2025.12.22

美味追求 微生物科学 ストーリー

世界で初めてビール酵母の全ゲノム解読に成功

世界で初めてビール酵母の全ゲノム解読に成功
世界で初めてビール酵母の全ゲノム解読に成功

サントリービールの美味しさは、厳選された原料を、サントリーオリジナルの酵母を用いて発酵することによって生まれます。 しかし、酵母による発酵というプロセスには、まだまだ未解明の部分がたくさんあります。そこでサントリーでは、ビール酵母の設計図である「ゲノム(※)」を世界で初めて全て明らかにしました。ヒトゲノムの解読によって、遺伝子診断による病気の予防やテーラーメード医療が可能になりつつあるように、ビール酵母ゲノムの解読によって、発酵中の酵母の全遺伝子の動きをモニタリングし、どの遺伝子がいつ、どれだけ働き、どのような味や香りに関わっているかを調べることが可能となりました。その結果、目的とするビールの香味に最適な酵母を選択したり、遺伝子診断でビール製造現場の酵母の健康状態を把握することもできるようになったのです。

本記事は2014年に弊社コーポレートサイトにて掲載された内容を、再編集したものです。記載の役職・部署名・写真などは、原則として掲載当時(2014年)の情報です。現在とは異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。

この記事の要約

ビールの香味を左右する下面ビール酵母の全ゲノム解読に世界で初めて成功しました。ビール酵母は、2種類の酵母のハイブリッドであり、複雑なゲノム構造を持つことが判明。このゲノム情報に基づき、ビール酵母の全遺伝子の働きをモニタリングできるDNAマイクロアレイを開発しました。これにより、酵母の選択や発酵条件の決定、「酵母の健康診断」が可能になり、より美味しいビールの安定供給を実現しています。

※遺伝子とは生物の部品である「タンパク質の設計図」で、ゲノムはそれら遺伝子全体の集まりです。つまり、ゲノムとは「生物全体の設計図」のことを意味しています。

下面発酵と上面発酵

現在、世界のビールの主流はラガータイプと呼ばれるビールで、世界の生産量の90%以上、日本では99%以上がこのラガータイプのビールです。このタイプのビールは下面ビール酵母(※)の働きによって造られています。そこで、私たちはこの下面ビール酵母であるSaccharomyces pastorianus Weihenstephan Nr.34のゲノム解読を行いました。

※ここではビール酵母=下面ビール酵母とします。

ビール酵母は2種類の酵母のハイブリッド

自然界で偶然に起こった細胞融合

ビール酵母(学名:サッカロミセス パストリアヌス、Saccharomyces pastorianus)は、パン酵母や清酒酵母に代表されるサッカロミセス セレビシエ(Saccharomyces cerevisiae)と、その近縁種であるサッカロミセス ユーバヤヌス(Saccharomyces eubayanus)とのハイブリッドで、とても複雑なゲノム構造を持っていることが明らかになりました。

ビール酵母のゲノム構造

ビール酵母
ビール酵母の染色体

ビール酵母のゲノムと、既にゲノムが解読されているサッカロミセス セレビシエ(Saccharomyces cerevisiae)のゲノムはどのように違うのでしょうか?

ゲノム解読の結果、ビール酵母ゲノムはS. cerevisiaeゲノムと非常に良く似たS. cerevisiae(Sc)配列(相同性:≧98%)と、 S. cerevisiaeと80%程度しか一致しない非S. cerevisiae(非Sc)配列(S. eubayanus(Sb)配列とも表す)の2種類のゲノムで構成されている事が明らかになりました。また、Sc型-非Sc型間の連結によって生じたSc/非Sc型染色体も数多く見つかりました(図【ビール酵母の染色体】、青とオレンジで表した染色体の組み合わせで示す)。

このことから、S. cerevisiaeとその近縁種が自然交雑した後、異種染色体間で多数の乗り換えが生じ、複雑な染色体構造を持つ現在のビール酵母が出来たと考えられます。

参考文献
Nakao, Y. et al.: DNA Res., 16(2) 115-129 (2009)

世界初!ビール酵母DNAマイクロアレイの開発

DNAマクロアレイ
DNAマクロアレイ

DNAマイクロアレイとは、数センチ角内に対象となる生物の遺伝子の断片を貼り付けたチップのこと(上写真)で、非常に多くの遺伝子の働きを一度に解析することができます。

