
作・達磨信
7月末に菜々子がロンドンから帰国した。二十日ほどの滞在期間、ヒロにとってはとにかく慌ただしい日々となる。
まずは二人でヒロの実家に顔を出した。兄の家族も揃っていて、いつもは落ち着きがない甥と姪が菜々子を前にして緊張しているのがわかる。兄夫婦から「お行儀よく」とキツく言い聞かされたのだろう。
そして、なんと京都から菜々子の母と兄の陽輔も訪れていた。
このこともヒロには知らされていなかった。狼狽えるばかりで頭にきているのだが、態度に出せばヒロの母、真由美が許しそうもない。学生時代に剣道で名を馳せた真由美は、かつて菜々子に別れを告げた自分の息子に対して思い切り面を打ち込んでやりたいほどの怒りがあった。しかしながらそれでも二人のことを見守りつづけていたなら、と感情を抑えていたらしい。
とにかくロンドンで菜々子と息子が再会できるように自らが動くしかないと考えた。やっと訪れた絶好の機会だったのだ。
とはいえ、ヒロが想像したような台本までは用意してはいなかった。
ロンドンのホテルバーで橋上マスターがカクテル・パフォーマンスを披露することがわかると、真由美は密かにマスターへ連絡を入れ、菜々子の存在を知らせ、どうにか二人を合わせるようにできないものか、と願いを伝えた。
次に菜々子にもヒロのロンドン行きを報せた。真由美はヒロの母としての想いを菜々子に訴え、そしてとにかく会って欲しいと懇願する。
菜々子は承知した。承知はしたものの、会える喜びとともにいったい何をどうすればいいのか、どういう結果が待っているのか、想いを巡らすとこころが泡立った。それをロンドンで唯一の日本人の知人で、以前から懇意の津嘉崎さんの娘、杏実さんに打ち明けたところ、「やあ、とか、お久しぶりとか、とにかく声をかけたら何かが動き出すんじゃないかな。わたしは素敵な結果が待っているような気がする」と返されたようだ。
マスターは現地で世話をしてくれる洋酒メーカーの駐在員である氏峰さんに相談してみた。すると氏峰さんは菜々子のことがすぐにわかったらしい。驚いたことに杏実さん家族と氏峰さん家族は同じフラット(マンション)に入居していて、親しくしているという。杏実さんが赤ちゃんを連れてロンドンにやって来たとき、津嘉崎さんの奥さんとお母さんにも会っているという。
氏峰さんと菜々子との出会いはないけれど、彼の奥さんが杏実さんの友人にロンドンの園芸学校で学んでいる女性がいることを話していたのだった。
それからの設定は簡単だった。菜々子は土曜日の夜にホテルバーに行けばいいのだ。これらの動きはすべて真由美から菜々子の兄、陽輔にも伝えられていた。そして氏峰さんの好意でスマホでのライブ中継も実現する。
段取りはそこまでだった。後はどういう流れになろうとも受け入れる、と真由美は腹を括った。とにかく二人を会わせたかった。そして陽輔も感じていたことだが、二人は元の鞘に治ると信じて疑わなかった。
あの夜のストーリーは、すべて菜々子の衝動的な行動からはじまったのである。マスターも菜々子とは初対面でありながらすぐに見当がつき、また彼女が取った行動と、その側で微笑んで頷いた氏峰さんが目に入り、うまく事が運んだと察したらしい。緊張感のあるあの舞台で、自分の店のカウンターでみせる目配り、気配りができることは驚異といえた。
「偶然にもすべてが、思惑以上の方向に動き出した。愛のチカラは強い」
これまでの流れを真由美が説明して、「菜々子さんの姿が感動的でした。どんな映画のシーンよりもドラマチックで、わたし涙しちゃいました」と最後にこう言うと、菜々子の母が頷きながら応じた。
「わたしもそうでした。ツンデレのこの娘が、と意外な気もしましたが、お互いずっと大切に想いつづけていたんですもの」
すると菜々子が「わたしのことはいいんです。それよりお母さん、お茶を点てましょう。お道具一式出してちょうだい」、と話を断ち切ろうとした。
