Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第39回
「ロンドンのバラ」

作・達磨信

 予期せぬ展開だった。驚く間もなかった。
 柔らかくしなやかな温もりが背中に伝わる。とても愛おしく、懐かしい感触だった。背後から抱きしめてきたのが誰なのか、ヒロはすぐにわかった。たちまちに背中から胸に突き抜けるように熱い炎が揺らぐ。
 肩越しに、「だーれ、だ」と幼児の戯れのような声がした。きっと本人は何気なさを装うとしたのだろうが、その声は少しばかり掠れていた。ヒロもまた返す言葉が口にのぼってこない。身体が痺れ、喉が渇ききってしまっている。
 世界のセレブが集う歴史と格式を誇る英国ロンドンのホテルバーのカウンターで、日本バーテンダー界のレジェンド、橋上清和が80歳とは信じがたい美しくキレのあるパフォーマンスを披露していた。三夜にわたり開催されたレジェンダリー・バーテンダーズ・ナイトの最終夜、土曜の夜だった。
 ロンドン・ドライ・ジンの日本の販売元である洋酒メーカーが橋上マスターを招待し、ヒロも伴われた。ジンの蒸溜所見学やパブを巡り、さらにはホテルバーでカクテル製作のパフォーマンスをする日程である。この後、ヒロもマスターとともに客のためにカクテルをつくることになっている。
 6月、イングリッシュ・ガーデンはバラの花が咲き誇る。この旅では庭を探索する暇はなかったが、ホテル内のホールを彩っているのは見事なまでのバラのデコレーションである。ラグジュアリの極みとしか表現できない華やぎのなかで、バーに集ったすべての人たちの目が橋上マスターに注がれていた。
 マスターの海外でのパフォーマンスは今夜が見納めであろう。ヒロはその姿を目に焼き付けておかなくてはいけない。しかしながらこの態勢、状況は相応しいものではない。わかっているが、身動きできないのだった。
 バーカウンターを正面に見て右斜め端の位置にヒロは立っていた。この場はホテルや洋酒メーカーの社員をはじめとした関係者ばかりのはずなのに、何故こんな状況が生まれたのか。
 マスターがサイドカーをつくるためにシェークの構えに入ろうとした直前にヒロのほうを見つめ、微笑んで小さく頷いたような気がした。瞬間、すっと背後の熱がやわらぐ。今度はヒロの左腕にささやかな温もりが移る。
 ヒロは左隣に目をやる。ツンと澄ました麗しい横顔があった。健康的にほどよく日焼けしているのもまた魅力的だった。そのとき気づいた。マスターが目を向けたのはヒロではない。彼女に向かって頷いて見せたのだ。
 マスターが菜々子を知っている。何故。彼女の存在を明かしたことはなかったはずだ。日本を発つ前にヒロの知らないところで、母がマスターにこれまでの経緯を伝えたのだろうか。それと以前、店に彼女の兄、高萩陽輔が突然現れた。あのときのやり取りがいまに繋がっているのかもしれない。
 ヒロはマスターのシェークを見つめてはいるが、こころのスクリーンにはその姿は映ってはいなかった。ハードにシェークする音にかぶさるように、菜々子のことを「女神のような深い愛のチカラを抱いた、かけがえのない人」と言った母の顔が脳裏に浮かんだ。次には爺ちゃんの「結婚しちまえよ。語らなくても、こころはずっと繋がっているんだろう」の言葉に、高萩さんの「いまでも、妹のことを気にかけてくれていますか」の言葉が重なった。
 いずれにしても母が何かしら動いたことに間違いない。
 今夜マスターはホテル側の要望でヴィンテージカクテルを披露することになっていた。ステアでマティーニ、マンハッタン、シェークでギムレット、サイドカーの4品をすべて5杯ずつ、しかも一気に5杯分つくり上げる。それぞれのカクテルは抽選で当たった客5人に振る舞われることになっている。
 いまは最後のブランデーベースのサイドカーである。マスターの鬼気迫るシェークを客も関係者も固唾を呑んで見守っていた。シェークが終わっても緊張感のある静けさはつづき、皆がその美しい所作に見惚れている。