私たちは解読されたゲノム情報を基に、ビール酵母の全遺伝子(約12,000)の働きをモニタリングすることのできるDNAマイクロアレイを開発しました。これを用いれば、ビール酵母の遺伝子とビールの味と香りの関係を解明していくことが可能になります。

また、 このDNAマイクロアレイを用いた解析を行うことによって、ビール酵母を分類したり、遺伝子診断によるゲノム構造変化を調べることができるようになりました。

その1.美味しいビールを造るための酵母を遺伝子診断で選べるようになります

ビール醸造に関与している遺伝子と、その機能を明らかにすることによって、美味しいビールを造る酵母を選択したり、発酵条件を決めることができるようになります。その一例として、ビール酵母特有の遺伝子(非Sc型SSU1)が、“天然の香味安定剤”である亜硫酸の生成に大きく寄与していることがわかりました。

ゲノム解読の展開〜ビール酵母遺伝子の機能解析〜

全ゲノム情報を手に入れたことによって、ビール酵母中に存在する遺伝子情報を容易に取得することができるようになりました。これを用いてビール酵母に特徴的な遺伝子の機能を解析すれば、ビール酵母の発酵特性を与えている遺伝子群を推定することが可能です。さらに、ビール醸造に寄与している遺伝子群を特定し、その制御メカニズムを解き明かすことによって、美味しいビールをより安定的に生産するための手がかりを得ることができます。特に、S.cerevisiaeとその近縁種との自然交雑によって生じたビール酵母は、S.cerevisiaeを祖先とする上面発酵酵母には存在しない、もう一方の祖先由来の遺伝子セットをもっています。下面発酵酵母だけがもつそれらの遺伝子が、下面発酵酵母特有の性質を与えていることが考えられます。

ビール酵母特有の亜硫酸生成機構について

1. 酸化劣化はビールの敵

ビールの鮮度を損なう最も大きな要因のひとつが「酸化劣化」であり、ビール中のさまざまな物質が酸素と反応することによって、好ましくない味や香りが生じてしまいます。

これを防ぐためには、発酵環境、容器内の酸素濃度を低減させ、酸化のリスクを抑えることが有効だと思われますが、そのような条件下では酵母の活性も低下してしまうため、低酸素濃度と良好な発酵を両立させることは非常に困難です。このため、酵母の活性を保ちつつビールの酸化を防ぐ方策が必要です。

2. ビール酵母がつくる亜硫酸は“天然の香味安定剤”

亜硫酸は非常に還元力が強いことから、食品・飲料や医薬品などの幅広い分野で「酸化防止剤」として使用されており、ビール中の亜硫酸濃度と香味安定性には相関があることがわかっています。酵母がもつ自然のチカラで生産された亜硫酸が、“天然の香味安定剤”としてビールを美味しく保っているのです。

3. 亜硫酸のメカニズムと生成量増加へのアプローチ

亜硫酸の生合成経路

酵母は、麦汁から取り込んだ物質を材料にして生育に必要な物質を生合成しています。亜硫酸はこのとき、メチオニンやシステインなど、硫黄を含む物質を合成する際の中間代謝物として生じます。これまでの研究では、亜硫酸合成の上流にある反応に関わる遺伝子の働きを増強したり、下流の反応を抑制することによって亜硫酸合成量の増加が試みられてきました。ところが、亜硫酸はその高い還元力によって酵母自身にダメージを与えてしまうため、過剰の亜硫酸生成は良好な発酵の妨げとなります。したがって、菌体内で生成された亜硫酸を効率良く菌体外に排出する仕組みが必要だということがわかりました。

1994年、 Xu らによってSSU1遺伝子が発見されました(Xu et al., 1994)。その後の解析によって、SSU1遺伝子産物は細胞膜に局在し、亜硫酸の排出ポンプとしての機能をもつことが明らかとなりました(Park and Bakalinsky, 2002)。ここでわれわれは、ビール中の亜硫酸生成においてもこのSSU1遺伝子が影響しているのではないかと考えました。

参考文献
Xu X, Wightman JD, Geller BL, Avram D, Bakalinsky AT. Current Genetics. 25, 488-96 (1994)Park H, Bakalinsky AT. Yeast. 16, 881-888 (2002)

