SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2007年3月 8日

#81 林 雅人 慶応大学監督就任『サントリーには必要なものはすべてがある』

◆慶応最後の2年間は1回しか負けないチーム

——  サントリーに来る前、どこでコーチをやっていたんですか?

林雅人コーチングコーディネータ 画像1

東京ガスのコーチをしていました。慶応大学のヘッドコーチを1996年~2000年までやって、2001年~2004年までの4年間、東京ガスのヘッドコーチをやっていました。監督がいないチームでしたので、実質的には監督でした。同時に慶応大学の方もアドバイザーとしてやっていました。

2000年から日本代表関連のコーチもやりました。U-23、U-21のコーチをやって、2000年のイタリア学生ワールドカップにもコーチとして参加しました。2001年~2002年にかけて日本代表チーム・向井(昭吾)ジャパンのコーチもやっていましたし、2003年には日本A代表の監督もやりました。

慶応のヘッドコーチ時代は無給でしたが、父親の会社の全面的なサポートがあったので、それでもコーチができました。不動産賃貸、建設業関連の会社ですが、父が社長で僕が副社長なんです。清宮監督が早稲田の監督になる時に、慶応の例を引き合いに出したそうです。慶応がフルタイムコーチで成功したことが、追い風になって早稲田のフルタイム監督になったということを書いていたのを読んだことがあります。

そして2005年にサントリーとプロ契約をしました。日本のトップチームでは外部から日本人コーチを雇うというケースは、まだ少ないのではないかと思います。

—— 慶応のコーチ歴が最も長いんですね

1985年に大学を卒業して清水建設に入り、1996年までの11年間、選手、キャプテン、コーチという流れでずっとラグビー部で活動しました。96年に父の会社へ入るという時に、上田さん(昭夫/元慶応大学監督)から慶応大学のコーチをやらないかという話がきて、最初はフルでかかわる形で引き受けたのではないんですが、そのうちフルタイムになっていってしまいました(笑)。

慶応のコーチになる前、1996年6月末に清水建設を退社して、オーストラリアへ飛んで行きました。コーチの資格が取りたくて、辞めてすぐの7月1日にはシドニーのグラウンドに立っていました。レベル2という資格なんですが(オーストラリアラグビー協会公認レベル2ラグビーコーチ)、1週間勉強して実技と筆記試験をやって、資格を取ってすぐまた日本に帰ってきました。

父親に理解があって「やれよ、会社の方は大丈夫」と言ってくれましたので、それから5年間、日吉(神奈川)のグラウンドに通いました。4年目の1999年に日本一になったので、そこでかっこよく辞めようと思ったんですが、それでは虫が良すぎるということでもう1年やりました。1999年は学生相手に全勝、2000年も対抗戦は全勝優勝して、大学選手権の準決勝の法政戦に13-15の2点差で負けるまで、ぜんぶ勝っていた2年間でした。

最後の法政戦も、決勝で関東学院とあたるということで、今回のサントリーのトヨタ戦のような感じで、足下をすくわれたような負けというか、予期せぬというか、逆にいえば負けるときはここしかなくて、決勝までいけば勝つと思っていたところでの敗戦でした。自分自身のいちばんの転機は、慶応のコーチをフルタイムでやったこの時で、ここで成績を残せたことでした。

慶応時代は対抗戦と大学選手権の成績を順にいうと、1996年6位&不出場、1997年7位&不出場、1998年2位&ベスト4、1999年優勝&優勝、2000年優勝&ベスト4です。清宮早稲田は次の年からですから、対戦はしていません。慶応は最初の2年間は、大学選手権にも出られないようなチームでしたから、最初コーチになった時は、とんでもないチームだなと思いました。それが最後の2年間は1回しか負けないチームになったことが、コーチとしての自信になりました。

◆「ゴロゴロ」「大回り」はやりませんでした

—— コーチのノウハウはどうやって会得してきたんですか?

林雅人コーチングコーディネータ 画像4

慶応のコーチになったときは、とても新鮮でした。学生へのコーチは自分にとって初めての試みだったので、授業との兼ね合いをどうするとか、あり余る時間がある選手はどうするとか、例えば練習時間をどう設定するのか1つとっても、いろいろと考えました。

僕は学生の頃からいろいろな練習方法を考えていましたし、意見も持っていたので、ただ精神力だけを鍛えるようなメチャクチャきつい練習だけで、本当にいいのかと思っていました。清水建設では1987年から3年間キャプテンをやって、公式戦無敗(1試合引分けあり)で、最初4部だったチームを3部、2部、1部と上げて、次のキャプテンにチームを引き渡しました。