 シェークしたカクテルを5つ並べられたグラスの端から順に二分、四分、六分、八分目まで注ぎ、5杯目だけは一度に1杯分を満たすと、そのまま折り返して残ったグラスに二、四、六分目と順に残量を満たしていく。そして最後、つまり最初のグラスに残りの八分の量を注ぎ終わるとき、右手に高くシェーカーを掲げ上げて歌舞伎役者が見得を切るかのように強く雫を切った。張りつめた空気のなか、カシャっと冴えた氷の音が高く鳴り響く。
 5杯すべての液量が測ったかのように均等の配分におさまり、美しく香っている。皆が緊張から解き放たれるまでひと呼吸の間があった。そうしてようやく会場に吐息が漏れ出たのである。
 同時に隣で、「これから、どうするの」と菜々子が言った。周囲が発する橋上マスターへの賞賛の声にかき消されることなくヒロの耳に届いた。
 まるでデート中のカップルが、映画を観た後にさてさてと次の行動を思案しているような口ぶりだった。
「籍、入れようか」
 真っ直ぐ前を向いたまま、呆気ないほどに何の躊躇いもなくヒロの口から言葉が出た。「どうするの」という彼女の質問の意図を探ろうともしない自分に驚きながらも不思議なこころ持ちになる。いままで彼女と離れていたような気がしないのだ。いつもいまのように隣にいた気がするのだ。
「そう。いいわよ」
 一瞬、息を飲み込むような気配があったが、耐えて彼女は短く応えた。
「うん。結婚しよう」
 ヒロも短く返した。すると信じられないほど彼の身体は軽くなった。
 これまで何を背負っていたのか。何に対して力み、歯を食いしばっていたのか。来年にはマスターの店の継承が待っている。さらにはまったく思慮のないまま、ロンドンと東京での別居というカタチでの結婚生活に突入することになるだろう。慌ただしいばかりの暮らしが待っているはずなのに、たちまちにして重い荷物が、古い荷物が、すべて取り払われたかのようだった。
 きちんと菜々子へ目を向ける。彼女の目にはこころの岸辺からあふれ出た想いが大きく溜まっていた。そしてポロポロと雫となってこぼれ落ちていく。
 気がつくと彼女を抱きしめていた。しっかりと。
 間を置いてマスターの声が会場に響いた。
「あちらに、わたしの大切なアシスタントであり、ある面ではすでにわたしを超えている竹邨洋孝くんがフィアンセとともにいます。若い彼ら二人の素敵な未来への手向けとして、カクテルをもう一杯つくります」
 通訳されると、会場の人々の目はすべてヒロと菜々子のほうに向けられ、祝福の歓声が上がった。ヒロは唐突な成り行きに戸惑ったまま、この流れにあっては笑顔を振り撒くしかない、と腹を括った。マスターは会場が静まるのを待ち、「カクテルは、サイレント・サード」と告げ、その理由を説明した。
 サイレント・サードはサイドカーのスコッチウイスキー・ベース版で、ウイスキーをライやバーボンウイスキーに替えると、チャペル・ヒルと呼び名が変わる。二人はかつてアイラ島のボウモア蒸溜所を訪ねたことがあり、ボウモアの丘には白いラウンド・チャーチがある。その姿とチャペル・ヒルを引っ掛けて、シングルモルトボウモアでサイレント・サードをつくりたい。
 マスターがそう解説すると再び万雷の拍手が鳴り響いた。それに合わせるかのように、「おめでとうございます」と言いながら日本の洋酒メーカーのロンドン駐在員で、今回のアテンドをしてくれた氏峰という人が声をかけてきた。手にしたスマホをヒロに向けて、「日本は早朝というには早すぎますが、勝手ながらライブ中継させていただいています」と言って微笑んだ。なんと、それに応えて菜々子が目尻を押さえながら頭を下げた。
 二人は顔見知りということなのか。それはないだろう。何かおかしい。
 まさか、事前に台本がつくられていたのか。そして氏峰さんは常にヒロの近くにいたが、デイレクターとしてこっそりとマスターにキューを出していたということか。とはいえ、求婚しなかったら、の筋書きもあったのだろうか。

(第39回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

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