サマーフェスティバル2015 サントリー芸術財団

ザ・プロデューサー・シリーズ 長木誠司がひらく

The Producer Series KI SEIJI ga HIRAKU

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拓かれた声/封じられた声──ケルン1968/69

「ザ・プロデューサー・シリーズ」は、年毎に代わるプロデューサーが、現代の名曲の数々や、音楽の枠におさまりきらないステージなど、多彩でチャレンジングな企画内容を発信するシリーズとして、2013年にスタートしました。本年は、長木誠司氏を迎え、戦後のドイツ前衛音楽の旗手ともいえる2人の作曲家の“声”をテーマにした作品をお届けします。総勢200名の壮大なツィンマーマンの「レクイエム」は大野和士氏の指揮による日本初演、シュトックハウゼンの「シュティムング」は1970年大阪万博以来の再演、どちらも必見・必聴の公演です。どうぞご期待ください。

プレイベント開催決定!

長木誠司

プロフィール

8/23(日)レクイエム~詩と声と命の果つるところ

18:00[開場17:30] 大ホール

座席表PDF(4.9MB)

トーク 大野和士×長木誠司

B.A.ツィンマーマン(1918-70) ある若き詩人のためのレクイエム(1967-69)日本初演

B.A.ツィンマーマン
  • 指揮:大野和士
  • ナレーター:長谷川初範、塩田泰久
  • ソプラノ:森川栄子
  • バリトン:大沼 徹
  • 合唱:新国立劇場合唱団
  • 管弦楽:東京都交響楽団
    大石将紀、西本 淳(サクソフォン)、堀 雅貴(マンドリン)、大田智美(アコーディオン)、長尾洋史、秋山友貴(ピアノ)、大木麻理(オルガン)
  • ジャズ・コンボ:スガダイロー・クインテット
    スガダイロー(ピアノ)、吉田隆一(サクソフォン)、類家心平(トランペット)、
    東保 光(ベース)、服部マサツグ(ドラム)
  • エレクトロニクス:有馬純寿
大野和士
  • 字幕映像:原島大輔
  • 舞台監督:井清俊博
  • 長谷川初範
  • 塩田泰久
  • 森川栄子
  • 大沼 徹
  • 東京都交響楽団
  • 新国立劇場合唱団
  • スガダイロー

入場料:[指定席]S席 6,000円/A席 4,500円/B席 3,000円/学生席 1,000円

セット券

「長木誠司がひらく」2公演セット券[8月23日(S席)&29日] 7,000円〈限定100セット〉※予定枚数終了

※東京コンサーツ(03-3226-9755)のみ取り扱い。(5月13日発売)

※東京コンサーツ(03-3226-9755)のみ取り扱い。(5月13日発売)

8/29(土)シュティムング~内観する声ひとつ

19:00[開場18:30]プルーローズ(小ホール)

シュトックハウゼン(1928-2007):シュティムング(1968)パリ版

シュトックハウゼン
  • 音楽監督:ユーリア・ミハーイ
  • ソプラノ:工藤あかね、ユーリア・ミハーイ
  • アルト:太田真紀
  • テノール:金沢青児、山枡信明
  • バス:松平 敬
  • 音響:有馬純寿
  • ユーリア・ミハーイ
  • 工藤あかね
  • 太田真紀
  • 金沢青児
  • 山枡信明
  • 松平 敬

入場料:[自由席]一般 3,000円/学生 1,000円 ※予定枚数終了

  • ※本公演は、座席配置が通常の仕様とは異なります。
  • ※先行発売および一般発売のインターネットでのチケット購入にはサントリーホール・メンバーズ・クラブへの事前加入が必要です。(会費無料・WEB会員は即日入会可)
    サントリーホール・メンバーズ・クラブについてはこちら(PDF:4.17MB)
  • ※学生席はサントリーホールチケットセンター(電話・WEB・窓口)のみ取り扱い。
    25歳以下、来場時に学生証要提示、お1人様1枚限りです。
  • ※就学前のお子様の同伴・入場はご遠慮ください。
  • ※出演者・曲目は予告なしに変更になる場合があります。

セット券:2公演セット[8/23(S席)、8/29] 7,000円
〈限定100セット〉※予定枚数終了

プロデューサーに聞く

ツィンマーマン《ある若き詩人のためのレクイエム》(8月23日公演)とシュトックハウゼン《シュティムング》(8月29日公演)について、<拓かれた声/封じられた声――ケルン1968/69>のテーマについて、長木誠司氏にお話しいただきました。

長木誠司

――まず、今回のサマーフェスティバル公演での聴きどころをお話しください。

《レクイエム》は、いま存在するオーケストラ作品のなかで最も困難で最も複雑な作品といえると思います。これを大野和士さんに振ってもらいたい、というところから企画が始まりました。技術的な難しさだけでなく、古典派から現代までの音楽の脈略、さらにドイツの戦後の音楽史をきちんと理解したうえで演奏できる人はそうはいません。しかも、日本人によって演奏してほしいというのが、私の願いでした。海外から演奏経験のある人たちを呼んでくるのではなく、日本人の手でどこまでできるか。それをやっていかないと本当の意味で根付いていかないと思うからです。
《レクイエム》に挑む大野さんのチャレンジをぜひみなさんに聴いていただきたい。それは、彼がクロアチアのザブレブ・フィルの音楽監督をしていた時から戦争と向き合って活動されてきて、社会とのつながりを常に考えられている演奏家でもあるからです。歌手、合唱を含めて、これを聴き逃すのは勿体ない!という最高レヴェルの演奏家が揃いました。
そしてこれは、サントリーホール大ホールという優れたコンサートホールの空間ごと体験していただきたい作品です。今回は合唱を4ヶ所に配置し、8チャンネルのスピーカーが会場を取り囲みますから、「ホール全体が喋っている」という不思議な感覚を味わっていただけるのではないかと思っています。

1968年《シュティムング》初演時の様子

《レクイエム》作曲後、ツィンマーマンが自ら死を選んだのが1970年。その年に行なわれた大阪万博のドイツ館で上演されたのがシュトックハウゼンの《シュティムング》です。
 シュトックハウゼンというと、前衛の急先鋒として「硬い」「尖がった」イメージがあるのではないかと思います。ビートルズやフランク・ザッパ等がシュトックハウゼンに惹かれたのも、また私自身が最も関心を持ってきたのもその部分なのですが、《シュティムング》はその対極にあるような、優しく心地よい響きの音楽です。シュトックハウゼンが人生のなかで最も「気分のいい」時代に「気分 Stimmung」というタイトルの曲を書いたのが面白いですね。また、シュトックハウゼンがその後巨大オペラ《リヒト》を展開させていくきっかけになった、一つの大きな転換点に位置する作品といえると思います。
 実のところ、数年前まで私はこの作品について半信半疑でいたのですが、その評価を一変させたのが、2008年にベルリンの古い教会跡でヒリヤード・アンサンブルによる上演を聴いたときです。やはり「その場にいる」ことが大切で、CDで聴いているだけでは、よくわからない作品であることを実感しました。それ以来ずっと、日本でできないかと、機会あるたびに話を持ちかけてきたのですが、今回それがようやく実現できるので、私自身、とても楽しみにしています。
ここでは、心地よいシュトックハウゼン、人間らしいシュトックハウゼンを体験していただけると思います。聴き手にとっては非常に気持ちよい音楽なのですが、演奏者は大変で、微細な指示のある倍音唱法を体得し、安定したブレスでアンサンブルを行うのは至難の業。プロの歌手が何カ月か訓練をしないとできない曲で、実際、世界初演は、準備が間に合わず数か月遅れた経緯があります。今回はドイツからスペシャリスト、ユーリア・ミハーイ氏を招き、シュトックハウゼンの演奏体験のある日本人歌手たちがたっぷり時間をかけてチャレンジします。

――長木さんはシュトックハウゼン、ツィンマーマンを80年代後半からずっと追いかけていらっしゃいますが、2人の作曲家の歴史的位置づけ、評価をどうご覧になっていますか。

80年代に2年間ドイツに留学したんですが、なぜドイツに行ったのかというと、70年代の終わりからしばらく、シュトックハウゼン等ドイツの前衛作曲家についての情報が日本に入ってこなくなったからです。1970年に大阪万博のドイツ館でシュトックハウゼンの連続演奏会があり、1977年に、昨年のサマーフェスティバルで37年ぶりに再演された《歴年》の上演があったわけですが、その後、ぷっつり途絶えてしまった。それには色々な理由が考えられますが、日本だけでなく世界的に前衛が減速傾向にあって、逆にそれぞれの国の固有の文化を見直しましょう、というような時期だったかもしれません。今と違ってインターネット時代ではありませんから、文字情報もヴィジュアル情報も入ってこないのでお手上げです。とにかく行ってみなければ何もわからないと。
それでドイツに渡ってダルムシュタットに行ってみたら、豈図らんや、非常に盛り上がっているわけです。シュトックハウゼンは健在で、《リヒト》を書き始めて8年目くらいでしたし、それと対抗するように、ツィンマーマンやシェルシのような忘れられた前衛の再発見もなされていて、ある種の活況を呈していました。要するに、当時日本が切り捨ててしまった直線的な歴史から枝葉がいっぱい出てきていて、多層的な前衛の時代が始まっていた時期だったのでしょう。あの時ドイツに行かなければ、ツィンマーマンを知るのは、もっとずっと後になったと思います。

――ザ・プロデューサー・シリーズのタイトルは「長木誠司がひらく」。今回長木さんが「ひらく」ものとは何でしょう?