このキャプテン時代、メンバーには慶応出身者が不在で、他の大学卒のみんなと一緒にやっていくということで、慶応の中の常識ややり方は通じません。それが自分にとってもいいチャンス、超スパルタではない方法を試みるチャンスだと思いました。

もともと超スパルタは好きではないし、選手みんなに通じるグローバルなやり方でやろうと思いました。もちろんメンタル面も大切ですが、1つ1つのスキル練習をするのにも理由があるという形でやりました。それを3年間やってみて、すごく上手くいったんですね。

慶応の中の常識というのは、例えば当時は「地獄の夏合宿」と言われていた合宿があって、とにかくメチャクチャ厳しいんです。「ゴロゴロ」という有名な練習があるんですが、何というか、転がる練習なんですけども、OB同士で「ゴロゴロ」をやったことがあるというだけで仲良くなっちゃうほどの、独特の練習なんです。

一種のしぼりなんですが、タックルバッグの親分みたいな、ほっといても自立しちゃう太いタックルバッグ(妙に重たい芯材と布を使ってるもの)に体当たりするものなんです。先輩がボカンとボールを蹴ると、それを取りにいってセービングして、起き上がってビューッと走って戻ってきて、思いっきりバッグに体当たりして、それから先輩にボールを返す、必ず両手でボールを持って「お願いします!」と言って返すんです。

そのボールを先輩がまたボカーンと蹴る、それの繰り返しです。それが長いときは延々1時間続く。そうするととんでもないことになっちゃうんですね。今考えれば精神力を鍛えるにはもちろん素晴らしくて、大学の4年間があって今の自分の頑張りの原点になっているので、タイムマシンで戻れても僕らにとってはあれでいいと思います。でも今の世の中が我慢という時代ではなく、今の選手たちには効果的でないという思いがあったので、僕がコーチをしていた5年間は、この「ゴロゴロ」はまったくやりませんでした。

肉体的にきつい状況に追い込んで、精神力を鍛えることは、普通の練習でもできるし、試合中にもっと効果が上がるような形でできる、と僕は思っていました。「地獄の山中湖」夏合宿では、3部練もやったりしていました。そうすると朝5時半に1年生のお茶当番が起きて、周りのメンバーを起こさないようにそうっとベッドから出て、宿舎から下のグラウンドまでバケツの親分みたいなのを3つにお茶を入れて(みんなが練習中に飲む水として)、オタマと一緒に運んで、6時半からは練習が始まるんです。

当時は「試合中も飲まないのだから」ということで、練習中は水を飲んではいけない時代でしたから、練習途中でキャプテンから水を飲んでいいという許可が出ると、お腹がタポンタポンになるぐらい水を飲んじゃって、それで集中力が一気に低下するんですね(笑)。そして不条理な練習もたくさんあって、例えば「大回り」と呼ばれていたのは、グラウンドと宿舎の間の山を走り回るんですが、富士山で登ったような道を全力疾走で5周とかするんです。まさに「捻挫しろ」と言わんばかりの練習です。当時死ぬほどやりました。でも不思議と捻挫する選手はいませんでした。

「ゴロゴロ」「大回り」に代表される「どうなの??」という練習が、清水建設で他の大学卒の人たちと一緒に練習をやる中ではできませんし、もしやっていたら1年でキャプテンをクビになっていたでしょう(笑)。

林雅人コーチングコーディネータ 画像2 林雅人コーチングコーディネータ 画像3

◆グリーンウッドの「シンク・ラグビー」

—— 新しい練習メニューは、どうやって考えたんですか?

本を買い漁ったり、ビデオを集めたり、ありとあらゆるものを探しました。わからない時は、指導書や映像で世界の試合を見るか、知ってる人に聞けばいいと思っているんですが、当時は周りに世界を知っている人がいませんでした。文献を探してみても、日本にはルールの本以外何もありませんでした。ラグビーに関しては遅れているんだなとつくづく思いました。

そんな時、ジム・グリーンウッドの「シンク・ラグビー」という本の日本語版を見つけて、それを読んでいろんなヒントを得ました。僕にとって最初の指導書なので、今でもずっと本棚にとってあります。その本以外は、自分で考えました。

—— 東京ガスのコーチになったのはなぜですか?

