作・達磨信
久しぶりに津嘉崎さんと伸之が揃った。先に登場したのは伸之で、いまお気に入りのウイスキー・スマッシュを飲んでいるところだった。
ジェントルマンの素敵な挨拶を二人は交わす。津嘉崎さんは話のわかる親戚のおじさんのように接し、伸之は礼儀正しくも少しばかりやんちゃな若者となる。とはいっても伸之はもう30歳になり、結婚もして、奥さんは妊娠中で、年内にはパパとなる。
バーならではの素敵な世代間交流の絵だとヒロは感じ入る。世の中にもっとこういうコミュニケーションの場や時間が増えたなら、世の中はもっともっと潤いのあるものになると信じる。
カウンター席に着いた津嘉崎さんは隣の伸之のグラスに目を止めた。
「おや、ミントの葉にレモンのスライス。しかもオン・ザ・ロック。お馴染みのミント・ジュレップとはスタイリングが違いますね。」
「これ、ミント・ジュレップによく似たウイスキー・スマッシュ。最近このカクテルが好きになり、ウイスキーのベースを替えて楽しんでいるんです。今夜はベイゼルヘイデンにしました」
伸之はそう返すと、「もちろん、メーカーズマークも美味しいですよ」とヒロに同意を促すようにつづけた。ヒロは頷き、津嘉崎さんに説明する。
スマッシュには粉砕といった意味があるが、ミントの葉を潰して香り立たせる処方に由来している。18世紀には飲まれていたミント・ジュレップをアレンジした小型版といえ、シェークしてロック・スタイルで味わう。
伸之がいま飲んでいるベイゼルヘイデンはジムビームで名高いビーム家が製造しているクラフトバーボンで、とうもろこしが主原料であっても他に加えるライ麦の比率が通常のバーボンよりも高い。ライウイスキーのニュアンスが潜んだ独特のスパイシーなフレーバーとハーブティーのような香りがある。スマッシュのベースにすると爽快感あふれる軽快なタッチに仕上がる。
「試されるのでしたら、まずは親しまれているメーカーズマークがよろしいかと。シェークしてもインパクトが感じられ、メーカーズマークの華やかな甘さとミントの爽やかさのあるしなやかな味わいを楽しめます」
ヒロがそう言うと、「ではメーカーズマークで、ウイスキー・スマッシュをいただきましょう」と津嘉崎さんは頬をゆるめて応えた。
早速にヒロは仕事に取りかかる。シェーカーにミントの葉を15葉程度とシュガーシロップ、レモンジュースを入れ、馴染ませるようにペストルで軽く押し込むようにタッチする。スマッシュといえどもミントの葉を強く潰したりはしない。軽やかに香り立つように繊細にタッチする。
そしてウイスキーと氷を加えてシェークして、バーズネスト(茶漉し)で漉しながら氷を入れたグラスに注ぎ、こちらにはレモンではなくオレンジのスライスを入れ、最後にミントの葉を飾った。
津嘉崎さんはグラスに顔を近づけて香りを確かめる。ゆったりと一口啜ると目を見張り、「とても素敵な味わいですね。ミント・ジュレップとはひと味違うしなやかさがある」と言って満足そうな表情を浮かべ、さらにつづけた。
「ところで、ベイゼルヘイデン。ドイツ系の人の名ですよね」
「さすが津嘉崎さん。まさにドイツからの移民です。18世紀末、バーボンづくり黎明期にケンタッキーに入植して蒸溜をはじめた人です。バーボンのブランドにオールドグランダッドがありますが、19世紀末にヘイデンさんの孫がおじいちゃんを慕い、自社ブランドにその愛称を冠したといわれています」
「オールドグランダッドがあって、ベイゼルヘイデンというブランドもあるって、どういうことでしょうか」
「そう、混乱しますよね。実はいまオールドグランダッドのブランドを引き継いでいるのはビーム家なんです。1990年代はじめにビーム家6代目当主が8年超樽熟成させたクラフトバーボンが完成したとき、同じドイツ系移民であったヘイデン氏の名前を冠して敬意を表したそうです」