まず、戦後70年の前衛の歴史を「ひらく」ことをしてみたい。それがひとつの軸です。
人間を「ひらく」――「啓蒙する」と言ってもいいのですが――、すなわち、すべての人間が、お互いの違いを認めつつ、差別なく等しく議論し交流できるよう、「ひらく」ことを目指してきたのが近代の歴史ですが、どうしても「ひらききらない」ところが残るわけです。どこかで閉じてしまって、文化も宗教も理解できない、ということがずっと続いている。この70年の間に色々な戦争があり、いまも続いていることがその現われです。それは、「声」が相手にメッセージを伝えるためのものでありながら、どうしても伝えきれないものがあるということと、パラレルな関係にあるように思います。
今回上演するのは70年の歴史のなかの2作品ですから、ほんの一例にすぎませんが、シュトックハウゼンの《シュティムング》が、言葉がなくてもメッセージが伝わるという、「声」の力を信じたものであるのに対して、ツィンマーマンの《レクイエム》では、「声」の力は確信をもって示されていません。
《レクイエム》では大量の言葉が語られます。ドイツ語、ラテン語、ハンガリー語……で、それも政治的なメッセージであったり、壇上での演説だったり、20世紀の音声詩であったり、言葉をめぐる哲学的な考察であったり…とさまざまな言葉によって、「声」で何かを伝えようとする、あるいは「声」で伝えられることは何かを考えようとするのですが、そういうあらゆる試みにも関わらず、「声」によって本当に伝えることができたのだろうか、結局伝わらなかったのではないか、というメッセージが最終的に残るわけです。《レクイエム》は最後に「我らに平和を与えたまえdona nobis pacem」という合唱の叫びで終わりますが、この叫びが、希望の絶唱なのか、絶望の慟哭なのか、ぜひみなさんの目と耳で確かめていただきたいと思います。

――さらに、2つの公演を結ぶテーマ「拓かれた声/封じられた声――ケルン1968/69」に込めたメッセージをお聞かせいただけますか。

20世紀において「声」が、音楽の中で、あるいは音楽の外でどのような役割を担ったのか、また「戦後70年」の機会に、戦争のなかで「声」がどのような位置を占めていたのか、がテーマです。
シュトックハウゼンとツィンマーマンはケルンでのいわばライバル同士。1968年は《シュティムング》、1969年は《レクイエム》が作曲された年です。当時シュトックハウゼンは前衛の王道を歩み、新しいことを段階的に試みて、その都度注目を集めていました。2人の違いは、「歴史」の捉え方に顕著です。歴史を切り離して創作するか、歴史を担って創作するか。戦後、ゼロから始めようとしたシュトックハウゼンに対して、ツィンマーマンは、どこか古いものを引きずりながら前衛の作曲をしていました。ドイツのダルムシュタット夏期現代音楽講習会でも、シュトックハウゼンは寵児でしたが、ツィンマーマンは古い世代として疎まれた存在でした。
そういうわけで1970年代までは「影の人」だったツィンマーマンですが、ポスト・モダンの時代に一大リヴァイヴァルが起こります。前衛が行き詰ったところで過去の見直しが始まり、これまで日の目を見なかった作曲家が再発見されたわけです。それから30年余り経っていますが、いまもこの新しい文脈でツィンマーマンが捉えられていて、前衛作品をあまり演奏しない指揮者も取り上げるようになってきました。
《シュティムング》と《レクイエム》という、2人の作曲家によってほぼ同時期に書かれた「声」をめぐる作品によって、「今」という時代を考えるきっかけにできればと思っています。

ツィンマーマン

――では2作品について伺っていきます。まずツィンマーマンの《レクイエム》から。「ある若き詩人のためのレクイエム」の「ある詩人」とは何を意味しますか?

作曲者のノートによると、特定の詩人を想定しているわけではないようです。ツィンマーマン自身という説もありますが、あるいは我々一人一人が「詩人」なのかもしれません。そして詩人は「弔われる存在」としてレクイエムになってしまうのだという解釈もできます。「レクイエム」で危険なのは、死者が英雄視されることだと思うのですが、ツィンマーマンの《レクイエム》には英雄がいない。誰一人として祀られないのです。
 20世紀には、たくさんのレクイエムが作曲されました。それは、戦争によって死者を弔わなければならない状況が延々と続いている、ということです。ツィンマーマンの《レクイエム》も、ナチ時代から東西冷戦までの対立構造を背景に生まれました。

――「最困難、最複雑」なオーケストラ作品ということですが、編成も巨大ですね。日本初演となる今回は総勢何人の出演になりますか?

オーケストラ、合唱、ジャズコンボで約200人。合唱もジャズコンボも、65分くらいの演奏時間のなかで、ほんの数分しか出てきません。勿体ない使い方で、コストパフォーマンスの悪い作品です(笑)。オーケストラ編成の特徴は、ヴァイオリンとヴィオラがいないこと。全体的に非常に暗く、後半の一部を除いて重心の低い音響です。

――さらに大量の言葉が語り、歌われます。

この作品で特徴的なのがテクストです。サブタイトルに「リンガル lingual(言語作品)」とあるように、音楽作品でありながら「言語」が重要な役割を担っています。テクストは、合唱によって歌われるラテン語の典礼文と、語り手によって朗読される『ドイツ基本法』『毛沢東語録』、2名の独唱者が歌う部分、そしてスピーカーから流れるテープ音響から構成され、テープには、ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』に始まり、ジョイスの『ユリシーズ』、アイスキュロス『プロメテウス』やヒトラー、スターリン、ゲッベルスの演説、マヤコフスキーの詩など、さまざまな言語テクストのコラージュが含まれます。さらに、「ヘイジュード」や「第九」、『トリスタン』など音楽のコラージュもあちこちちりばめられています。
 私は《レクイエム》を、1986年にケルンとストラスブール、そして1995年にザルツブルクで聴いているんですが、これらを含めてこれまでのプロダクションには字幕が一切なく、特にドイツ語を解さないストラスブールの聴衆には、内容がよく伝わらなかったという印象を受けました。言葉もさることながら、テクストの背景にあるハンガリー動乱やチェコの紛争についてのバックグラウンドがわからないと面白さが伝わらないと思いますので、今回はそのあたりにも力を入れたいなと。大きな画面で三次元的に歌詞の字幕や説明を見せる試みを構想中です。

シュトックハウゼン

――《シュティムング》は、シュトックハウゼンには珍しい声楽だけの作品です。

シュトックハウゼンには初期に《3つの歌曲》という古典的なリートがありますが、それ以後は声に対してしばらく非常に慎重で、電子音響と少年による聖歌をあわせた《少年の歌》のように、実験的な試みをするとき以外は「声」を使っていません。
 「声」についての研究は19世紀から20世紀にかけて大きな発展があり、どのような周波数の成分が母音を描き分けているのかということが具体的に分かったことも、その一つです。複雑な倍音構造があることが分かったのですね。最近では、ホーミーとか、西洋以外の声の作り方に倍音の要素が入っていることが知られていますが、当時はそういうことが注目されていない時代でしたから、シュトックハウゼンの目の付けどころ、耳の良さはさすがだなと思います。

――スコアには倍音歌唱についての細かい指示があります。

声の倍音をなめらかに響かせ、できるかぎり純音に近い透明な響きにするのが「ベルカント」なのに対して、シュトックハウゼンは、声がもともと持っている要素を細分化して出てくるものに目を向け、それを素材化したと言えるでしょうか。声の内部に分け入りながら、それを内側から「ひろげる」行為といっていいと思います。

――巨大編成の《レクイエム》に対して、《シュティムング》は6人の歌手と音響の編成。《レクイエム》の厳しい響きとは対照的に、全体を通して人間的で温かい響きが印象的です。

作曲した1968年当時、シュトックハウゼンは妻マリーと2人の幼い子どもとともにアメリカ、ロング・アイランド・サウンドで暮らしていました。今回公演当日のプログラムに掲載する作曲ノートには、家族と過ごすハッピーな時間のなかで「夜、独り言のように口ずさむうちに倍音が出せることに気付いた」……と書かれているように、シュトックハウゼンが初めて手に入れた家族との心温まる時間が反映されているような音楽です。
シュトックハウゼンの母親は、彼が幼いころ、ナチの優生学の犠牲として殺されていましたし、父親は東部戦線から結局戻ってこなかった。それで、シュトックハウゼンというひとは、家庭というものの幸福を知らなかったわけですね。《シュティムング》作曲時は、やっとそれを手に入れた時期でした。ですから、この幸福な作品も、戦争とけっして無縁ではないのです。

――今回はブルーローズを会場に、歌手を取り囲むかたちで客席が、その外にスピーカーが配置される予定です。

この作品は儀礼的な要素が強くて、登場の順番からお辞儀の仕方、退場の仕方までかなり細かくパフォーマンスの指示が書かれています。実際に見て、聴いて、体で感じていただいて楽しめる要素がたくさんありますので、ぜひとも会場に足を運んで体験していただきたいと思います。

2つの作品について

林田 直樹

1963年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。音楽ジャーナリスト、評論家。大学卒業後、「音楽の友」「レコード芸術」編集部を経て2000年に独立。インターネットラジオ OTTAVAプレゼンター、「カフェフィガロ」パーソナリティ、月刊『サライ』誌の連載なども手がける。オペラやバレエからクロスオーバーや現代音楽まで、ジャンルにこだわらない自在な執筆活動を行う。著書に『知ってるようで知らないバレエおもしろ雑学事典』(ヤマハミュージックメディ ア)、『クラシック新定番100人100曲』(アスキー新書)、他。

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(1)少し長い前置き~長木誠司という人について/なぜツィンマーマンとシュトックハウゼンなのか

林田直樹

2015年度のプロデューサー、音楽学者・長木誠司さんについて、まず、私自身が個人的に知っている2、3の事柄について、率直に書いてみたい。

長木さんと初めて仕事でご一緒させていただいたのは、私が「音楽の友」編集部にいた頃、確か1990年頃に作曲家ソフィア・グバイドゥーリナが来日した時であった。大衆的なクラシック音楽雑誌のなかで、現代音楽の記事を少しでも作りたいという私の希望に共鳴してくれて、面倒な取材にも付き合ってくださり、良い記事を作ることができた。そのとき以来のお付き合いである。のちには私が企画をスタートさせた「レコード芸術」の座談会連載にも面倒な司会役を快く引き受けて下さった。

私が長木さんについていつも感じていたことは、現代音楽を専門とする音楽学者という肩書でありながら、決して専門に閉じることなく、実際にはかなり広いジャンルの音楽(大衆的なものも含めて)をフォローしようと意識されていること、そうした全体を俯瞰しながら、現代音楽の置かれたポジションについて冷静に見ておられること、そして一見クールに見えて実は根は直情径行なくらいの熱血漢であることである。
たとえば、今回はツィンマーマンとシュトックハウゼンという選択をされているが、どちらも共通点は声である。さまざまなコンサートホールや劇場で長木さんにお目にかかって感じていたのは、彼が実はオペラの声ということに関して、かなり熱い意見をいつも持っていることである。このことはあまり知られていないのではないだろうか。