2000年を終えて、父の会社の仕事に専念しようと思いましたが、土日は時間があるんですね。たまたま慶応の1つ下の後輩の柴田(陽一/来シーズンから東京ガスラグビー部長)が、東京ガスのラグビー部にいて、こちらから売り込みました。東京ガスはトップリーグの1つ下のクラスのリーグでやっていて、上位ではあったけども惜しいところで負けていたチームでした。

会社がしっかりしているということと、グラウンドが23区内にあるのはリコーと東京ガスだけで、仕事をやりながらコーチができるという条件に適うチームでした。それで趣味と実益を兼ねて、東京ガスでやってみたいなぁという気持ちになったんです。それまでいた清水建設も東京ガスと同じリーグでしたので、違和感もありませんでした。

◆泣けるほど一生懸命になるもの

—— それでは小さい頃のお話を...小学校からラグビーを始めたんですか?

林雅人コーチングコーディネータ 画像5

小学校では山岳部でした。いつもお腹がすいていて(笑)、山岳部が作るインスタントラーメンの匂いに誘われて、山岳部しかないと思いました。ですので山岳部でラーメンを作って食べていました(笑)。

—— そうすると中学からラグビーを始めたんですね

中学、高校、大学と迷いなくラグビーを続けました。従兄が慶応でラグビーをやっていたんです。横山さんという人です。それと自分の親友がラグビーを小学校からやっていて、中学(慶応普通部)に入ったら一緒にやろうよと誘われました。

—— やってみて面白かったですか?

最初はぜんぜん面白くなかった。後ろにボールを投げて前に進む?ん?これ何の意味があるの??それが感覚的によくわからなくて、何てつまんないんだろうと思っていました。

—— ポジションは?

最初はフッカーです。面白いもので、清宮監督と話していたら、監督も最初はフッカーだったそうで一緒なんです。フッカーで入って、新人戦が青山学院と綱島のグラウンドであったんですが、スクラム組んでいきなり頭から落ちました。「こんなとこ嫌だ、危ない!」と思って、「9番以降が絶対いい」と言い張って、15番になりました(笑)。ときどきスタンドオフにも入ったりしていました。

この頃にはラグビーは嫌というのはなくなっていましたが、何の感情もなかった気がします。フルバックでライン参加するというのが難しかったり、1対1で抜かれてくると止めるのが難しかったり、そんなことを覚えています。

—— いつからラグビーが面白くなってきたのでしょうか?

高校(慶応高校)になって相当ハマっていきました。1年生からフランカーで出て、3年までのぜんぶの試合に出ました。この時からとっても楽しくなりました。当時神奈川にはラグビー部がある高校が60校ぐらいありましたが、全国大会予選ではいいところまでいきました。2年の時に決勝までいきましたが、保土ヶ谷で雨の中、20対10で負け、大泣きしました。その次の年はベスト4でしたが、僕は手を脱臼骨折しました。

2年の時に保土ヶ谷で負けた後、来ていたコーチの1人が、「お前ら幸せだ。世の中に泣けるほど一生懸命になれることはなかなかない。お前らにとってそれはラグビーなんだ」という話をされました。「君たちは幸せだ」という言葉がとても印象に残りました。だから今、自分でも選手に言うことがあります。「泣けるほど一生懸命になれるもの、真剣にできるものは何だ?君たちにとってそれはラグビーではないのか?」と。

—— ハマったところをもう少し具体的に教えてください

ボールを持って走ることが面白かった。ボールを持って走って、自分がチャンスを創り出して、誰かにパスをする。このチームワーク感がすごく自分にとって心地よかったんです。1人でやるのではなくて、チームでやることが、もともと好きだったんでしょうね。

家系もあると思います。爺ちゃんがベルリンオリンピックの100mハイハードルの選手でした。母方の爺ちゃんで、森田と言います。僕は中学3年で右足の大腿骨を骨折して、お医者さんから「足が遅くなるよ」と言われましたが、そんなに遅くなりませんでした。母親には「お父さんの生まれ変わり」とよく言われます。選手を呼んで家に泊めたりとか、食事を出したりとか、頻繁にやっていたそうです。僕も世話好きなので、その血が入っているんじゃないかと思います。

林雅人コーチングコーディネータ 画像6 林雅人コーチングコーディネータ 画像9

◆やっていないポジションはセンターだけ

—— 大学でのポジションは?

フランカーでした。振り返ってみれば、これまでのラグビー歴で、試合でやっていないポジションは、センターだけです。フッカーが最初で、フルバックをやって、ウイング、スタンドオフ、スクラムハーフをやって、高校ではフランカーもナンバーエイトもやって、ロックもやりました。センター以外、ぜんぶやってます。器用貧乏なんですね(笑)。言い方を変えれば、バランス感覚がある(笑)。

早くから背が大きかったんですが、そのまま止まっちゃったんですね。センターだけやってませんが、今から思えば、センターやっておけばフルハウス?満漢全席?何と言うんでしょう?(笑)。

—— 日本代表関連のコーチ時代の思い出は?

