Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第40回
「人知れぬ恋」

作・達磨信

 ロンドンから帰国したヒロは実家に帰る時間を取る暇もなくバーテンダーとしての日常に戻った。母だけには無事の連絡をしたのだが、あの夜の状況がどうやって生まれたのかまったく解明できていない。
 ホテルバーでのイベントや菜々子との様子はスマホで撮られ、映像がリアルタイムで家族に送られていた。日本は日曜日の早朝、というか深夜ということもあって、竹邨、高萩両家とも起きていたという。
 何故そういう流れになったのか、それを知りたいのにままならない。
 菜々子との語らいはわずかの間しかなく、詳細を聞こうとするとフフフッと鼻で笑い、「お母様にお聞きなさい」と流されてしまった。橋上マスターは帰国までずっと一緒に行動しながらもただニコニコしているだけで、「わたしは全容をよく理解していませんので」と繰り返し言うばかりだった。
 母には「追い追いわかるでしょうよ。時間をつくって家に帰ってらっしゃいな。お爺ちゃんもお父さんも会いたがっているから」とかわされてしまう。
 マスターはイベント後の会場で満面の笑顔を見せて、「はじめまして、橋上です。おめでとうございます」と上機嫌で菜々子に挨拶した。ヒロには「ほんとうにおめでとう。ロンドンに来た甲斐があった」と握手を求めてきた。
 菜々子もマスターへきちんとした初対面の挨拶をした。ヒロは当然、初対面だよな、と思いながらも、釈然としない。
「竹邨くん。何故最後にサイレント・サードをつくったのかわかるよね」
 マスターはご機嫌なまま聞いてきた。
「お祝いとして、わたしたちが訪ねたことのあるボウモアのラウンドチャーチと、スコッチをアメリカンウイスキー・ベースに替えた場合の呼び名、チャペル・ヒルを結びつけたって、そうおっしゃったじゃないですか」
「うん、そう言いましたけれどね。そうか。カクテルについてキミでも知らないことがあったとは、驚いたな」
 マスターは得意げに、嬉しげにヒロの顔を見つめる。
「どうしたんですかマスター。まだまだ知らないことだらけですよ」
「ほんとうにわかんないのかい。サイレント・サードのカクテル言葉は"人知れぬ恋"なんだよ。うん。とにかく、結ばれて、ほんとうによかった」
 そして、これまでの二人の経緯をよくわかってなくて説明できないから、ラウンド・チャーチとチャペル・ヒルに無理やり結びつけた、と言う。
 楽しそうに語っているところにホテル関係者から声がかったため、マスターは「失礼。また後でゆっくりと」と言って立ち去った。
 途端に菜々子がお腹を抱えて笑いはじめる。どうやら耐えていたらしい。
「橋上マスターって、カクテル言葉なんか気にされる方なの」
「いや、これまでこんな会話をしたことはなかった」
「じゃあ、今夜のためにわざわざカクテル言葉を調べたって訳よね」
 菜々子は笑いながら、「カクテル言葉ってのもあるんだ」と驚いてもいた。彼女は以前、「花言葉って、わたしよく知らないんだ。でも、知っていると都合のいい時に使えるよね」と笑って話してくれたことがあった。
「マスター、紳士で品格がある。素晴らしい人。それとね、お客さんのオーダーに応えてマスターの横でシェークしているヒロの姿、とても清々しくて素敵だった。マスターの下で懸命に研鑽を積んだことがよくわかった」
 今度は真顔で菜々子は言った。そしてヒロの目をしっかりと見つめるのだった。ところがしばらくの間を置き、いきなり怒りの言葉を吐き出した。
「別れようって言っといて、何よ。籍、入れようかですって。結婚しよう、じゃないわよ。結婚してくださいでしょう。この日が来るまで何年かかったと思っているの。わたし、ロンドンまで来ちゃったじゃん」
 菜々子の豹変ぶりにヒロはタジタジとなる。そして、あらためてプロポーズをさせられたのだった。すると何事もなかったかのように笑顔になった。