それから、音楽ジャーナリズムのあるべき姿についても長木さんが強い信念と行動力を発揮されてきたことについても、改めて思い出しておきたい。音楽之友社が1998年に「音楽芸術」誌を休刊させたとき、同誌が果たしていた役割を誰よりも重く見て、雑誌の継続のために長木さんが奔走され、新雑誌エクスムジカ(現在は休刊中)の発刊に至った事実を覚えておられる方も多いかもしれない。
雑誌が「雑」であることの大切さを長木さんは以前私に語ってくださったことがあった。一つの結論だけではなく、さまざまな意見が雑多に集まり、束となって、議論の磁場を作ること。それが音楽界を活性化させるということを長木さんは誰よりも考えている人である。
その他にも、サントリー芸術財団との関わりのみならず、たとえば日生劇場のアリベルト・ライマンのオペラ作品の上演にドラマトゥルクとして参加するなど、評論家に留まらず実践的でもおられるということも、長木さんの大きな特徴である。

前置きが長くなったが、そんな長木さんが、2015年度のプロデューサーとして選んだのは、ベルント・アロイス・ツィンマーマン(1918-70)の《ある若き詩人のためのレクイエム》(1967-69)と、カールハインツ・シュトックハウゼン(1928-2007)の《シュティムング》(1968)。

この二つを並べて気が付くことは、どちらも1960年代末の作品であるということだ。当時は70年安保闘争、ビートルズの解散直前の時期にあたる。世界的にヒッピームーヴメント、反戦運動やカウンターカルチャーが盛んだった、ある特別な時代…。

ツィンマーマンにしてもシュトックハウゼンにしても、「あの頃」の作品なのだ。

長木さんは語る。
「ツィンマーマンのはまさにそういう時代の作品ですね。この中にはいろんなテープ・コラージュが入ってきますけど、その中には50年代のデモの騒音も入ってきます。でも基本的にはツィンマーマンが意識しているデモは(学生運動ではなくて)、東西冷戦の対立なんですね。そうやって割と雑駁なものを入れてくるというのはカウンターカルチャーの時代を反映しています」

ツィンマーマンの《レクイエム》を聴いてみると、そこで使われている音声のコラージュはものすごいヴォリュームを持っている。ヒトラーやゲッベルス、毛沢東らの政治的演説、マヤコフスキーのような独裁の犠牲者の言葉、ベートーヴェンの第9やビートルズの《ヘイ・ジュード》の引用など…。
そこには、声、声、声の混沌たる集成がある。

その意図はいったい何だろう?
問題は、そこで語られている言葉がドイツ語を中心とする他言語であることだが、今回の上演では、それをていねいに紐解いていくために、スクリーンを使って、いろんな言葉を同時に動かしたりと、字幕も工夫していくという。

「ただ、すべての言葉を理解し聴き取れることが重要ではないんです。騒然とした音響上の面白さ、実験の要素もあるので。声も言葉もその延長なんです。ただし重要な言葉はちゃんと押さえていかなければ、とは思います」

このあたり、言葉と音楽のバランスをどうとる上演となるのかは、楽しみなところだ。

一方のシュトックハウゼンはどうだろうか。
6人が車座になって寄り集まって、ひそやかに歌う様子は、インドの瞑想を思わせる。それはビートルズが一時期強い関心を示したインド音楽の雰囲気に似ていなくもないが…。

「シュトックハウゼンはいつも超然としている人なんですね。《シュティムング》は、彼がわりとハッピーな時代のものです。でも確かに6人が集まって怪しげなことをしている(笑)。そこには、非ヨーロッパ的な音楽文化への関心が入っていますね。倍音唱法も、いまではホーミーなんかが有名ですが、当時のヨーロッパからしたら異質な声の使い方だった。そんなことをやっている人はいませんでしたから。そういう意味では、ヨーロッパ文化が1960年代に外の文化に改めて強く関心を持ちはじめた時代の作品ですね」

それにしても、いまなぜ1960年代末の前衛作品を取り上げるのか。
理由の一つとして、大掛かりすぎたり、演奏が難しかったりといった事情で、これまでなかなか日本で取り上げてこられなかった、「20世紀音楽の古典」を紹介することの意義がある。
だがそれだけなのか?

「メッセージじたいはヨーロッパでも日本でも変わらないし、いまでも生きると思っているんです。特にツィンマーマンの作品は、基本的にレクイエムですから。レクイエムというのはやはりあらゆる時代に通用する死についての真実を歌い上げているわけですし、それはたまたま1960年代の終わりの世相を反映していますけれど、基本的には、人間が生きていくうえでの強い困難、あるいはそれが失われたときに何が起こるのか、そのとき人はどう思うのか、どう考えるべきか、みたいなことがテーマなんです。実は、戦後70年という機会でもあるので、今回のプログラムにはやはり何らかの追悼ということも盛り込みたかったんです」

率直に書こう。
ツィンマーマンにしてもシュトックハウゼンにしても、録音を聴いての個人的な感想から先に記すと、まず感じるのは、何とわくわくするようなスリリングな、極限的に異様な音響世界であることか!という興奮である。その中心となっているのは、長い前置きの中でご紹介した、やはり「声」というものの力である。
正直いって、意味を「理解」するのはむずかしい。だが、どちらの作品も、悪夢のように過激で、醜く、しかし美しい。使われている人間の声すべてが、意味のあいまいさを含めて、何かある特別な雰囲気、強烈な世界観を形作っている。
もっと言うと、「声」の諸相というものに対する偏愛を刺激させられる音楽体験なのだ。

時代を超えて不変の価値を放つのが真の名作であるならば、1960年代に生み出されたツィンマーマンとシュトックハウゼンの作品が、現代の私たちに伝えてくれるメッセージとは、一体どういうものなのか?
次回では、それをもう少し具体的に、突っ込んで考えてみたい。

(2)言葉と音楽で伝えきれぬ虚しさ~ツィンマーマン《ある若き詩人のためのレクイエム》について

林田直樹

現代ほど、言葉というものが衰弱してしまった時代はない。
たとえば政治の世界でいうなら「平和」とか「絆」とか、あるいは音楽の世界でいうなら「感動」とか「斬新」といったキャッチフレーズたちが、どれほど空洞化され、その響きが虚しさをともなうものになってきていることか――それを実感されている方も多いことだろう。
インターネット上のSNSなどで交わされている言葉については、いうまでもない。誰が誰に向けて何を語っているのかを、ときにはわざとあいまいにするような、こうした所在ない言葉の集合空間で必然的に生じてくるのは、ただただ好き勝手に発信するだけで、自分にとって都合の良いもの、わかりやすいものだけしか受信しないという態度であり、浪費される言葉の虚しさのさらなる増大だろう。

今回の上演はそうしたことと大いに関係がある。
プロデューサーの長木誠司さんと話してみて改めてわかったことは、ツィンマーマンの《ある若き詩人のためのレクイエム》が、まさにその言葉で伝えることの無力感、音楽を含めた詩的言語の衰微について語られている作品なのではないか、ということだった。

この作品は、いうなれば言葉の海でできている。
それは主にドイツ語のさまざまな話者による歴史的な演説や朗読、群衆の叫びの音声記録、語りや歌で成り立っているのだが、それらの混沌とした声の濁流から想起されるのは、やり場のない無力感とも怒りともつかぬ激しい感情であり、何かかけがえのない価値が断末魔のうちに滅び去ろうとしているという感覚である。
レクイエムだから確かに美しい面もある。
だがこれは何という醜さをはらんだ、絶望的でいらだたしいレクイエムなのだろう。
言葉というものが本来もっていた、霊的な力、呪術的な力が、根源的な暗さをもって立ち上がってくるような世界…。理解する、しないという次元を超えて、その衝撃はとてつもなく大きい。

このいらだたしさの源とは何なのだろうか?
「もうどうにでもなれ。何もかもが無意味でばかばかしいのだから…」というニヒリズムからのぎりぎりの抵抗と闘いのしるし、良心のありかがここには聴き取れまいか?

日本の状況と照らして考えてみれば、問題はよりはっきりする。
ツィンマーマンがこの《レクイエム》を書き上げた後に自殺した1970年は、日米安保闘争をテーマとする学生運動と騒乱の頂点であった。それと同時に世界的にもヒッピームーヴメントが大きなうねりを見せ、演劇・映画・美術・音楽すべてにおいて、カウンターカルチャーの最盛期があった。
さらには、それらが急速に失墜し、形骸化され、マーケットへと吸収されていくプロセスとして、1980年以降の文化状況があった。
そして2011年3月、日本は大津波と原発事故によって未曽有の国難に遭い、戦争にも等しい危機的な状況に誰もが戦慄した。

現代の私たちにまとわりついて離れないのは、冒頭に書いたような「言葉」の衰弱と上滑りと空洞化であり、ツィンマーマンの《レクイエム》に表明されているような、怒りとも虚しさともつかぬコミュニケーションへの「無力感」にほかならない。

そうした状況がいまの芸術の世界とどうつながっているかといえば、「詩」と「音楽」という、ひとの人生の本質にとって一番かけがえのない営みであり、真の良心と賢明さのよすがであるべきものが、これ以上ないほどに軽視・侮蔑されている、ということではないだろうか?
そうした実感をもっとも鋭く抉り出しうるのが、今回上演されるツィンマーマンの《ある若き詩人のためのレクイエム》である。

ところで、過去に日本で行われたツィンマーマン作品の上演で決して忘れられないものとして、新国立劇場で晩年の若杉弘(1935-2009)が執念の上演を行ったオペラ《軍人たち》(2008年5月日本初演)がある。
あの冒頭の絶望とも怒りともつかぬ苦しげな葛藤の響きは、ベートーヴェンの第9交響曲第4楽章冒頭や、ブラームスの第1交響曲の冒頭部のDNAを継承し、ベルク《ヴォツェック》を経由して、現代に直接通じようとする意志を伴っていた。
それはすなわち、ある矛盾や不可解さや不条理に直面したときに、人間性の奥底から反抗的に噴き出してくる、濁流のようなエネルギーといってもいい。
そしてつい最近では、インゴ・メッツマッハーが新日本フィルを指揮してベートーヴェンとツィンマーマンを組み合わせたメッセージ性の強いプログラムを打ち出していたことも記憶に新しい。

