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【富山県・南砺市】スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド

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ピッコロ劇団メンバー
孫 高宏さん (左)
大阪芸術大学舞台芸術学科卒業後、文学座附属演劇研究所を経て、1994年入団。演技指導も行う。平成18年度兵庫県芸術奨励賞受賞。

木全 晶子さん (右)
神戸大学経済学部卒業後、松下電器産業を経て、1994年入団。

震災直後の決断

――1994年4月に日本初の県立劇団として創立された翌年の1月17日に阪神・淡路大震災が起きました。一週間後に第二回目の公演を控えていて、劇団としてこれからという時期でした。劇団員や職員の方々は震災をどのように受け止められていましたか?

木全劇団員たちも、自宅が半壊するなど直接被災した者や、交通が寸断されていて何時間もかけて劇団にたどり着く者など、混乱していましたが、震災から3日後の20日に全員集まってこれからどうするかという話し合いをしました。その時は、皆感情的になっていて、泣きながら、とても芝居をやる精神状態じゃないと言う劇団員もいましたし、芝居より炊き出しのボランティアをする方がいいのではという意見も出ました。
結局、そこからブレイクを3日間おきました。家の片付けや、ボランティアをやるべきだと思う人はこの間に出来るだけのことをして、自分の気持ちを静めて、改めて3日後に集まることにしました。

一週間後に上演するはずだった公演の客演として来て下さっていた文学座のベテランの俳優さん達も若い僕らに色々アドバイスをしてくれました。こういう仕事は親の死に目にも会えないし、戦時中に慰問公演をしていたら空襲が来て逃げたというお話をされ、我々はプロの俳優なのだから、こういう大変な時こそお芝居をやるべきではないか?という言葉をいただきました。

――最終的に、お客さんの安全確保などの問題から公演中止となり、その後2月から「激励活動」として、避難所を回られています。なぜこの活動を始めたのでしょうか?

県の人たちは、県立劇団が始まったばかりなのに公演が中止になって、僕らが宙ぶらりんになってしまって、どうしたらいいのかと思いはったと思うんです。それで何かすべきじゃないかと。でもそれは被災地へ行って瓦礫をのけたりとかそういうことではなく、県立劇団として何かできないかということになりました。
県職員の人たちは、震災後すぐ、自分たちも被災しながら避難所を回っていたので、そういう動きを見ていると、ただ偽善的に何かしようと言ってるんじゃないんだというのは伝わりました。

――被災地を回ると決まったとき、どう感じましたか?

内心は、行ってはたして本当に喜ばれるのかなと半信半疑でした。何ができるのかなって。劇場職員の人たちに背中を押されるような感じでした。

木全ピッコロ劇団と言っても当時は知名度はないし、演劇がどんな風に役にたつのか拒否されるのでは?と自信もなくて最初は不安で怖かったですね。

――2月から4月まで、一日2箇所、3日おきくらいのペースで50箇所以上の避難所を回る激励活動を始められました。どんな内容だったのでしょうか?

木全子どもに観てもらおうということで、シンプルな構成で「大きなカブ」と「ももたろう」を10人ずつ2班に分かれて回ったんですが、「劇をやりますから観てください」っていうものではありませんでした。途中で子どもたちと一緒に歌ったり、踊ったりする場面をつくり、クイズがあったり、に「ももたろう」の鬼役たちと子どもたちが相撲をとるのが一番盛り上がったり、大体の流れは予め作っておいて、あとはその場その場で子どもにあわせていくというやり方でした。

避難所で子どもたちが求めていたもの

――子どもたちの反応はいかがでしたか?

赤鬼に扮した劇団員と相撲をとる子どもたち(1995年3月神戸市長田区南駒栄公園)

現地へは代替バスを乗り継ぎ、ほとんどが歩いてたどり着く感じなので、本格的な準備はできません。僕は鬼役でしたが、簡易なメイクと衣裳もジャージでしたから、半分馬鹿にしているような、なんじゃこいつら?みたいな。ブーイングされたり、どやされたり、蹴られたりもありました。たぶん避難所生活で子どもたちも相当ストレスが溜まっていて、発散して楽しみたいという感じもあったんじゃないのかな。こっちはかなり痛かった(笑)スキンシップを求めているようにも感じました。
でも、だんだん楽しいというか、すごくやりがいのある良い時間でしたね。

校庭で「ももたろう」の上演(1995年3月神戸市立明親小学校)

木全劇場へ「劇を観よう」という目的でお客様が来られるのと、運動場や公園へ私達のほうから乗り込んでゆくのでは全く違います。子どもたちは正直なので、つまらないと騒ぐし、野次が飛んでくるし、砂を投げられたり、追いかけられたり、その場から離れて行ってしまう。でも、その時はそういうコミュニケーションだったんだと思います。だから緊張感がありました。役者としてそれはすごく鍛えられた気がします。

――当時、ご自身たちの意識は同じ被災者として頑張ろうという気持ちだったのか、激励しようという気持ちだったのか、どちらだったのでしょうか?

ないまぜになっていましたね。

木全当時はただもう毎日が必死で、見てくれるかわからない人たちに向かって演じなければならないというプレッシャーもあって、勇気を与えるという気持ちはなかった気がします。後から思えば、県立劇団として、役者として生きてゆく覚悟が決まったというか、貴重な経験だったと思います。

――県立の劇団であるということはどのように意識されていましたか?

仙台に役者の友人もいますが、被災して仕事もない状況で、演劇活動をするのは大変なことだと思います。ぼくらは仲間で集まっている劇団じゃない。今だから振り返って言えるんですが、なんで多くの避難所を回って活動できたかというと、年俸で保障されていますし、(県という組織に支えられた)県立劇団というこの劇団にいたからだと思うんです。

――4月までの第一次激励活動の後、第二次被災地激励活動として、秋にはピッコロシアターを皮切りに、各地の学校の体育館や劇場で児童文学原作の演劇公演をされ、そこから通常の活動に戻っていきました。その後の活動に、激励活動は何か影響を与えましたか?

木全第二次被災地激励活動でも、避難所でやったように子どもにも舞台にあがってお話の中に参加してもらう場面を作りました。そこで得た経験を活かして、その後の劇団の「ファミリー公演」の中でも参加型のスタイルを取り入れるようになりました。

文化ができること

――震災直後は芝居をやることに抵抗もあったと伺いました。それでも、ボランティアで炊き出しといった直接的なことではない、文化ができることってどんなことだと思われますか?

僕ら子どものときの紙芝居とか、娯楽の少ない中で何か普段と違うものがやって来た!みたいなことって今もあると思うんですよ。デパートやスーパーのヒーローショー。わかりやすいことでワクワクできた。そんな内容でちょっと参加できるようなもので、ドキドキワクワクという生の感覚を味わってもらえたらと思います。

木全芸術文化に触れるというのは、現実の生活とちょっと違う、別の体験ができることじゃないかという気がします。一瞬でもこことは違う世界を見せてあげられるとか。音楽とか太鼓も生で聴いたらすごい音だとか、大きなづしっとくる音を聴くだとか。演者がぶつける非日常のエネルギーを感じるっていうことが、生きてゆくエネルギーに変わっていってくれたら、それが最高ですね。

(2011年4月取材)

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