フローリングのリビングの隅に畳が三畳分ほど敷いてある。爺ちゃんの気が向けば畳の上で寛げるようにしてあるのだ。菜々子はそこで茶を点てるつもりらしい。どうやら京都からわざわざ持参してもらったようだ。
「お祖父様に一服差し上げたいんです。お祖母様がご健在の頃、一緒にいただいてくださったことがありましたよね」
菜々子は母親たちの会話から逃れたいのであろう。皆の気持ちをお茶に逸らそうとしている。いつも渋面の爺ちゃんが「おお、ありがとう」と満面の笑顔を見せた。以前からだが、これは菜々子の前でしか見せない表情だった。
ヒロが「お湯を沸かすよ。お湯はポットに入れて構わないんだよね」と言うと、菜々子は「ええ、お願い。お祖父様は夏でもオールドのお湯割りの方ですから。冷たいほうがよろしい方は後ほど対応します」と応えた。
すると真由美がヒロの顔を見つめながら、「やっぱり、素敵なカップルね」と言う。しばらくはこうして勝ち誇ったように息子を弄ぶつもりなのだろう。
平茶碗の景色は朝顔だった。爺ちゃんが「清水焼ですか」と聞くと、菜々子の母が「はい。牽牛花が描かれたものをお持ちしました」と答えた。
「おっ、つまりロンドンへと渡ったヒロが牽牛ってことですか」
爺ちゃんが楽しそうに返し、真由美が「なるほど、さすが。でも、どうして朝顔をケンギュウカって言うんでしたっけ」と言った。陽輔が「祖母が朝顔の茶碗をすすめたからでして、とくに深い意味はなくて申し訳ありません。それと牽牛花は中国の故事からきています」と説明をはじめた。
朝顔の種は生薬として珍重され高価だった。贈られて服用し、体調が回復すると牛を牽(引)いてお礼をした。大切な牛ほどの価値があったらしい。
また七夕伝説は、機織り(はたおり)を仕事にする織姫、織女(しょくじょ)星とその夫で牛飼いである彦星、牽牛星の話である。彦というのは女性の美称である姫の対義語、つまり男性の美称のことを言う。
日本に牽牛花の種子をもたらしたのは遣唐使のようで、平安時代に花を朝顔と呼ぶようになったらしい。江戸時代には七夕の頃に咲きはじめることから織姫(おりひめ)を指し、朝顔姫とも呼んだ。咲いた花は織女星と彦星とが年に一度会えた証であり、夏の風物詩、縁起物として好まれるようになった。
丁寧に陽輔がこう教えてくれる間、リビングは静まり返っていた。話し終わると、ヒロの家族から「ほー」という感嘆の声が漏れた。
甥っ子である兄の小学3年生の長男が「よくわかんないけど、おじさんは凄いや」と言うと皆が一斉に笑い、たちまち場の空気がほぐれたのだった。
その日の夜、菜々子の母と陽輔は京都に帰って行った。品川駅の新幹線ホームで見送った際、次はヒロが菜々子の実家を訪ねることを約束する。
夜、ヒロの部屋で菜々子と二人きりになった。かつての恋愛時代以来のことで、なんだか落ち着かない。シャワーを浴びて部屋着姿になった菜々子にヒロはドギマギしながら、「何か飲むかい」と声をかけた。
「うん。疲れたから、爽やかで、強いのがいい。ウイスキーかな、やっぱり」
そのオーダーに、ヒロは「なんだ、それ。ようわからん」と応え、それでもキッチンに向かった。しばらくして、「懐かしいだろう」と言いながら菜々子の前に置いた一杯は、うすはりのタンブラーに満たされていた。
「もしかして、リザーブのハイボール。でも、これって」
「リザーブのウイスキー・フロートをミネラルウオーターじゃなくて、ソーダ水でつくったものだよ。強くて、爽やか、かな。最初はしっかりとリザーブの味わいを堪能し、次第にソーダ割り、ハイボールの感覚になっていく」
「よくわかんないけど、おじさんは凄いや」
菜々子が昼間の甥っ子の口ぶりを真似して言った。二人で笑いこける。
「ありがとう。白州を旅した頃のこと、覚えていたんだね」
そう言ってグラスを手にした菜々子の目は、潤んでいた。
(第41回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希