代表系のチームをコンバインドチーム、即ち連合(期間限定)チームと呼んでいますが、コンバインドチームは期間が限られていてその時だけ集まる形式で、やはり50週も一緒にやるサントリーや、慶応、清水建設、東京ガスなどのチームとは感じるものが違います。

僕の場合、1年もののチームの方が感動します。1年間やって熟成して、最後にはその1年間が走馬灯のように蘇ります。代表には憧れていて、コーチをやりたいと思っていましたが、やってみて例えばワールドカップの時だけ集まっても、僕はこみ上げてこないんですね。

1年ものだったら感動できる。観客がいないチームでも、ヘタでも、草チームでも、1年間一緒に練習した仲間となら、勝っても負けても泣けるし、やってよかったと思えます。感動できます。

代表系コーチは、やってみるとやっぱり期間が短い分、僕には込み上げるものが少なかったです。しかし出会いという部分では素晴らしいものがあります。他チームのいろいろな選手やスタッフとの出会いがあって、どのチームにも知り合いができることは、本当に自分の財産となります。それとコンバインドとは言いながら、新しい信頼関係ができるのもいいところだと思います。

◆ブランビーズに帯同

—— サントリーのコーチになったいきさつは?

林雅人コーチングコーディネータ 画像7

2005年の1月14日、金曜日だったと思いますが、その日の昼に突然、サントリーの稲垣さん(純一/当時GM 現シニアアドバイザー/慶応大学卒)から電話がかかってきて、「夜会えないか?」ということでした。その日は金曜だったんですが、たまたまぽっかりスケジュールが空いていて、赤坂で会いました。

稲垣さんからは「実は今日はサントリーのコーチを正式にお願いしたい」とのことでした。「エーッ!?」と驚きました。サントリーが技術系コーチを日本人に頼むということは、僕にはあまり考えられないことでしたから。それまで日本のラグビーではあまりないことで、それまでのサントリーもオーストラリア人のアンディ、そしてヒリーという外国人がその役目を3年ずつ担ってきていました。

まさか自分がサントリーのコーチになれるなんて、本当にビックリしました。それで「僕はお受けしたいと思います」と答えました。そうしたら次の日の15日の土曜日、慶応から僕にサポートの依頼がきました。僕は「サントリーから話が先にあって、僕はそちらにいきたいと思います」と話しました。エディーさん(ジョーンズ/テクニカルアドバイザー)と一緒のチームをコーチできる千載一遇のチャンスでしたし、もっと勉強したかったので、「この経験は必ず将来母校に還元します」と伝えました。

エディーさんはもともと97年に僕が慶応のコーチだった時、稲垣さんに紹介してもらって、その後もよく慶応にもコーチにきてくれていました。エディさんがサントリーへくるという時には僕がサントリーへ伺って、よく勉強させてもらいました。

2000年には半月、エディーさんが監督をやっていたブランビーズ(スーパー14参加チーム)に帯同させてもらったりもしました。グレーガン(ジョージ/ワラビーズ=オーストラリア代表チーム・主将/100キャップ以上)やラーカム(ワラビーズ)がいた強かった時代のブランビーズです。同じ宿舎、同じ飛行機で移動も一緒、「何だこの日本人は?」と思われていたでしょうね(笑)。でも定期的に勉強し続けていないと、自分が空っぽ(勉強不足)になっちゃうと思うんです。

サントリーの稲垣さんが僕のところへきてくれたのは、もともと監督の洋司(永友/前監督)のリクエストがあったとのことでした。サントリーのグラウンドには何回も勉強にいっていましたし、A代表の監督をやっている時にサントリーがメンバーを出してくれたお礼にいったりとかしていたので、面識があったんです。

—— エディーさんの良さはどこにありますか?

まず理論がとてつもないところ、そして勉強する姿勢。エディーさんはサッカーのチームへいったり、世界中いろいろなところからいろいろなものを持ってくるんです。イングランドのプレミアリーグへいってみたり、フランスへいってみたり、サッカーチームのマネージングも勉強したりしています。まさに「コーチは学ぶことを辞めた時に、教えることを辞めなきゃいけない」という格言通りの人です。自分も教えるなら勉強し続けないと、と思っています。

エディーさんの学ぶ姿勢を見ていると、あぁやっていくとあんなにいろいろな引き出しができるんだな、ということを感じます。情熱もあって、グラウンドでもミーティングでも、熱を伝えている姿を目の当たりに見ていると、感じ取れるものがたくさんあります。

エディーさんは今回、僕が慶応の監督になるという話を漏れ聞いていて、「どうするんだ?」とメールがきたりしてやりとりしていました。エディーさんは「サントリーに残った方がいい」という意見でした。清宮監督に相談すると「慶応の監督は素晴らしい仕事なので、ぜひ応援したい」と言ってくれました。結局エディーさんも最後は快く賛成してくれました。

◆頑張るという気持ちに溢れていた

林雅人コーチングコーディネータ 画像8

—— サントリーの1年目の昨シーズンはどうでしたか?