今回のサマーフェスティバルでの《ある若き詩人のためのレクイエム》は、それらの流れを受けての総決算的な、一大イヴェントとなる。
総勢200名による巨大編成オケと合唱団を統率し、この作品に内在する理性と狂気を引き出すという点において、大野和士ほどふさわしい指揮者もいない。何しろ大がかりで演奏至難とされるこの曲がライヴで聴けるのは、千載一遇の機会なのだ。

今年の夏は、戦後70年という節目の夏でもある。そこでさまざまな人が多くの言葉を語るだろう。そうしたとき、冒頭に述べたような言葉の問題の深部に触れているこの《レクイエム》の上演がどのようなリアリティをもって響いてくるのか――? 今から楽しみでならない。

(3)まずは笑ってもいい、この崇高なまでの荒唐無稽――シュトックハウゼン《シュティムング》について

林田直樹

シュトックハウゼンの《シュティムング》は、究極のヘンテコ音楽である。
「理解する/しない」「わかる/わからない」という次元にこだわっていたら、おそらくいつまでたっても、作品に近づくことはなかなかできまい。 まずは、その奇妙な音楽の外形を、笑ってしまおう。

「ダルマダイコン、ダルマダイコン、あいあいあいあいあいあいあい、さらみ~」
「うわ~うわ~うわ~うわ~うわ~、カユカユカユカユ、ぽっぽっぽっぽっ」
「あんなんなんなんなんなんなんなん、ほにゃおー」
「ういういういういういういうい、アナナ~アナナ~アナナ~アナナ~」

ええっ、何がかゆいって?
テレビで見るような芸人の漫才の出来の悪いものよりも、ずっと楽しく心から笑える、究極の芸がここにはある。
子供だって、くすぐられたみたいに《シュティムング》を聴いて笑うに違いない。
だって、面白いもの。気持ちいいもの。無邪気だもの。
なんて素敵な音の戯れがあることか!

しかもこれは、人を笑わそうとしてやっているのではない。実は大真面目に、非常に難しい高度な技術を用い、内在化された厳密な論理のもとに(それらについて、私たちは必ずしも、全部を理解する必要はない)、細心の注意を払いつつコントロールされている音楽なのだ。信じられるだろうか?

私もスコアを見てみたが、その記譜の細密さ、数字や記号や音声の膨大な指定に、クラクラとめまいがするほどだった。恐怖のあまり思わずパタンと楽譜を閉じてしまったほどだ。これを本当に読み、演奏できるのだろうか?
なのに、聴いた感じは遊びとしか思えない「あいあいあいあいあいあい」である。
かつてリルケが言ったように、精魂込めた仕事が一見滑稽な外観をとることにこそ、実は現代音楽の美の奥義があるのかもしれない。

Score No.2(c)Universal Edition Vienna《シュティムング》スコアより

過去の《シュティムング》の上演風景の記録写真を見ると、洞窟や暗がりの中やプールサイドのような場所など、風変わりなシチュエーションで、マイクを手にした6人の歌手が車座になって座布団の上に座り込んでいる様子がうかがえる。靴はどうやら履いていないらしい。ヒッピー風の帽子をかぶっていたり、サイケなデザインの服を着ている歌手の姿も見える。いわゆるクラシック音楽風の正装ではまったくなく、むしろ普段着がほとんどだ。
椅子に座って暮らすのが当然のヨーロッパの生活文化や、通常のコンサートの儀礼的なマナーからすると、これはかなり異質な演奏風景だろう。むしろインドの瞑想のような雰囲気が、妖しい儀式性が、非ヨーロッパ的な何かが、ここには感じられる。
そして聴衆は、この不思議な声の戯れの世界を取り囲み、一体となって参加するのだ。なんとエキサイティングな体験であることだろう!

プロデューサーの長木誠司さんは「6人が集まってラリっているみたいに怪しげな」と自嘲気味に笑っておられたが、それはあながち冗談ではないと思う。これは、声と作曲の技術によって合法的にラリっている音楽――最初はそれでいい。

シュトックハウゼンが《シュティムング》について書いた文章をひも解いてみると、そこにはなかなか興味深いことが記されている。
作曲されたのは1968年2月から3月にかけて、妻と二人の子(2歳&生後8か月)と暮らしていたコネティカット州マティソンの雪降る家でのこと。 仕事机の窓越しからは地平線まで氷に覆われた湖面が見え、夜更けまで一人で声を出して、独り言のように口ずさんていると非常に奇妙なことに気がついたという。
さまざまな母音を長く伸ばすと「皮膚や口腔、鼻腔、前頭部が振動」し、母音ごとに決まった倍音を特に大きく聴かせることができる――正確に倍音を強調することが可能である――そのことによって倍音グリッサンドを試すことができたので、一からスケッチと作曲をやり直した。そう書かれている。

この何の変哲もない記述に、深い意味を読み取ることができると思う。
シュトックハウゼンの二人の子供は、まだ幼い。きちんと話すことはできず、赤ちゃん言葉で「あぶーあぶー」といった不思議な楽しい音声を発していたのを、作曲家は毎日のように耳にしていたはずである。
真夜中に一人で、赤ちゃんと同じように声を自分で出し、母音を長く伸ばしながら彼が感じていたのは、一種の原初的な皮膚感覚である。雪の夜中はさぞかし静かだったことだろう。そこで自分の身体のなかのある部分が震え、共鳴するのを赤ちゃんと同じようにびりびりと感じ、新しい音を見つけ、聴き取り、そこからスタートして「一から作曲をやり直した」。
その真剣さ、崇高なまでの荒唐無稽さに、心を打たれずにはいられない。
こんなにも一所懸命になって、赤ちゃんの声を聞きながら、自分でそれを試し、分析し、実践し、構築していった作曲家が、他にいただろうか?

まずは《シュティムング》の滑稽さを、そしてラリっている儀式の怪しさを、思い切り笑ってしまおう。しかしその後に、何かが残るはずなのだ。人間の声で、ここまでいろんなことができるのかという思い、それはどこか懐かしい、赤ちゃんの原初的な声の世界にも通じあっている。
シュトックハウゼンによれば、そこで使われている詩は、あらゆる文化の神々の名を魔術的に呼ぶことでもあるらしい。やはりこれは、途方もなく美しい試みなのである。

(4)前衛音楽を聴くためのコツとは?

林田直樹

これまで、バッハやベートーヴェンやブラームス、ドビュッシーやストラヴィンスキーを楽しんできた人が、今回取り上げられているような「前衛音楽」を聴くときにはどうしたらよいだろうか?

もはや普通のメロディも和声も見出すことはできない。
一見難解にみえるそこには、いかなる美学があるのか。
どんな聴き方が求められるのか?

結論からおおざっぱに言ってしまうと、「響きそのもの」を聴こうとすること。
それが一つの突破口となるのではないだろうか。

シュトックハウゼンの《シュティムング》の場合、それは倍音の響きである。
ホーミーにも似た倍音唱法――奇妙で幼児的とさえ思えるが、厳密な指定に基づいて変化する特殊な発声――が目指しているものは、いかに倍音を豊かに出すかということである。
倍音とは、ひとつの音に対して複数的・同時的に生じる、別のもっと高い周波数の響きである。それは影のようであり、虹のようでもある。
声であろうとピアノであろうとヴァイオリンであろうと、私たちは実際の音プラス、この倍音を無意識のうちに聴いている。
その影や虹の響きにこそ、うまみがあるということが、最近はどうやら明らかになってきている。そこには音楽の奥義にかかわる秘密が存在する。オーディオ業界が近頃色めき立っている「ハイレゾ」の技術も、通常のCDではカットされるこの倍音のうまみを再現することを目的としたものである。
《シュティムング》は、この響きのうまみを抽出するための試みであり、儀式だといっても過言ではない。

ところで、《シュティムング》にはほとんど具体的な言葉はないが、コミカルでエロチックな詩による言葉遊びめいたものが少しだけ出てくる。これは昨年の《歴年》でもみられた現象で、シュトックハウゼンの特徴でもあるのだが、厳密で周到な手続きによって作られた作品のなかで、そこに誰も笑えないギャグのような冗談を乱入させるのだ。
この荒唐無稽な馬鹿馬鹿しさにどうやって耐えればいいのか?

そもそもシュトックハウゼンという人自体が、「自分はおおいぬ座のシリウスからやって来た使者」だと大真面目に信じていた人である。ほとんど誇大妄想の世界なのだが、ある意味罪がない、誰もが本気で相手にできない、馬鹿げているという点において、おそらく確信犯である。
しかしながら、その馬鹿馬鹿しさを大真面目に追いかける、しかも周到で狂気じみた厳密な手続きによってそれをやり抜こうとする――その態度には、何かある美しさ、崇高、無垢といったものが感じられるのも確か。そして、それがシュトックハウゼンの人間的魅力でもある。

響きの話に戻ろう。
ツィンマーマンの場合はどうだろうか。
《ある若き詩人のためのレクイエム》は、意味を宿した言葉、言葉、言葉…の集積によって作られている。
巨大なオーケストラ編成、4群の合唱、そして電子音響とテープ。それらの大規模な仕掛けによって生み出されてくるのは、政治家や文学者、哲学者や音楽家たちの膨大な言葉のコラージュが織り成す「響きの混沌」だ。

強い調子の演説、冷静な独白、怒りに満ちた言葉、興奮した群衆の叫びや悲鳴。
すべての言葉には感情や思考や状況がある。それらの総体を、レクイエムの祈りの言葉とともに、響きの混沌として、聴き手は体験する。

今回はできるだけ聴衆がその言葉の意味をさぐりやすいように、日本語へと解きほぐす視覚的な試みが行われるが、やはり肝心なのは、細分化や分析ばかりにならず、響きとして直観的に聴き、身体で感じることだろう。

Wergo盤を聴いての私個人の主観的な印象を述べさせていただくなら、この曲は、孤独で閉じられた、宇宙ロケットの中のような空間を感じさせる。そこには汚染した大気、暗い文明、独裁と抑圧と殺戮の記憶と予感、そして時代の苦悩を一身に背負ったようなおののきと慟哭がある。両手を耳に当ててうずくまり「ウワーッ」と叫びたくなるような、意味、意味、意味…の錯乱による、狂気への誘いがある。
この曲が語ろうとしていることは、結局のところ――ほんとうの詩も、音楽も、人間としての偉大さや祝福も、若い希望も、すべては見失われ、死に絶え、終わろうとしている――そのようにさえ思えてくる。
これを大野和士指揮の実演で聴いたら、どれほど恐ろしく暗い響きによってどん底に叩きこまれるのだろう? あるいは何か一縷の光が見えるのだろうか?