 帰国後のヒロは妙な緊張状態にあった。身内以外にもロンドンの夜のことを知り得ている人がいるのかどうか、やけに気になるのだった。
 これまでわかっているのは、ロンドンでいま生活していらっしゃる津嘉崎さんのお嬢さん、杏実さんがヒロの存在を知っているようだ。時間さえあれば、赤ちゃんを連れて菜々子とよく会っているらしい。他には氏峰さんをはじめとした洋酒メーカーのロンドン駐在員の何名かのようである。
 今夜は店に菜々子の後輩である隼坂鞠子が会社の女性社長を伴ってやって来ている。二人はどうやら菜々子とヒロの関係をまだ知らないらしい。
 ヒロが他の客の相手をしていたためにマスターが二人の接客をしている。
 マスターの活けた紫のトルコキキョウと黄色いバラが竹の緑とともに清々しさを香らせていた。良美さんと呼ばれている社長はその佇まいを称賛した。
 そして鞠子がこの春にヒロがつくってくれたウイスキー・デイジーをオーダーした。今夜は良美に是非とも飲ませたかったと言っている。
 マスターは、「竹邨くんがつくったほうが美味しいかもしれませんが、わたしでよろしければ」と楽しげに相手をしている。そしてノブクリークライをベースにした味わいに良美は感激した様子だった。
 ウイスキー・デイジーの次にワールドウイスキー碧Ao のハイボールをオーダーした。マスターが「碧がお好きなんですか」と聞くと、良美が、トルコキキョウの紫の色から碧のボトルが浮かんだ、と答えてさらにこうつづけた。
「以前うちの社のスター的存在で、いまロンドンに留学している女性がこの7月末に一時帰国します。その彼女へ抱いているイメージが碧なんです。広く世界の海を超えていくに違いない、極めて高いレベルの仕事をする人です」
 良美がそう説明すると、鞠子がこう返した。
「菜々子さん、ロンドンからいい人を連れて帰って来たりして」
「ない、ない。環境が変わったからって、菜々ちゃんは簡単には男性になびかない。とにかく植物を愛し、学んで学び抜く毎日じゃないかな」
「そうですよね。菜々子さんのこころをつかむ男性って、なかなか」
 二人はマスターに、菜々子がいかに素敵な女性であるかを語る。碧のハイボールをつくったマスターは笑顔で、「ほう、素晴らしい方なんですね。お会いしてみたい。帰国されたら是非、わたくしどもの店に」と応じている。
 マスターはどんどん好々爺になっていく。そのぶん悪ノリも目立つ。これまでは緩んでいるように見えても、緊張感が希薄になることはなかった。
 とはいえ、二人が語る菜々子像はあくまでビジネス上のものだ。確かに仕事においてはヒロが嫉妬してしまうほどに際立ったものがある。才能もあるが研究心、探究心が飽くことはない。
 仕事から離れたときの菜々子像はまったく異なる。ヒロにはトルコキキョウとともに活けられている黄色いバラに彼女の笑顔が重なる。彼にとって彼女は甘えん坊で、わがままで、生意気で、とてもチャーミングで、高校時代にサッカーの全国大会で対戦した鉄壁のディフェンダー、高萩陽輔の妹なのだ。
「でも、菜々子さんだって、恋愛くらいしたことありますよね」
「大学生のとき、アルバイトでうちに入ってきたときにはたしか彼氏がいたような。でも10年以上も前のことだし、覚えてないな」
 するとマスターが一瞬ヒロに目を向け、「誰にも気づかれることなく愛し抜く、っていう場合もありますから」と含みをもたせ、さらにこうつづけた。
「サイレント・サードというカクテルがあります。カクテル言葉は、人知れぬ恋。本来はスコッチベースなんですが、実は碧でつくると美味しいと、研究心旺盛な竹邨くんから教わったばかりなんです。いかがでしょう、碧で」
 二人の女性はヒロに向けて小さく拍手しながらオーダーした。
 たしかにロンドンでのイベントの後、ヒロはマスターに伝えた。碧をベースにシェークすると面白いことに和の柑橘系の風味が生まれる。しなやかな苦味が口中を心地よくそよぐ。何よりも菜々子が好みそうな味わいなのだ。

(第40回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

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