自分がくる前の2年間は負けが多いチームで、自分が来た時は「雨降って地固まる」じゃないけれど、選手がとにかく頑張るという気持ちに溢れていました。弱いチームにありがちな、皆が人のせいにしているという状況下にはなくて、気持ちがしっかりしていて「とにかく僕らがやるしかない」と、自分たちにベクトルを向けてしっかりと取り組んでいました。

洋司は人間的に最高な人間で、プレーヤーとしてもあれだけの実績を残した素晴らしい選手でした。この愛すべき男の闘いを、何とかサポートしたいと思っていました。強いチームには技と情熱の両方が必要ですが、そういう意味では技、スキルの部分で、充分に闘える状況にすることができませんでした。

—— 大学や他のチームと比べて大変だなと思ったことは?

大変だったことはないですね。ミーティングをこんなにするもんなんだ、というぐらいかな。この時間の長さだけが驚きでした。長い時は、朝9時に始まって夜の12時過ぎに終わることも多々ありました。18時間以上クラブハウスにいたこともあります。

翌日の練習の準備のために、その日の練習をぜんぶビデオで見て、それもスローモーションで見たりしますから、練習を1日2回以上見ていることになります。それに対戦相手のプレビューが加わるので、とても時間がかかります。

これだけ熱心にやっているチームは、他にないでしょう。たぶん日本でいちばんだと思います。これ以上はできません。ですから選手のプレーで見過ごすことはありません。練習や試合の最中にわからなくてもビデオで見ると、きちっとこの選手がカバーに走っている、いいカバーをしている、ということがわかります。そういうことは、できるだけ選手にポロッと言うようにしています。

—— 就任1年目はよくなったシーズンでしたか?

永友監督の最初の2年間は中に入ってやっていないのでよくわかりませんが、昨シーズンはよくなる兆しを感じました。みんなの姿勢はいい状況にあったと思います。しかし戦術やスキルトレーニングとかの部分で、自分も充分サポートできなかったと感じています。本当に申し訳なかったと思っています。

◆清宮監督の新しいアプローチ

林雅人コーチングコーディネータ 画像12

—— そして清宮監督(克幸)になりました

大将が代わりましたから、新しい風が吹きますよね。と同時にジャック(タラント)を含めて10人新しい選手が入ってきて、一気に活性化されましたし、清宮監督はまったく新しいアプローチをやりました。

サントリーはエディーさんの指導もあったし、洋司も同じ系列のやり方でしたが、清宮監督は5年間早稲田でやってきて、自分なりの指導法を確立していました。感じというか系列が、今までのサントリーのやり方とは少し違っていたと思います。

早稲田の成功体験に基づく監督の考えをもとに、監督とコーチ陣で話ながら練習計画を立てました。その結果ラグビーそのものや練習の計画がそれまでとはガラッと変わりました。成績を残してきた監督なので、選手もここで何とか勝ちたいという雰囲気に自然となっていきました。

清宮監督は素晴らしく有能です。日本人では数少ない勉強熱心な人であり、いろいろなアイデアを持ち、頭もいい。選手にもすごくフレッシュだったと思いますし、自分も監督から学ぶものがあり、とても楽しかったですね。その中で僕も前のシーズンから引き継ぐものと捨てるものを絶えず考えながら、監督をサポートしてたつもりです。

いちばん最初に「いい環境を創るサポートをするつもりだし、監督が思い通りにやるべきだと思う。今までのサントリーにとらわれず、自分自身が好きなようにやったらいいと思う」と話しました。まあ、もともとサントリーの選手なので、僕よりサントリーを理解していると思っていましたが。

—— 清宮監督の新しいアプローチとは?

いちばん大きいことは2つ、技術的なところであります。1つはシークエンスラグビーという、サントリーがずっとやってきたオーストラリア型の3次攻撃まで決めてアタックするラグビーから、「サントリーノーム」という、スタンダードを決めてアタックするラグビーに変えたことです。

ここがたぶんみんなにとって、いちばん新しいところだったと思います。「キャッツアイ」という言葉で表現しましたが、選択肢がいくつもあるというやり方は、これまでのサントリーにはありませんでした。

◆オフロードラグビー

—— このアプローチをとっているチームは他にあるんですか?