シュトックハウゼンの《シュティムング》が、天真爛漫で荒唐無稽な遊びにも似た幸福な作品であるならば、ツィンマーマンの《レクイエム》は、誠実な良心と知性によって極限まで格闘しようとする苦悩の作品である。
そのどちらもが、メロディや和声を求めるのとは全く別の考え方――「響きそのもの」を聴こうとすること――にさえ慣れてしまえば、案外親しみやすいものとして受け入れることができるようになるはずだ。
「前衛」は決して怖いものでもなければ、過剰に知的でスノッブなものでもない。ごく限られた一部の専門家だけのものでもない。接し方のちょっとしたコツさえつかんでしまえば、きっと誰にとってもエキサイティングな体験になるはずだ。
今回の2つの実演も、楽しみでならない。

【レクイエム】対談 大野和士×長木誠司

ツィンマーマン《ある若き詩人のためのレクイエム》日本初演。
この企画は、プロデューサー長木誠司が大野和士に「ぜひ大野さんの指揮で日本初演を」とオファーしたことから始まりました。

長木誠司、大野和士

●いまこそ受けとめたい、ツィンマーマンのメッセージ

大野お話をいただいたのは、かれこれ3年近く前のことですね。まず思ったのは、戦後70年を迎える現在の状況、とりわけ震災後、我々が解決していけるかどうかわからない問題を抱えてしまった我が国のことです。ツィンマーマンの《レクイエム》は、古典的な「レクイエム」がもつ「天国と死者の世界」を超えて、理性や良心があるべき姿、取るべき道について、人間が踏み誤ったときにどうなるかという、人間が超えてはならない領域に触れた作品です。この作品こそ、いまこの時期に日本初演すべきだと私に言ってくださったのは大変な見識であると感じましたし、長木さんの理念に敬意を表して、この作品が十全なかたちで演奏されるべく努力したいと思いました。

哲学者テオドール・アドルノが、「アウシュヴィッツの後では、我々はもはやポエムを口にすることはできない」と世界に向けて発言したのが、第二次大戦後、いまから70年前のことです。以来ドイツの芸術家たちは、あの悲惨な破壊行為を引き起こしたトラウマをずっと引きずってきたわけですが、その中でも最も鋭い感性をもって作品化したのがツィンマーマンだと言えるでしょう。この作品のなかで、彼は、古典的な意味での「贖罪」を超えて、人類が本当の意味で背負いこんでしまった大きなものの予言を残したような気がします。

長木誠司

長木ツィンマーマンが生きていた世界はヨーロッパ中心主義でしたが、いまこの作品を演奏する上で考えなければならないのは、彼が亡くなった1970年からさらに40年以上経って、世界が多文化主義になり、行くところまで行ってしまったことです。この作品は、実際にヨーロッパの言語をテクストとして使いながら、同時に、ヨーロッパのなかですら多くの言語が溢れて、お互いの言葉が通じなくなっているバベルの塔の崩壊のような現在の状況を暗示しているように思います。

大野この作品は、ナレーターがドイツ憲法や毛沢東語録を語り、詩人や政治家の演説や「第九」や「ヘイ・ジュード」などの音楽が引用された「コラージュ」といわれますが、コラージュはある意味「インテグレーション(同化)」といえると思うんです。いま問題になっているイスラムやパレスチナ、アラブについてもいえるように、人類の歴史は、インテグレートしようとして、どんどん失敗の方向に向かっている。欧米が、自分たちのなかに異文化を取り込もうと年月をかけて同化を試み、クリエイティブに発展していこうとしていた考え方はすでに瓦解し始めているわけで、そういう状況を象徴的に暗示している作品だと思います。

長木時代も状況も違ってはいても、異分子同士が同じ空間にいることの悲劇性、そうしたなかでもどこか望みを持ちたいというツィンマーマンの意図が、この作品には如実に現れていますね。ツィンマーマンは、生涯、異端児だったようなところがあって、常に受け入れられない部分を感じていた人。その生き辛さは、彼の生きていた時代以上に、いま、より普遍性をもつところがあるのではないかと思います。

●作品の見どころ・聴きどころ

大野和士

長木ツィンマーマンの痛烈な皮肉が込められているのは、冒頭がいきなり「ポスト・コンムーニオ Post Communio」で始まること。通常のレクイエムが、「レクイエム・エテルナムRequiem aeternam(永遠の安息を我らに与えたまえ)」で始まるのに対し、このレクイエムは聖体拝受が終わったところから始まるわけです。ミサが終わったところからしか物事が始められない、しかしそれでもレクイエムを歌いたい、というやり切れなさが現れているように思います。それと同時にテープから流れるのが、法王ヨハネスXXIII世が「キリスト教全体がまとまろうではないか」と唱える第2バチカン会議の講演テクストで、イスラム問題が顕在化した今となっては、「一つになろう」とすることが、いかに悲劇を生むかが見えてしまっていて、「まとまろう」という言葉が逆に恐ろしく響きます。今聴いてこそ見えてくる部分があります。

大野まさに、ツィンマーマンの鋭い批評精神による未来への観察眼ですね。一方でジョイス、ヴィトゲンシュタインの言葉、ドイツ憲法や新しい世界を築いたと思われた毛沢東の語録が読まれ、一方で悪の枢軸とみなされたヒトラーやゲッベルスの声が流れる。人間の叡智はここまであり、それを脅かすものとして否定されたものがここまである、ということが並列されて出現する。それは、そういう状況をあまねく引き受けてしまった人類に対する和音のように響くわけです。合唱、オーケストラ、歌い手、語り手、テープの音声によって重層的に表現されるディメンショナルな世界ですから、これは生で聴かないと絶対にわからない作品ですよ!

長木まったくその通りで、いかに言葉を尽くしても、この作品を説明するのは難しい。大野さんが都響とともに「巨大編成、最困難、最複雑」な作品に挑む、というのが今回の見どころでもありますね。

大野オーケストラは約60人で、特徴的なのがヴァイオリンなし、ヴィオラなしということ。今回はチェロとコントラバス、それから大編成の打楽器、管楽器が活躍します。そしてジャズ・コンボと合唱、そしてオルガン・ソロですね。合唱は四方に分れて典礼文を歌います。
興味深いのは、オーケストラが入るのは最後の20分くらいで、開始から50分くらいは、ずーっとテープの音声が続くこと。その対角線のようにオルガンが聞こえ、合唱がラテン語の典礼文を歌う。その間、私はストップウォッチみたいな時間の掲示板を見ながら、四方八方にばたばたと指示を送るわけで、まさにスペクタキュラーの極致ですね! 私はこのために、ピラティスに通おうかと思っています(笑)。

長木すばらしい! 何度も言いますが、これはサントリーホール大ホールの空間ごと体験してほしい作品です。サントリーホールが音のインスタレーション・アートの会場になる、その中心で指揮をとるのが大野さんということで、目と耳で楽しんでいただけると思います。
そして50分の演奏を経て、最後に合唱によって叫ばれる「ドナ・ノビス・パーチェムDona nobis pacem(我らに平和を与えたまえ)」。これをどう聴くか、どう響くかがポイントになると思います。

大野人間が歌っているのではない、何かの物体がすーっと息を出している状態になるかもしれませんね。人間の「ふー」「はー」という呼吸に基づく声として歌われるのではない、形骸化した言葉に。絶対に元に戻らない枯れた葉っぱってあるでしょう。最後の声だけが残るところは、そういう起きる力もないほどの絶望が客観的に描かれていて怖い。耳から何かを感受する線すら超えた、想像を絶する体験が待っているかもしれません。
いまこの作品を体験するのはきわめて大切なことです。「未来に架ける・いまを駆ける」モニュメンタルな公演になること、間違いなしです。

※対談全文は、公演プログラムに掲載します。

長木誠司、大野和士

【レクイエム】ことばと人物

レクイエムでは総勢29名の詩人・歴史上の人物などの45種のテキスト・メッセージ(総時間約120分!)が、ある時は録音として、ある時は生の語りや歌として、会場内のいたる所から聴こえてきます。それはまさに「音のコラージュ」のようです。その「ことば」についてご説明します。

詳しくはこちら

【シュティムング】対談 松平敬×長木誠司

松平 敬(バス)×長木誠司
シュトックハウゼン《シュティムング》を語る

●約1カ月の練習期間を準備

長木×松平

長木以前からいつか《シュティムング》を日本で上演したいと思っていて、ことあるごとに「どこかでやってみたいんだけど…」と松平さんを口説いてきたわけですが、今回ようやく実現できて、本当に嬉しいし楽しみです。今回の公演のために、ドイツからユーリア・ミハーイに来てもらい、彼女をまじえて約1カ月間、歌手の皆さんに練習の時間をとっていただきます。それくらい詰めた練習をしないと演奏できない作品ですよね。

松平1968年の世界初演の時も、3月に曲ができて7月に初演する予定だったのが、結局稽古が間に合わなくて12月に変更になったほどですから。今回は、8月のほぼすべての平日は丸一日リハーサル、「シュティムング合宿」のような生活になりますね。
 この曲の場合、特定の倍音を強調する倍音唱法の習得に加えて、一番厄介なのはテンポでしょうか。この曲には51種類のテンポがあって、テンポ243、189のようにそれぞれのパターンに当てはめていくので、「絶対テンポ」のような感じで覚えていかなければならないんです。
僕は《シュティムング》を実演では聴いたことがないんですが、今回来てもらうユーリアは、キュルテンの講習会で《シュティムング》を勉強し、初演したコレギウム・ヴォカーレのメンバーにレッスンを受けているんです。ドイツでも何回か演奏していて、このサマーフェスティバルの公演で7回目になるという。彼女に直接色々なことを聞きながら勉強できる機会になるので、すごく楽しみにしています。
 シュトックハウゼンの作品を歌っていて思うのは、ちゃんと声のことがわかっている作曲家だな、ということ。難しいのは確かですが、でも声楽的に気持ちよく歌えるように作られていることが感じられます。なかでも《シュティムング》はシュトックハウゼンが声だけを使った初めての作品で、声が包含している倍音の豊かな響きに着目した点で、エポックメイキングな作品と言えると思います。

●一つの音にたくさんの世界を見る

長木シュトックハウゼンって、遥か先に見えているものがあって、そこにどうやってたどり着くか、ひとつひとつ段階を追ってクリアしていった人じゃないですか。《シュティムング》もいきなり出てきたわけではなくて、それなりの前段階があったはずだと思うんですが、それについてはどう思われますか?

