2008年3月24日
YELLOW FLAG TALK 第5回「有賀 剛×萩原 智子(水泳)」その2
萩原 智子(はぎわら ともこ)
1980年4月13日山梨県生まれ。山梨学院カレッジスポーツセンター研究員。その他、日本水泳連盟強化スタッフ、日本オリンピック委員会アスリート委員他を務める。
『岩崎さんを見てオリンピックに行きたいと思った』(萩原)
—— 有賀選手は高校でラグビーに変わりました。萩原さんは水泳を続けました。萩原さんが競技を変えなかったのは?
萩原:私には水泳しかなかったので。あとは「オリンピックに行きたい」とずっと思っていたんですよね。小学校6年生の時に中学2年生の岩崎恭子さんが、バルセロナオリンピックで金メダルを取ったんですよ。岩崎さんは凄い小柄で、私は凄い大きかったので、小6で170cmでしたからね!
—— よくバレーとかバスケットから誘われなかったですね
萩原:まったくダメです、球技(笑)。岩崎さんを見て「オリンピックへ行きたいな」と思ったんです。
—— そもそも水泳をやり始めたのは?
萩原:海で溺れたからです。海で溺れて、姉が水泳をやっていたんですが、父が私を助けてくれた時に「泳いでいるかと思った」と言ったんです。それがすっごい悔しくて(笑)、「泳げる様になってやる!」と思って。小2の時です。それからすぐにスイミングクラブに入って始めたんですよ。負けず嫌いなんですよ、やっぱり(笑)。
—— そんな萩原選手の負けず嫌いなところを、有賀選手は垣間見たことはありますか?
有賀:いゃ、俺がやっていた時はもう、「敵なし」みたいな感じでしたから。国体とかへ行くと、2番とかになってしまう時もあったんですけれど、県では本当に雲の上の存在でした。
智子さんは「水泳しかなかった」とは言っていますけれど、全国でもトップだったんですから、続けたと思うんですけれど、僕はもう、見切りをつけました(笑)。厳しいよなぁというのと同時に、ラグビーをやりたいという気持ちもあったので。
—— その頃はラグビースクールには行っていなかったんですか?
有賀:中学の頃はほとんど行っていないですね、忙しくて。
—— それまでやって来た水泳のキャリアをすべて捨てて、ラグビーにチャレンジしたんですね?水泳の方がラグビーより良かったかもしれないのに?
有賀:そうですね。でもラグビーはちょっと、センスがあるなと思ってたんですね(笑)。
萩原:えーっどんなことで?例えば?
有賀:例えばバスケットとかをやっても、やっぱり上手いと思いますもん。自分で言うのもなんですけれど、はい。
萩原:だいたい水泳選手というのは球技は絶対ダメなんですよ、ほとんどの選手が。ね、球技ダメだよね。だからそこでもう、球技のセンスがあったってことですよね。
有賀:はい、そうです。
萩原:そういう血がやっぱりあるんですよね。だから私、水泳からラグビーへ入った時に「あぁ、本当に大丈夫なのかな?」って思いましたよやっぱり、もったいないなと思いましたよ。ここまで来て、「えっ」て思いました。
有賀:でも、ラグビーはそれほど、センスが問われるスポーツでもないですから。
萩原:いゃーっ。
—— もともと何で水泳をやったんですか?
有賀:お姉ちゃん2人ともやっていた、というのもあるんですけれど、おっかあ曰く、頭を洗えなかったらしいです。
萩原:(笑)
有賀:水をかけられると恐がっちゃって、だから2歳半からやってますもん、水泳を。当時お姉ちゃんたちもやっていたから、じゃあ一緒に入れちゃおうということで、2歳半から中3までやりました。
『いい訳してる様じゃ北京へ行けない』(有賀 剛)
—— "苦手"から入ったというのは萩原さんと一緒ですね。そうやって片や水泳でオリンピックへ行き、片やラグビーがどんどん上手くなってという2人の、友情はどこで生まれたんですか?
有賀:智子さんが取材をしに来てくれて、仲良くなったんじゃないですか?大学の時も1回来てくれたし。
萩原:最初は趣味で何度か見に行ったんですよ。剛君の同級生で水泳やっている松野圭介...