他のチームは行き当たりばったりで、そうなっているところが半分ぐらい(笑)。考えてやっていないということが、ビデオで分析しているとわかります。残りの半分の殆どのチームがシークエンスラグビーをしているんじゃないでしょうか。トヨタがその香りをいちばん感じますね。こう攻めてこういこうということを、最初から決めています。

世界ではオーストラリアがシークエンスラグビー、ニュージーランドがノーム(セオリー)、僕の感覚で大きく括るとそうなります。プレーの選択に瞬間的な判断が入る、サントリーは今シーズン、スーパー14で言えばまったくの私見ですが、ブランビーズからクルセイダーズになろうとした1年だったと思います。

もう1つはこれに付随して、ラックラグビーからオフロードラグビーになったことです。接点のところで立ってボールを繋ごうというラグビーで、これもニュージーランドが得意とするところですね。東芝なんかが割とやっています。

このラグビーは誰もがしたいラグビーですが、できる条件があって、接点で絶対に勝たないといけないということです。強いチームしかできないラグビーで、ジャパンがワールドカップでオフロードラグビーをやるなんてことはできないんです。

オフロードラグビーはずいぶん前から注目されていましたが、サントリーでは2005年にエディさんと洋司と僕で話して、オフロードは自然発生に任せよう、基本的にコンタクトしたらサポートが入って、ドライビングラックで前進していくことに決めたんです。ラックラグビーは世界的には効果が薄れてきていますが、接点が弱いチームにはオフロードはできないし、1対1で勝つことの目論見ができていなければなりません。

今シーズンはいい新人が入ってきて、接点で勝てるという目算が立って、ラックラグビーよりオフロードラグビーがいいということになりました。ノームとオフロード、結果的には大分できたと思います。そして同時にチームが抱える問題も浮き彫りになりました。

最後のトヨタ戦、強いプレッシャー下になるといつも通りにプレーできる部分とできない部分があることが浮き彫りになりました。またノームラグビーとシークエンスラグビーの戦いといった様相が強い試合でしたが、この二律背反する戦術は、いずれも攻撃で前進できなければ機能しません。

シークエンスラグビーはブレイクダウンのサポートに不安はありません。十分トレーニングしていますし、ボールがどこへいくのかサポートプレーヤーが分かっています。しかし1対1を捨てる傾向にあったり、目の前のチャンスを攻めない傾向がチームに生まれる危険を内包します。

その結果アタックで前進できない可能性があります。またノーム&オフロードラグビーでは1対1で勝って前進しながらボールを繋げば、前進の脅威が相手ディフェンダーを集め有効なアタックができますが、何かの理由でそれが結果的にできなかったとき、ブレイクダウンへのサポートが遅れる危険と隣り合わせです。

この試合ではさまざまなプレーでサントリーのプレーの精度は悪く、前進の脅威をサントリーは作り出せなかったことから、ブレイクダウンもボールキャリアーが孤立する傾向だったと思います。

林雅人コーチングコーディネータ 画像11

—— 来シーズンはそこをどう修正していくのでしょうか?

監督はクレバーですから、もちろんこの辺のバランスを調整していくのではないかと思います。またもう一方で経験という大きな要素があると思います。サントリーはもっと経験を積んでいくことで、同じ武器を使ってももっと闘えるようになると思います。

バツベイ(侍/東芝)が最後にトライしたあの時間帯の攻防で、東芝はミスしていません。「根の張り方が違う」ということは、具体的には「ここという時にミスをしない」ということだと思います。サントリーはキックオフですら予定通りのところへ蹴れていません。

1年間50週練習してきて、キックが思ったところへ蹴れないんです。技術はあるけれど、いろいろなところでみんな、選択能力と遂行能力が揺らぎます。来年は今年の経験の上に更に努力を重ねていくでしょうから、もっとよくなっていくと思います。

トヨタは、ウイングの遠藤(幸佑)のコンタクトが強かったり、アイイ(オレニ)のスタンドオフとしての動きがよかったりしましたが、何より集中力が素晴らしかったと思います。サントリーも充分気持ちを入れて臨んだ試合でしたが、向こうの集中力が上回っていた印象です。

難波(英樹)1人とってみても、ライアン・ニコラスに対して、タックルでぜんぶビタ止めしていました。個々の選手がそうやって体を張って、サントリーは終始そのエネルギーに対して浮き足立っていました。いつもできることができない。

スクラムからの隆道(佐々木)のパスがワンバウンドになったり、ラインアウトでのスローイングでノットストレートがあったり、トヨタの集中力がサントリーに精神的な圧力となりました。いつもできていることができなくなる。府中と花園では相手の圧力が違ったということです。