4. ビール酵母特有の亜硫酸排出ポンプは高機能

ビール酵母の中でも、エールタイプのビール醸造に用いられる上面発酵酵母が亜硫酸をほとんど生成しないのに対して、ラガータイプのビール醸造に用いられる下面発酵酵母は10-20ppm程度の亜硫酸を生成することができます。先に紹介したように、下面発酵酵母は、S.cerevisiaeと交雑したもう一方の祖先由来の遺伝子セットをもっています。そこで、cerevisiae由来(Sc型)のSSU1遺伝子と下面発酵酵母特有(非Sc型)のSSU1遺伝子の亜硫酸生成に対する影響を比較してみました。

〈実験方法〉
一般に、遺伝子の機能解析では、目的とする遺伝子を破壊あるいは高発現させて生じる変化から、その機能を推定する方法が有効です。これにしたがって、Sc型、非Sc型SSU1遺伝子の破壊株および高発現株を作製し、これを用いてビール発酵試験を行いました。

発酵試験に使用した株

〈結果および考察〉
それぞれのSSU1遺伝子を破壊した結果、ビール酵母はSc型2つ、非Sc型3つのSSU1遺伝子をもつことがわかりました。どちらかの遺伝子を1つ、2つ、3つと減らした株を作製すると同時に、遺伝子を構成的に発現させる強力なプロモーターを用いて、それぞれのSSU1遺伝子の高発現株を作製しました。

これらの株で麦芽100%麦汁を用いた発酵試験を行い、亜硫酸生成量を比較しました。

発酵試験結果

2つのSc型SSU1を欠く株(株B)が親株とほぼ同程度の亜硫酸を生成したのに対し、非Sc型SSU1を2つ、あるいは全部欠く株(株D、E)はほとんど亜硫酸を生成しなくなりました。このとき株D、Eでは酵母の増殖が遅く、うまく発酵が進行しなかったことから、亜硫酸を効率よく菌体外に排出することが、酵母の増殖と良好な発酵にとって重要であることが改めて確認できました。

さらに、Sc型SSU1を高発現させた株(株F)による亜硫酸生成量は親株の1.5倍程度だったのに比べて、非Sc型SSU1を高発現させた株(株G)では約4倍に増加し、非Sc型 SSU1遺伝子およびその遺伝子産物がビール酵母の亜硫酸生成に大きく影響していることが示唆されました。

参考文献
藤村朋子 バイオサイエンスとインダストリー 61(12) 809-810 (2003)

その2.酵母の健康診断(遺伝子診断)ができるようになりました

ゲノム解読によって、ビール酵母がゲノムレベルで変化しやすい生物であるということがわかってきました。ビール製造現場で酵母のゲノム構造変化が起きると、発酵遅延や良くない香味が発生する可能性があります。

そこでサントリーでは、ビール酵母DNAマイクロアレイを用いて、酵母のゲノム構造変化をモニタリングする方法を確立しました。さらに、DNAマイクロアレイよりも迅速かつ簡便に酵母のゲノム構造変化を検出できる方法を開発し、ビール製造現場でその変化を監視するシステムの構築を行いました。

ビール酵母の成り立ち

ビール酵母はS. Cerevisiaeとその近縁種が自然交雑した後、異種染色体間で多数の乗り換えが生じ、複雑な染色体構造を持つようになったと考えられます。

ビール酵母
染色体とゲノムの関係

DNAマイクロアレイを用いて株ごとの染色体構造の違いを比較する方法

ゲノムDNAを酵素で切断し、DNAマイクロアレイと反応させると各染色体の構造や数を推定することができるようになりました。

Yの染色体構造を持った株が何らかのストレスを受けて、XやZの染色体構造に変化した場合も、この方法で検出することができるようになりました。

酵母のゲノム構造変化
MDプレート法

さらに、ビール製造現場で酵母のゲノム構造変化を監視するために、DNAマイクロアレイよりも迅速かつ簡便なMDプレート法という方法を開発しました。

このプレートで酵母を生育させると、色の違いで健康な酵母(白色コロニー)と変異が生じた酵母(赤色コロニー)を見分けることができます。

このような、いわば「酵母の健康診断」を行うことにより、よりよい状態の酵母でビール製造を行うことができるようになり、お客様により美味しいビールをお届けできるようになりました。

参考文献
久保田寛・中尾嘉宏 日本醸造協会誌105巻 8-15 (2010)
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