女は錦一や息子の太郎がサーフィンをする海や砂浜よりも、谷戸(やと)と呼ばれる山の尾根に挟まれた谷あいのほうが好きだ。そして地元で名高い竹寺を散策する。板前修業に出た錦一を追っての京都で過ごした学生時代も嵯峨嵐山の竹林の小径を好んで歩いた。そういえばローヤルには竹林に抱かれた山崎蒸溜所の貯蔵庫で熟成したモルトがブレンドされている。
 竹邨に竹林。若竹のようなしなやかさ伸びやかさを自分は失ってはいないだろうか。錦一は刺激をくれる竹邨へ、感謝と祝福のエールを送った。

(第42回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

WHISKY on the Web