経験を積めばいつものようにできるようになると思います。大切なことはいつもと同じようにできるために、すべての準備をするということでしょう。監督も同じ考えだと思います。

◆プレッシャーを受けた経験を積む

—— その準備とは?具体的に教えてください

林雅人コーチングコーディネータ 画像13

精神的にプレッシャーを受けた経験を積むということです。練習中に凄いプレッシャーを受けながらプレーする経験が必要でしょう。例えば本数と時間ではなく、成功の回数でプレッシャーをかけるやり方があります。

1例ですがラインアウトのアタック練習でディフェンスをつけて、10回連続で成功しなければまた0から、という練習をする。時にはミスを繰り返して2時間かけて10本目に辿り着くということがあり、いよいよ最後(10本目)だとなった時などには、緊迫感でスローワーの手が震えます。それは国立競技場での決勝戦と近い状況だといえます。

そういうプレッシャーを何度も経験すると、何万人のお客さんが入っていようが、あの2時間の練習に比べたら、まだ30分しかプレーしていない、あるいはまだ3回目のラインアウトだという時に、経験からさほど緊張せずにプレーできる可能性があります。

試合を多くしていくという方法もあります。練習を多くしていくか試合を多くしていくかは、指導者の考え方によって違ってきますが、例えば高校では夏合宿2週間で28試合やる、午前と午後に1試合ずつ毎日やるということをやっていたり、1年間で300試合するというところもあると聞きます。

試合ではなくさっき言ったように練習でプレッシャーをかける方法もあって、どちらにも一長一短があります。練習のいちばんいいところは、強化したい部分だけ抜き出せるところです。スクラムならスクラムばかりできます。試合の良さは本当の混沌とした状況にパッとなるというところです。社会人は試合ばかり組むことは難しいですから、やはりプレッシャーをかける練習をしていかないといけないと思います。

一般的には「極めて素晴らしい集中力を発揮し、勝ちたい意欲を前面に出し切った試合後、1-2週間後に再度続けて高いモチベーションで試合をすることは極めて難しい」と言われています。サントリーは東芝とのあの熱戦の2週間後にトヨタと試合をしました。東芝との試合のテンションで2週間後にも同じ試合ができるようになるには、相当な精神力が必要とされると思います。

過去のワールドカップを見ても、準決勝で気合バッチリの大番狂わせを演じ勝ったチームが、決勝で勝つことはなかなか難しいようです。敗戦の理由にする訳ではありません。ただサントリーには残念ながらそれを乗り越える力がなかったということを、終わってみて感じました。それがとても難しかったんだなあと終わってみて思いました。

しかし今回のトヨタは決勝でも素晴らしい精神力を見せて、東芝と互角に戦いました。どちらが勝っても不思議ではない試合だったと思います。トヨタは素晴らしいチームです。

◆正月を越えよう

—— さて慶応大学の新監督に決定しました

林雅人コーチングコーディネータ 画像10

ここのところ正月に試合がないんです。大学選手権でベスト4に入っていません。たぶん僕がフルタイム・コーチを辞めた後、1回もいってないと聞きました。また早稲田の連勝を慶応がストップさせなきゃいけないし、対抗戦で優勝したいと思っています。

その後の大学選手権に対して優勝というよりもまず「正月を越えよう」と思っています。正月を合宿所で迎えて2日に試合ができれば、それ以上勝てなくてもいいというのではありませんが、目標を優勝に設定しても意味がないと思っています。

創部100周年に日本一になったときも「決勝に行こう」を合い言葉にしていました。一言も優勝ということは言っていませんでした。どこの山頂に登りたいかではなく、どう登るかという登り方が大切だと思っています。対抗戦優勝、大学選手権優勝、という目標は大学生にとって当り前ですし...。

「僕らはこうやって勝つんだ」という、ラグビーのルーツ校として守っていく伝統があると思います。ルールやルール解釈が毎年変わっていく中での、変わっていくラグビーに対応した「クレバーなラグビー」をやっていきたいですし、もちろん伝統も守っていきたいです。慶応の場合、守っていくべき伝統は「魂のタックル」。これはディフェンスの部分ですが、体現できるようにしたいと思います。

僕のまったくの私見ですが、日本のラグビーと海外とのいちばんの違いは、インゴールに入ったアタッカーが、トライをするために地面にボールをグラウンディングできないというシーンがあるかないかだと思っています。トライネーションズ(ニュージーランド、豪州、南アの南半球3か国による定期戦)やスーパー14を見ていると、そんなシーンがいっぱいあります。