有賀:いまもやっていて日本での決勝戦まで行くんすよ。前の大会も5番でしたもん。彼が同級生でずーっと仲良くて、同じクラブで水泳をやっていて、いまもまだやっているんです。
萩原:いま山梨学院クラブでやってくれているんですよ。高校から入って大学で水泳部に来てくれて、剛君の情報というのは新聞なんかからも入って来ますが、圭介から今度試合があってどうのこうのとか聞くんですよね。
有賀:「圭介、俺優勝したけれど、お前5番ってどういうことやねん?」みたいなメールを送ったんですよ。そうしたらあいつが、「うるせぇ、調子が悪かったんだよ」みたいなことを送り返して来たんですよ。「お前、言い訳している様じゃ北京へ行けないよ」ってまた送り返して。
萩原:(笑)
有賀:俺は本当、そう思うんですよ。そこで「調子が悪かった」って言ってる様だったら北京へ行けないよって。
萩原:もっと言ってあげて。何かいま、いいところにいるのよ。クロールで100m、200mという種目なんですけれど、自由形でオリンピックに出るということは、物凄く難しいんですよ。
自由形は、今まで、世界と離れ過ぎていて、昔は1か国2名で上位2番までに入れば行けたんですけれど、レベルを上げるために、水連(日本水泳連盟)は、独自に標準記録を設定して、標準記録を切れないと行かれないんです。私もアテネの時そうだったんですけれど、記録を切れなかったから優勝したけれど行けなかったんです。でもこのスタンスで記録のレベルは、グッと上がりしました。少数精鋭で戦うというやり方で、シドニー、アテネで結果を残しているんですね。
水泳は個人種目なんですけれど、大会が始まって、いい結果、悪い結果って出るじゃないですか。悪いと凄い雰囲気が悪くなったりするんですよ。その雰囲気1つで日本チームの結果が違ってきちゃったりするんですよね。応援するとかしないとか。水泳はみんなで応援するというのがあるんです。
—— 個人種目なのに伝染するんですね?
萩原:しますよ。
—— 何ででしょう?
有賀:雰囲気ですよ。
萩原:雰囲気だよね。
—— 15人のラグビーだったらわかりますが、泳いでいるのは1人ですよね
萩原:なんですけれど、やっぱり雰囲気があって、「チームの雰囲気が大事だ」とコーチも徹底的にやって、それからずっと結果を残しているんです。
『桜のジャージを着た時は嬉しかった』(萩原)
—— 友情に戻りますと、圭介君が情報をくれて、ラグビーを見に行こうと...
萩原:私が山梨放送で2回ぐらい剛君の取材をさせてもらったんですよ。関東学院へ。それで話がそれちゃいますがジンクスがあって、私が行くとダメなんですよ。ダメだよね?
有賀:そう言われたらそうかもしれないですね。
萩原:私が行くと、負けるんですよ。勝ったことないんですよ、1回も(笑)。あっ、でもこの前は勝った。ビュービュー風吹いたあの...
有賀:NEC戦(トップリーグ)。
萩原:あの時は勝ったんですよね。いいところでダメなんですよ、私が行くと。それでテレビ局の人に「ハギトモが来るとダメだね」って言われるんです(笑)。
—— この間のトップリーグの決勝戦にはいなかったんですか?
萩原:いなかったんです。水泳が同じ日だったんですよ。辰巳にいたんですが、メディアのいつもラグビーを取材に来ている人たち同士でラグビーが気になって、みんなでニュースを検索しまくっていました(笑)。
—— それで応援に行くと負けると...それは取材で?
萩原:仕事もあり、時間を見つけて、ときどき趣味でも行く時もありますよ。
有賀:時間がある時には来てくれるんですけれど、やっぱり忙しいらしくて。
萩原:やっぱりね、桜のジャージを着た時は嬉しかったですね。何かやっぱり「凄ぇ!」と思いましたよね。最初の試合ですね。
有賀:オーストラリア首相フィフティーン戦です。
萩原:嬉しかったです、すっごい。
※ 続く