SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2007年11月 1日

#114 中村 直人 真打ち登場! 『いっぱい笑える人生』 - 5

◆逆転トライで早稲田に勝った

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—— 大学リーグ戦は?

開幕戦もスタメンを取って、2節もスタメンを取ったんですが、3節目で外されました。どこか天狗になっていた部分があったと思います。のちのち考えると、そこで外してもらったことは自分にとっていい経験でした。自分を戒めるというか、基本的にチョーシ乗りなんで、いい経験になりました。

—— 3節で外されて、反省したんですか?

ひたむきになりましたね。実績もなくてチョロっと出してもらっただけなのに、すごく落ち込みましたね。勘違いしていたのかも知れませんが、一人前に凹んでいて、周りの同級生も気を遣って慰めてくれたりしました。もう1回チャレンジしようと思いました。

—— 4節目はどうだったんですか?

そうですね、たしか1試合くらいでメンバーに戻った気がします。

—— そこからは順調でした?

全然順調ではありませんでした。その時のキャプテンが今の監督なんですが、よくもまぁその後使い続けてくれたなという感じでした。特に何の特徴もないというか、これといった武器のない選手を、ただチームの中でスクラムが強いというだけで、よく使ってくれたなと思います。

その年の大学選手権の1回戦で、清宮さんのいる早稲田と当たりました。3連覇の時以来勝っていなくて、勝ったら5年ぶりか6年ぶりだったんですが、最後の最後に逆転トライで勝ったんです。嬉しかったですね。

—— 当時の清宮監督はどうでした?

やっぱりグラウンドの中のリーダーシップはすごかったですね。激しいしね。3年生で、キャプテンじゃなかったですけど、体張ってチームをまとめていました。自分にとって大学5年間の中で、その試合がベストゲームだったと思っています。前半5分で中尾キャプテンが足首骨折して、3トライくらい取られたんですが、マイナスの要因がチームを奮い立たせて1つになりました。

そのあとも大きな試合の前や辛いことがあった時は、その試合のビデオを擦り切れるほど見ましたね。最後は早稲田の選手が泣き崩れているのを、清宮さんが「しっかりしろ」って肩を抱えてる姿が映るんですが、それが印象的ですね。当時から僕は清宮さんを知っていましたが、一緒に泣くんではなくて、泣いている同級生の肩を抱えてるその姿が一番印象に残ってます。

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◆超高校級が怪我

—— その後はどうでしたか?

一応ずっと試合には出ていました。早稲田に勝って、その次国立に行って大東文化大と当たりました。今度は選手として国立に行って、「去年『来年はここでやる』と言ってたけどほんとにやったな」と言われてすごく嬉しかったですね。試合は、開始1分、スクラムトライ・・・取られる(笑)。悲しい思い出ですね。ボロボロにやられましたね。スクラムもほとんど持っていかれました。

そんなことがあって、3年生になっての夏合宿では、Bチームスタートでした。1年生に体の大きい超高校級と言われていた選手が入ってきました。そのまま日本代表でも通用すると言われていたくらいの大物でした。いま彼は京都で飲み屋、お洒落なイタメシ屋をやっていますが(笑)。彼にAチームを譲ってしまいました。Bチームに入って必死でやっていたら、彼が合宿3日目くらいに怪我をしました。

—— なにか呪いの儀式でもしてたんですか?(笑)

よくそんなことを言われていました(笑)。うちの母親が神社でロウソクを頭に巻きつけてワラ人形に釘を打ちつけてるんちゃうかって。それで結局4日目からAチームでした。彼は結局その怪我が大怪我で、4年間その怪我が完治することなく、何とかラグビーをしていた感じだったと思います。もったいないですね。ぼくはお陰様ですけど。

その日の夜、彼は松葉杖ついて京都に帰ると言って合宿所を後にしました。ライバルの後輩が怪我して山降りるって言ったら、自分と関係ないポジションなら心配して「大丈夫か?治してはよ帰ってこいよ」なんて言うんですが、自分と同じポジションだったんでニヤけてしまって、ちょっとテンション上がってしまいました。

去年Aチームだったのに今年はBからスタートして、合宿中にAを取り戻したということで、ちょっと浮かれた表情をしていたら、廊下の向こうから怪我をしたその後輩が来て目があって、何て言葉掛けていいか分からず、下手したら「ありがとう」って言ってしまうかもしれないところでした。それは言うたらあかんと思って抑えました。

—— 4年生の頃はどうでした?

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4年生の頃は、2年、3年とAチームだったこともあってAチームでした。4年生ですし、当然ですよね。でも4年生になった時に1年生に、去年まで神戸製鋼のフォワードコーチで日本代表でも一緒にやった中道(紀和)ってのが入ってきました。彼が高校生の頃の花園の時には、関西の新聞の1面に「中道!」っていう文字が、甲子園の「清原!」みたいに載るくらいすごくメジャーな高校生でしたね。それはもう覚悟を決めましたね。フットボーラーとしての素質もありましたし、体も大きかったですし、スクラムも強かったです。まさに超高校級でした。後に長谷川慎のライバルになった選手ですね。

春合宿から彼が参加して、もちろんスクラムも組むことになりましたが、必死で組みましたね。とは言っても春合宿なんでまだ高校生上がりっていう感じが抜けていませんでしたが、夏合宿前くらいになるとそれこそ必死でしたね。僕は4年生でキャプテンとも仲が良かったので、いろいろ情報も聞いていました。「中道を合宿からAチームで使うらしい」なんて情報が入ってきて、「俺が2年、3年とやってきたことよりもそっちなんか」なんて思ったりしてました。そしたら彼は啓光学園出身で合宿の3日前に、そのOB戦に出て、膝の靭帯を切りました(笑)。

◆新聞1面の高校生も怪我

—— 3回も続くとさすがにおかしいですね

僕の願いが、というよりも中村家の願いが届きました(笑)。あ、呪いって書かないで下さいね、願いって書いてくださいね(笑)。それで彼は合宿不参加。

—— またニコニコしちゃったんですか?

キャプテンから電話がかかってきて、「中道が怪我しおった」と言われた時は、「何を悪い冗談を言っているんだ。本当にAチームになりたいのに、お前、俺を外しといてようそんなこと言うなぁ」って言ったら、「ほんまやって!」「ええよ、そんな冗談は!」って言って電話を切りました。それで合宿へ行ったら本当でした。

4年生の時の合宿は長期のサバイバル合宿で、120人でスタートして、菅平に70人、その後羽田から釧路に行くのは40人という長期合宿でした。僕は最初の2週間で1回Bチームに落とされました。それがあるから今こうやってサンゴリアスでコーチできていると思うんですが、その時は僕は人のせいにしていました。練習で押されてBチームに落されて、周りのロックやフッカーの選手に「お前たちが悪い」みたいなことを言ってしまいました。でもその後、合宿中なので考える時間がたくさんあって、自分が力がないと感じましたし、自分が力があればなんとかなるという風に考え直しました。それで辿り着いたところが、今の僕のプロップとしての考え方になりました。

(続く)

(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)
[写真:長尾亜紀]

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