松平声の作品では、《モメンテ》(1962-69)の中で母音による音色変化を試みている部分があります。電子音楽ではサインウェーブを色々重ねて和音を一つのサウンドとして捉えた《習作I, II》(1953-54)、全曲がただ一つの音から構成された《モノフォニー》(1960-、未完)のように、50~60年代、「一つしかない音」を追及しようとしていた。「一つの音のなかに、たくさんの世界を見る」という素地はシュトックハウゼンのなかにあったのではないかと思います。

長木なるほど。電子音楽を始める時には、音の単位を考えますよね。サインカーブ一つとって、周波数いくつくらいならリズムに感じるし、あるところを越えると今度は音に感じるということで、一つのものから色々なものを作っていくことを戦後、シュトックハウゼンは始めるわけですが、ある時、自分の出した声が、そういうものの単位のなかで一番複雑だったと気づいた。それまでやってきたような、フーリエ解析みたいなやり方で音を分解して最小の単位を見つけるという方向ではなく、もともとあった「声」という単位から始める。そういうふうに方向が変わってきて、しかも自らの身体に気づくというのが、なんとも人間らしくて面白いなと思うんです。

松平その「倍音で作る」発想を思いついたいきさつが《シュティムング》の作曲ノート(当日プログラムに掲載)に書かれていますが、2人の子どもがまだ小さくて、夜中に作曲する時こどもの邪魔をしないように小声で「ウォォォ」と口ずさんでいたら、母音ごとに強調される倍音が変わることに気付いて、それを主眼に作曲したら面白いのではないかと思いついた、という非常に家庭的なエピソード。シュトックハウゼンの作曲の発想というと、《ヘリコプター・カルテット》の「4人の弦楽奏者がヘリコプターに乗って飛んでいるのを見た」とか、《天国の扉》の「自分が天国の入口にいて、そこの扉をバンバン叩いていた」とか、そういう夢とか神秘的な体験がもとになっているものが有名で、《シュティムング》のこの家庭的な感じは珍しいですよね。

長木個人的なことが見えにくい人ですからね。そういうことをマーラーみたいに表に出しているわけじゃないから。
 でも見た夢をそのままナイーヴに語るって、普通はあまりしたくないでしょ(笑)。「ヘリコプターで飛んでました」と言ってそれを音楽にするというのも、普通の人から考えたら馬鹿げた話かもしれない。それをやり切っちゃうところがシュトックハウゼンのすごいところだし、単純なところかなと思います。そういう単純性って、実は人間が根源的に持っているもので、それをあからさまに出来るか出来ないかは、そこに飛躍があるかないかなんですよね。その手前で「そんな馬鹿なことを現実にするなんて」と思っちゃうと、シュトックハウゼン・スイッチが切られちゃうというかな。
《シュティムング》はそういう神がかったシュトックハウゼンとは違う、家庭的、人間的なシュトックハウゼン像がみえる作品ですね。コレギウム・ヴォカーレからの委嘱という現実の要請から始まったことも関係していますが、やはり家族ができて、生涯で一番ハッピーな時期だったことが大きく影響しているでしょう。

●それぞれのシュトックハウゼン・ヒストリー

長木僕がシュトックハウゼンを聴き始めたのは1970年代の初期。71年にグラモフォンから『シュトックハウゼン 名曲の調べ』というLPが出て、そこに《少年の歌》が入っていて、面白いんだけどなんだかわからない、なにこれ?と思ったのが原体験ですね。その後現代音楽に興味を持ち始めたのが大学時代で、まさに昨年のサマーフェスティバルで上演した《歴年》初演(1977年)の時期と重なるわけですが、日本では「シュトックハウゼンはもう終わった」と言われた時期で、まさにその刷りこみを受けた世代です。
その後80年代になると、日本に情報がまったく入ってこなくなっちゃって、そんなはずはなかろうとドイツに行った。僕はボンに住んでいたのでケルンにはすぐ行けたんですが、ケルンはシュトックハウゼン人気がすごかったんです。何をやっても若者がいっぱい来る。日本での評判と全然違うじゃないかと。
当時から《リヒト》についてはドイツでも賛否両論色々あって、すごい!という絶賛もあれば、「こんな誇大妄想」という批判もありました。僕は、70年代に刷りこまれた頭から、ところどころ面白いところはあるけれど、「これを25年かけて作るかなぁ」というのが正直な感想だったんですが、2000年代に入ってだいぶ聴き方が変わってきました。特にバーミンガムで2012年に上演された「水曜日」を見て、その価値が初めてしっかりわかった気がします。 松平さんは、もっとニュートラルに接することができた世代でしょう?

松平

松平いや、ニュートラルではないです(笑)。世代的には、ちょうどLPからCDに変わる時に、中学・高校生でクラシック音楽を聴き始めたわけですが、グラモフォンから出たシュトックハウゼンのLPがなかなかCD化されなかったんです。しかも愛媛の片田舎に住んでいましたから、あとはFMで聴く以外に情報を入手する手段がない。もともと、僕は現代音楽が苦手で、それを克服するために諸井誠さんの『現代音楽は怖くない』という本を読んでいたくらいなのですが、シェーンベルクにいくともうよくわからなくなっていた。もうちょっと先に行きたいと思って色々な本を読んでいると、シュトックハウゼンがどうの……という記述を見かけるようになって、今度は《シリウス》や昨年のサマーフェスティバルで再演された《歴年》の酷評ばっかりが入ってくる。
 そうこうするうちに、大学に入る頃Stockhausen-VerlagからCDが出るようになって、少しずつ集めるようになり、強く印象に残ったのが《歴年》です。すごくきれいな曲だな、素敵な曲だなと思い、なぜ酷評だったのかと不思議に思いました。もうひとつ気に入ったのが、これまた日本で不評だった《シリウス》(笑)。自分が面白いと思った曲が、ことごとく日本で評判が悪かったというのを知って、そのギャップは何だろうと、僕の場合は逆に興味を持った感じです。
 だから情報ってすごく重要だと思うんです。音楽学者や評論家が「ダメ」と言うのを聞くと、それに影響されるつもりはなくても影響は受けますから。それにシュトックハウゼンの曲は、1回聴いてぱっとわかるというものではない。何度も聴かないとわからないところがあるし、どこに着目して聴くかによっても印象が違いますから。そこに「こんなものはつまらない」というバイアスがかかると、ハードルがさらに高くなってしまいますよね。そういうわけで、当時、シュトックハウゼンを聴いて「あれ?」っと思ったときには、「自分の理解力不足でわからない」のか、「作品がつまらない」のか、常に疑いの目を持つようにしていました。

長木なるほど、僕らの世代とはまた違うバイアスがかかっていた、ということですね。キュルテンのシュトックハウゼン講習会にいらしたのはその後?

松平2000年です。当時留学したこともなく、語学も自信がなかったので迷ったのですが、その年のテーマが《シリウス》だったことで参加することを決断しました。講習会では1週間かけてシュトックハウゼン本人が作品分析をしてくれるんです。彼のアナリーゼは一音一音まで至り、例えば一番大きな構造から始まって、もっと小さな構造になり、最終的にこの音にした、ということがわかるように事細かに解説されるんです。それを聞いているうちに、聴き方のコツとか、シュトックハウゼンが何を求めているかがわかってきた。その頃ようやく自分の中でのシュトックハウゼンへの疑いがまったく晴れて、これは本当にすごい人なんだとわかるようになったという。長いストーリーがありました。

●今回の聴きどころ

長木そして今回、満を持して臨む《シュティムング》の公演ですが、どこに着目して聴くと面白いかというポイント、ヒントをぜひ演奏者の視点でお願いします。

松平まず、色々な倍音が出てくるので、それに着目するのは大きなポイントになりますね。また、51の部分から出てきて、1つの部分は1分、長くても2分くらいで、どんどん歌い手の組み合わせが切り替わっていったり、ピッチが変わっていったりするので、どういうふうに切り替わっていくのかに注目するのも面白いと思います。ユニゾンで歌っているところから、ある一人の歌手がピッチを少しずらしてうなりを作るとか、ビートがタッタタタタタ…という細かいリズムになっていくとか、そういう指定があったりします。
 またユニゾンで歌うところが作品の半分くらいを占めるのですが、それも6人全員だったり、3人、2人だったりとヴァリエーションがあり、その部分は当然のことながらピッチは1つしかないので、音の内面の本当に細かいところの変化が現れてくるわけです。これは作曲できない部分、演奏によって出てくる部分なわけで、この「一音のなかに隠された豊かな世界」がブルーローズの空間でどのように響き、どのように展開するか、ぜひ体験していただきたい。これこそいらした人にしか味わうことのできない、一番の聴きどころだと思います。

長木ベルリンで聴いた時に思ったのは、その場の雰囲気に呑まれる、というか、雰囲気ごと味わう作品だということ。これはCDで聴いていたときにはわからなかったことです。

松平70分という演奏時間を長いと感じるかどうか。シュトックハウゼンの「長さ」はいつもトピックになって、本人もそれについて文章を書いていますが、それによると、音楽にクライマックスや終わりを求めるから「長い」と感じるのだと。そもそも聴くときに終わりを求めてはいけない。