「なるほど。そういうことですか。ベイゼルヘイデンのライ麦比率が高いっていうのは、昔のライウイスキー全盛時代を懐古しているんでしょうか」
そこに、ここまでのやり取りを聞いていた橋上マスターが話に加わった。
「おそらく。あえてクラフトバーボンに古く良き時代のニュアンスを取り入れたのではないでしょうか。アメリカでのウイスキーづくりのルーツは、ドイツ系移民がライ麦を主原料に蒸溜をしたのでは、といわれてもいます」
マスターの解説に、「ほう。そうなんですか」と津嘉崎さんは感嘆の声を上げると伸之に顔を向けて、「キミ、このこと知っていたの」と聞いた。すると伸之はニカッと思い切りの笑顔を見せて、ウンウンと何度も頷いたのだった。
その子供のような仕草に皆が声を出して笑った。津嘉崎さんは笑いながら拳で伸之の肩を軽く突いてみせる。そしてしみじみとした口調で言った。
「ウイスキーはやはり素晴らしい酒ですね。世界的なブランドのなかには家系や血縁を大切にして、何世代にもわたりスピリットが継承されていくものもある。スピリットという遺産をしっかりと守り、受け継いでいくんですね」
「そうです。時代は移ろっても魂は失せることがない」
マスターもしみじみと応えた。
「とにかく先人を大切にしている。職人の世界の素晴らしさです。バーテンダーもそうでしょう」
今度はヒロに向かって津嘉崎さんは言った。
「もちろんそうです」
ヒロは即座にそう答え、さらに何かを語ろうとしたのが、想いを上手く口に出せず、押し黙ってしまった。この店を継ぐかどうか、まだマスターに返事をしていないことがアタマをよぎったからだった。
マスターはヒロの気持ちを察したのだろうか。微笑みながらチラッとヒロを見つめ、そして津嘉崎さんに向かうとこう話かけた。
「師匠のいるバーテンダーはやはり師匠の影響を受けます。技術的な面だけでなく、カウンター内に立つ姿勢や精神的な部分をも感じ取ります。それとお客さまと接しながら学ぶことも多いんですよ」
「カウンターを挟んでの客との対話から学ぶということでしょうか。それが言葉やシーンとして記憶に残り、経験値として積み重なっていく、ということなんでしょうか」
津嘉崎さんのその問いにマスターは少し首を傾げた。その間の分だけ沈黙が流れ、皆、マスターの次の言葉を待った。
「カウンターを挟んでの記憶ですか.........。うーん、難しいんですが、カウンターの上には記憶ばかりではありません。忘却もあります。お客様が語られなかった言葉もあるんです」
グラスを傾けながら、想いを飲み込むことがある。笑いも涙も、飲み込む夜がある。それが忘却という埃や塵となってカウンターの上に降り積もる。バーテンダーはそれを拭い払い、いつも美しく磨き上げ、お客様をお待ちする。
マスターは静かに、穏やかに言葉を綴ると、こう締め括った。
「だからわたしはカウンターに花を捧げます。語られなかった言葉の供養のために。これまで竹邨くんに伝えつづけてきたのは、ただひたすら美しく。わたしの真似をして花を活ける必要はありません。とにかく清潔感が第一です」
津嘉崎さんは感銘を受けた様子で、噛み締めるかのようにウイスキー・スマッシュを口にした。ミントの香りがカウンター上を舞っている。
ヒロはその香りに導かれるかのように覚悟を決めた。
これからはずっと、この店のカウンターを自分が磨いていこう。語られることのない想いを汲み取る、マスターのしなやかで穏やかな接客を自分なりに極めていこう。それが目指す頂なんだ。
雲が流れ、晴々と、高い頂をはじめて仰ぎ見たようなこころ持ちになった。
この夜の営業後、ヒロはマスターに店を継ぐ決心を伝えた。
(第38回了)
絵・牛尾篤 写真・児玉晴希