インゴールに相手が入ってもトライさせないあの執念のタックルが、創設100周年の年の僕の夢でした。実際に選手にもその話はしていました。もちろんインゴールでタックルする場面が無いに越したことは無いのですが。それがその100周年の大学選手権決勝で関東学院戦、27-7で勝った試合の後半10分ぐらいに起こりました。関東学院の選手がインゴールにボールを持ち込んだところ、慶応の選手2人が、1人は今サントリーにいる栗原(徹)でしたが、グーッと関東学院の選手を持ち上げてトライさせず、スクラムになりました。

あの時は感無量でした。1996年にフルタイムで慶大のコーチになって、このプレーを選手ができるようになるまで4年かかったんですから。1997年でしたが一番長いときでタックルだけの練習を1時間30分連続で行いました。今思うと僕も少し狂っていました(笑)。

それにしても決勝戦では「やっとこういうチームができた」と思いましたし、「僕が言っていたディフェンスが日本でもできるんだ」ととても嬉しかったことを覚えています。こういう練習をすれば、こういう気持ちを持てば、こうなるんだということが経験としてわかりました。今回、慶応の監督になってあの時のビデオをいちばんに見せようと思っています。「こういうディフェンスができるチームを、もう1度作りたい」そう話すつもりです。でも、もう1時間30分のタックル練習はしませんよ。僕もコーチとして成長しましたから、たぶん。

林雅人コーチングコーディネータ 画像15

◆世界でもたぶんいちばん

—— この1年間ずっと近くにいた清宮監督はどんな人ですか?

一言で言えば、冷静な人です。熱い部分ももちろんありますが、チームの中でいちばん冷静なんじゃないでしょうか。試合をスタンドで一緒に見ていて最後に負けた直後、「負けてしまいました。マットさん(雅人を略したニックネーム)の花道が飾れなくて申し訳ない」と言ってくれたほどです。他の負けた試合でも負けた直後なのに、もう次への意欲みたいなものを感じるコメントを言います。そこが凄いところだと思います。

—— 最後に去りゆくサントリーサンゴリアスへ一言お願いします

選手がすごく頑張っている中、自分がコーチとして十分なサポートができず、本当に申し訳なく思っています。しかしサントリーには必要なものはすべてあると思います。

大きくは3つあると思いますが、1つ目は人材。優勝できる選手たち、十二分ないい仲間たちがいると思います。2つ目はいい指導者。清宮監督は監督として抜群ですから、直人コーチ(中村)を始め新しいスタッフが一枚岩になって、1つのチームとして引っ張っていくと思います。そして3つ目は環境。これはもう天国みたいですよね。ゴルフ場みたいなお風呂、放っておけば洗濯物が綺麗になってロッカーに戻ってくる、そしていつも温かい食事。

何不自由なく、世界でもたぶんいちばんじゃないでしょうか。ワラビーズもオールブラックス(ニュージーランド代表チーム)も見たけれど、ぜんぜんサントリーの方がいいと思います。

後は練習するだけです。毎回、今年の悔しさを忘れずに、府中のグラウンドに立った時に、モチベーションを持って、自分に負けそうになった時に悔しさを思い出して、頑張ってください。優勝できると信じています。

そして今年特に素晴らしかったのは試合に出られない選手たちだと思います。自分の1本目へのチャレンジをしたい練習中に、東芝やトヨタのアタックをしろ、と言われて、心の中でいろいろな葛藤があったことと思います。にもかかわらず素晴らしいモチベーションで練習に取り組んでいる姿勢には、感動することも多くありました。サテライトリーグを全勝で優勝したセコムのグラウンドの風景を、僕は生涯忘れることはないと思います。チームの一体感が最高でした。

やはりサントリーのコーチとなって、多くの感動がありました。2年間通った府中グランド、富士登山、網走夏合宿、メンバーに選ばれて泣きながらコメントする選手、サテライトリーグ優勝、Bチームの頑張り、東芝戦前の緊張、トヨタに敗戦、エルとの別れ、長尾さんの1年間の写真を走馬灯のようにスライドで見ると、僕はここでみんなと1年間生きてきたんだ、と実感します。50週間という長かったはずなのに、振り返るとやっぱり一瞬みたいに感じます。

そしてまた多くの出会いがありました。心から信頼できる選手との出会い、1年間一番長く時間を一緒に過ごした愛すべきコーチングスタッフとの出会い、夜遅くまで献身的なサポートを続けるスタッフとの出会い、対戦相手の選手やスタッフとの出会い、サントリーの社員の方々との出会い、応援してくださった方々との出会い、すべては僕の人生の宝物だと思っています。

林雅人コーチングコーディネータ 画像14

(インタビュー&構成:針谷和昌)
[写真:長尾亜紀]

一覧へ