長木(笑)

松平もちろん今回の《シュティムング》は初めがあり終わりがある構造になっていますが、終わりをめざして聴くというよりも、美術館を歩きながら色々な絵を見るように、その時その時のサウンドの豊かさを感じていただくと、より一層楽しめるのではないかと思います。

※全文は、当日プログラムに掲載します。

FORMSCHEMA《シュティムング》の全体構成図

【動画】松平 敬さんによる《シュティムング》倍音唱法の実演

【レクイエム・シュティムング】演奏者からのメッセージ

"Stimmung"というドイツ語には、場の雰囲気、醸し出される気、心の調子という意味があります。この3つのどの意味も、シュティムングがどんな作品であるかということを表しています。カールハインツ・シュットックハウゼン作曲《シュティムング》は、まさに初めての倍音唱法のための作品であり、1968年に書かれて以来、今なお素晴らしい作品です。この作品は、ヨーロッパの、当時の倍音唱法を用いる歌手たちがこのテクニックを知ることになったきっかけとなった作品であり、だからこそ、西洋での倍音唱法の土台となったと考えられています。
この作品を演奏することは、全く新しい音の世界に飛びこむことです。倍音は、空気中やマジックネーム1、ユーモア溢れる調子、そして語呂合わせを、気さくな雰囲気で、そしてスピリチュアルな響きで揺らめいている高音のフルートのような音で姿を見せます。
作曲家の言葉を借りれば、
「《シュティムング》は、いわば瞑想的音楽である。時は止まる。響きの内に、和声スペクトルの内に、母音の内に、いや内そのものに耳を傾ける。この上なく繊細な揺らぎ―突発的変化は生じない―、全ての感覚は覚醒しつつ穏やかだ。感覚的な美のなかに永遠の美が灯る。」

《シュティムング》を体験するということは、コンサートの体験だけではなく、旅の体験でもあるのです。響きと精神性の、途方もない冒険へようこそ!

ユーリア・ミハーイ(シュティムング:ソプラノ、音楽監督)

(注)1.マジックネーム:楽曲中でしばしば各声部に現れるテキストを指し、あらゆる文化における神々の名前が用いられている。(例:ヴィシュヌ、イシスなど)

まず最初にこの作品の記念すべき日本初演に新国立劇場合唱団が参加させて頂ける事を大変嬉しく思います。外国では今まで何度も演奏された機会があり、最近ではベルリン・フィルの公演が映像で見られる事もできますが、現存するあらゆる作品の中でも、実演において困難な要素に溢れている作品として、ミヒャエル・ギーレン氏の録音で存在は知っていましたが、まさかこの作品をオール日本人のみで上演する機会がやってくるとは思いもしませんでした。
新国立劇場合唱団としてはツィンマーマンの作品は《軍人たち》に引き続き2つ目となります。この作品で合唱団は舞台上に第1コーラス、2階客席後方に第2コーラス、客席真ん中左右に割り振られた第3コーラスと、4群に分かれて歌います。第1コーラス以外の合唱団にはそれぞれ指揮者がつき、舞台上のマエストロとリンクさせつつ指揮をするという途方もない作品です。
この作品を新国立劇場《トリスタンとイゾルデ》公演で素晴らしい共演をさせて頂いた大野和士マエストロと共演できる事も大変嬉しく思います。恐らく一生に何度も演奏できる様な、そして生で聞くことができる様な作品ではないと思います。この大変貴重な機会是非ともサントリーホールに足をお運びになって頂きたいと思います。

冨平恭平(レクイエム:合唱指揮)

皆さんはじめまして、私はスガダイローというピアニストです。
この度は「サントリー芸術財団サマーフェスティバル2015」にお招き頂き大変浮かれています。
またツィンマーマンさん作《ある若き詩人のためのレクイエム》は日本初演だそうで依頼が来た時、私如きで本当にその大役を務められるのか?と15秒悩んだ結果、やりマッス!とお応えしたわけであります。譜面が届いてまた驚きです。なにやら図形などが並んでおりましてこれを本当に読むのか?私如きにこなせるのか?と1秒ほど悩んだ挙句、出来マッス!とグイグイ読み進めました。申し訳ありません、私はクラシックの世界に疎いものでどうやら、かの有名なサントリーホールに出演出来るということは大変名誉な事で、ジャズの演奏家が出演するなど稀である事を聞きまして、まあこの件に関しては既に引き受けてしまっていますし、後の祭りなので思考する時間は必要ありませんでした。
この様に合計16秒の不安とその他、溢れる好奇心でこの記念的な公演に挑んでいきたいと思っております。類家心平、吉田隆一、東保光、服部マサツグとバンド仲間もとびきりの無鉄砲を集めましたのでどうぞ皆さん安心してハラハラし、そして楽しんでください。

スガダイロー(レクイエム:ジャズコンボ・ピアノ)

《ある若き詩人のためのレクイエム》では特殊編成のオーケストラ、3群の合唱、ジャズコンボとともに電子音響が重要な役割を占めています。電子音響が再生される時間はトータルで45分にもなり、しかも電子音響のみの部分も多いことからも、この作品での重要性がわかります。特に前半40分を占める第一部では全編にわたり電子音響が再生され、その上にオーケストラや合唱、ジャズコンボが加わり重層的な音響時間を生み出しています。
電子音響はツィンマーマン自身が作成したもので、古今東西のさまざまな書物からとられた言葉や歴史的な演説を中心に、持続音を中心とした重く暗い響きの電子音、さらにはクラシックからロックまでさまざまな楽曲が素材として用いられています。これらの膨大な音響素材は8チャンネルのテープにまとめられ、観客を取り囲むように8ヶ所に設置されるスピーカーから再生されます。
初演時は4チャンネルのテープレコーダー2台を使用した音響再生でしたが、現在ではテープ素材はデジタル化されコンピュータを用いて再生するため、より高精度な生演奏の同期が可能となっています。
今回の公演ではサントリーホールの1階席、2階席それぞれ8ヶ所に電子音響再生用のスピーカーが設置するほか、それとは別にナレーションやジャズコンボなどいくつかの楽器の増幅用のスピーカーも使用します。そのため最終的な音響バランスは音響担当者が担うことになりますので、指揮者とともに綿密な音響設計が要求されます。
これまでサマーフェスティバルなどで何度もサントリーホールでの電子音響の演奏に関わってきましたが、今回はこれまでとは比較にならない大規模なシステムと内容のため、1年近く前から上演に向けた準備を進めてきました。CD等では体験できない壮大な音響世界を、サントリーホール大ホールにてぜひご体験ください。

有馬純寿(レクイエム:エレクトロニクス)

プロフィール

長木誠司

昭和33年(1958年)福岡生まれ。東京大学文学部美学芸術学科卒業後、東京藝術大学大学院博士課程修了。博士(音楽学)。1986-88年、ドイツ学術交流会(DAAD)の奨学生としてドイツのボンに留学。2005年度には文部科学省の派遣でベルリン自由大学の特別研究員として在外研修。東邦音楽大学・同短期大学助教授を経て、現在、東京大学総合文化研究科教授(表象文化論)、音楽評論家。オペラおよび近現代の音楽を多方面より研究。著書に『前衛音楽の漂流者たち~もう一つの音楽的近代』(筑摩書房)、『グスタフ・マーラー全作品解説事典』(立風書房)、『フェッルッチョ・ブゾーニ~オペラの未来』(みすず書房)、『第三帝国と音楽家たち』、『戦後の音楽』(作品社)。共著に『日本戦後音楽史』(平凡社)。訳書に『ストラヴィンスキー』、監訳に『音楽の新しい地平』、『世界音楽の時代』、監修に『作曲の20世紀Ⅰ、Ⅱ』(以上、音楽之友社)、共訳に『インターメディアの詩学』(国書刊行会)、共同監修に『武満徹~音の河のゆくえ』(平凡社)、『総力戦と音楽文化』(青弓社)、『貴志康一と音楽の近代』(青弓社)など。本年『オペラの20世紀──夢のまた夢へ』が平凡社より刊行予定。

カールハインツ・シュトックハウゼン
Karlheinz Stockhausen(1928-2007)

ドイツ、ケルン近郊のメドラート出身、カトリック。第2次世界大戦中は野戦病院での勤務を経験。ケルン音大でピアノ・音楽教育学、ケルン大学でドイツ文学・哲学などを学ぶ。1951年、ダルムシュタット国際夏季講習に初参加して以降、総音列音楽、電子音響合成、ミュジック・コンクレート、音響の空間的構成などの手法を発展させる(《クロイツシュピール》《習作I, II》《少年の歌》《グルッペン》など)。1970年の大阪万博以降、次第に宇宙論的世界観と音楽的秩序の融合に傾倒し、計29時間の長大な連作オペラ《リヒト(光)》(1977-2003)や《クラング(音)》(2004-2007、24曲の構想中21曲まで完成)を作曲。ケルン近郊のキュルテンでは、作曲家の遺志を継いだ講習会が毎夏開催されている。

[白井史人]

ベルント・アロイス・ツィンマーマン
Bernd Alois Zimmermann(1918-1970)

ドイツ、ケルン近郊のブリースハイム出身、カトリック。第2次大戦での従軍中に皮膚疾患で退役。ケルン音大で作曲(ヤルナッハに師事)、音楽学、音楽教育学を学ぶ。1948年、ダルムシュタット国際夏季講習に参加。1950年代に《一楽章の交響曲》、《誰も知らない私の悩み》などを発表。ジャズ、宗教音楽、電子音響、総音列音楽、既成曲の引用などを組み合わせて「複数の音響作曲」を展開する。60年代にオペラ《軍人たち》、《ある若き詩人のためのレクイエム》で評価を確立する一方、鬱病に悩まされ1970年に自殺。映画『変容』(1953)の音楽、多数のラジオドラマ、バレエ音楽も手掛けた。オペラ《メデア》の断片スケッチを含む遺稿の大部分はベルリン芸術アカデミー所蔵。

[白井史人]

8/23(日)出演者

大野和士(指揮)

東京都生まれ。東京藝術大学卒業。1987年トスカニーニ国際指揮者コンクール優勝。90-96年クロアチア、ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督。96-2000年ドイツ、バーデン州立歌劇場音楽総監督。92-99年東京フィルハーモニー交響楽団常任指揮者を経て、現在同楽団桂冠指揮者。02-08年ベルギー王立歌劇場(モネ劇場)音楽監督。08年9月からフランス国立リヨン歌劇場首席指揮者。12/13シーズンからはイタリアのアルトゥーロ・トスカニーニ・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者。15年4月から東京都交響楽団、9月からバルセロナ交響楽団の音楽監督に就任する。文化功労者。

新国立劇場合唱団

新国立劇場は、オペラ、バレエ、コンテンポラリーダンス、演劇という現代舞台芸術のためのわが国唯一の国立劇場として、1997年10月に開場した。新国立劇場合唱団も年間を通じて行われる数多くのオペラ公演の核を担う合唱団として活動を開始した。メンバーは100名を超え、新国立劇場が上演する多彩なオペラ公演により年々レパートリーを増やしている。個々のメンバーは高水準の歌唱力と優れた演技力を有しており、合唱団としての優れたアンサンブル能力と豊かな声量は、公演ごとに共演する出演者、指揮者、演出家・スタッフはもとより、国内外のメディアからも高い評価を得ている。

東京都交響楽団

東京オリンピックの記念文化事業として1965年東京都が設立。創立50周年を迎える2015年度より、大野和士の第5代音楽監督就任が決定している。現在、小泉和裕が終身名誉指揮者、エリアフ・インバルが桂冠指揮者、ヤクブ・フルシャが首席客演指揮者を務める。定期演奏会などを中心に、年間約60回の音楽鑑賞教室、ハンディキャップを持つ方のための「ふれあいコンサート」など、多彩な活動を展開。《首都東京の音楽大使》として、欧米・アジア各国公演でも国際的な評価を得ており、15年11月には長期海外ツアーとしては24年ぶりとなるヨーロッパツアー(指揮:音楽監督・大野和士)を予定している。略称:都響 http://www.tmso.or.jp

長谷川初範(ナレーター)

1955年生まれ。77年、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)演劇科在学中に、学校創設者であり校長であった映画監督今村昌平氏が制作した舞台「ええじゃないか」(演出:藤田傳、劇場:俳優座劇場)で主演に抜擢され、初舞台を踏む。2009年に「いのちの山河」、11年には「TAKAMINE~アメリカに桜を咲かせた男~」と立て続けに映画主演を果たす。テレビ、映画に加えて、近年は精力的に舞台にも取り組んでいる。「双頭の鷲」、「ロミオ&ジュリエット」、「テンペスト」など。オペラへの造詣も深く、《アイナダマール》(粟国淳演出)ではナビゲーターを務めた。

塩田泰久(ナレーター)

岡山県出身。初舞台は2004年「巨匠」。最近の舞台は「白バラの祈り」、「選択 一ヶ瀬典子の場合」、「海鳴り」、「霞晴れたら」、「峯の雪」、「十二月」、「帰れ、いとしのシーバ」、「思案橋」、「静かな落日」、「冬の花 ヒロシマのこころ」、「満天の桜」、「夏・南方のローマンス」、「集金旅行」、「シズコさん」、「コラボレーション」、「冬の時代」 など舞台中心に活躍している。

森川栄子(ソプラノ)

北海道教育大学札幌分校特音課程及び東京藝術大学卒業、同大学院修了。ベルリン芸術大学に留学、アリベルト・ライマン教授、エルンスト・G・シュラム教授に学ぶ。1994年クラーニヒシュタイン音楽賞、95年パウラ・リントベルク・サロモン歌曲コンクール第3位、96年ガウデアムス現代音楽コンクール第2位、第65回日本音楽コンクール第1位および増沢賞。新作世界初演を含む現代作品をレパートリーの中心とし、ミュンヒェン・ビエンナーレ、ザルツブルク音楽祭、ベルリン・コーミッシェオーパー、新国立劇場等に出演。
愛知県立芸術大学教授。お茶の水女子大学大学院非常勤講師。

大沼 徹(バリトン)

福島県出身。東海大学卒業。同大学院在学中、独フンボルト大学に留学。第21回五島記念文化賞オペラ部門新人賞。2008年二期会ニューウェーブ・オペラ《ウリッセの帰還》(ヘンツェ版日本初演)タイトルロールに抜擢され、10年2月東京二期会《オテロ》イアーゴで絶賛を浴びた。以後、12年二期会《パルジファル》アムフォルタス、13年同《こうもり》ファルケ、新国立劇場《魔笛》弁者等に出演し着々と実績を積み重ね、13年7-8月東京二期会《ホフマン物語》リンドルフ/コッペリウス/ダペルトゥット/ミラクル博士の4役に出演、スケールの大きな見事な演唱で聴衆を魅了、目下絶好調のバリトンとして注目を浴びている。シューベルト《冬の旅》などのドイツリートや同年11月日生劇場《フィデリオ》ドン・フェルナンドでも高い評価を得ている。二期会会員。

有馬純寿(エレクトロニクス)

1965年生まれ。エレクトロニクスやコンピュータを用いた音響表現を中心に、現代音楽、即興演奏などジャンルを横断する活動を展開。ソリストや東京シンフォニエッタをはじめ室内アンサンブルのメンバーとして、数多くの作品の音響技術や演奏を手がけ高い評価を得ている。第63回芸術選奨文部科学大臣新人賞芸術振興部門を受賞。2012年より国内外の現代音楽シーンで活躍する演奏家たちと現代音楽アンサンブル「東京現音計画」をスタート、その第1回公演が第13回佐治敬三賞を受賞。現在、帝塚山学院大学人間科学部准教授、京都市立芸術大学非常勤講師。

スガダイロー・クインテット(ジャズ・コンボ)

圧倒的なスピードで畳み掛けるスガダイローのピアノに、服部マサツグのタイト&正確無比なドラムと東保光の奔放なベースが絡むことで生まれる強烈なグルーヴを産むスガダイロートリオに、トランペット類家心平、バリトンサックス吉田隆一を加えたスペシャル・クインテット編成。クライマックスに上り詰めていく高次元の即興演奏は衝撃と音楽的享楽を感じさせる。見逃すことのできない、日本の現在進行形のジャズメン。

8/29(土)出演者

ユーリア・ミハーイ(ソプラノ、音楽監督)

フランクフルトを拠点に、現代音楽、パフォーマンス・アート、エレクトロ・アコースティック・ミュージックの分野で活躍するコンポーザー=パフォーマー。ハノーファー音楽大学で声楽とエレクトロニック・コンポジションを学び、カールスルーエ・アート&メディア・センター、アムステルダムのSTEIM、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会で研鑽を重ねる。パフォーマンスでは、Wiiリモコン、ゲームパッドなどのさまざまなコントローラやサーキットベンディングトイズを用いて、自らの声をライヴ・エレクトロニクスと結び付けている。ドイツ電子音楽協会(DEGEM)委員。

工藤あかね(ソプラノ)

東京藝術大学卒業。日墺文化協会「フレッシュ・コンサート」最優秀賞、「国際ミトロプーロス声楽コンクール」日本代表。2011年のリサイタル「Secret Room」ではシュトックハウゼン《ティアクライス》をとりあげ、舞踊を伴う新たな演奏解釈を示した。近年はサティ《ソクラテス》、ヴィエルヌ《憂鬱と絶望》の蘇演、シェーンベルク《架空庭園の書》等を手がけている。今秋の「Tokyo Experimental Festival」にて、無伴奏リサイタル「Secret Room vol.2 布と箱」に出演予定。

太田真紀(アルト)

大阪府出身。同志社女子大学学芸学部声楽専攻卒業後、大阪音楽大学大学院歌曲研究室修了。 東京混声合唱団団員として活動後、文化庁新進芸術家海外研修制度にてローマに滞在した。キュルテンにてシュトックハウゼン夏期講習会に二度参加。これまでにイザベラ・シェルシ財団(ローマ)、ケルン大学におけるリサイタル、シェルシ・フェスティバル(バーゼル)、ヌオヴァコンソナンツァ・フェスティバル(ローマ)、武生国際音楽祭、いずみシンフォニエッタ大阪定期演奏会、東京オペラシティリサイタルシリーズ「B→C」他に出演、活発な演奏活動を行っている。

金沢青児(テノール)

愛知県名古屋市生まれ。東京藝術大学音楽学部作曲科中退。現在、同大学声楽科4年次に在籍。東京藝術大学バッハカンタータクラブのメンバーとして、J.S.バッハの多数の教会カンタータのソリストを務めるほか、古楽アンサンブル「コントラポント」や、声楽アンサンブル「ヴォクスマーナ」の公演に参加するなど、幅広い活動を行っている。

山枡信明(テノール)

横浜生まれ。 ドイツ、ヴッパータール歌劇場の専属ソリストとして本格的な歌手活動を始め、エッセン歌劇場など各地のオペラハウスにも客演してきた。現在は西部ドイツ放送協会に属し、WDR放送合唱団の専属第一テノールを務めマーラー、メシアン、リゲティー、B.A.ツィンマーマン、シュトックハウゼンなどの諸作品を上演、世界各地へ客演してきた。また宗教曲をはじめとするオーケストラ付き声楽曲などのソリストとして、バロック時代から20世紀にいたる広範なレパートリーでドイツ内外のコンサートに数多く出演している。 近年は歌曲演奏にも継続的かつ集中的に取り組んでおり、山枡の芸術活動における核心部分となっている。 ドイツ、デュッセルドルフ市在住。

松平 敬(バス)

東京藝術大学、同大学院に学ぶ。現代声楽曲のスペシャリストとして、湯浅譲二、松平頼暁、西村朗、近藤譲、三輪眞弘など80作以上の新作を初演、シュトックハウゼン、クセナキスの演奏至難な作品もレパートリーに持つ。全曲無伴奏独唱曲によるリサイタルなど、独創的な自主公演も話題を呼ぶ。ソロCDとして、多重録音で一人アカペラを実現した『MONO=POLI』(平成22年度文化庁芸術祭・優秀賞)、『うたかた』、一柳慧、ケージなど、通常の五線譜を使用しない作品ばかりを集めた『エクステンデッド・ヴォイセス』を発表。