
作・達磨信
瑠璃が入店すると、カウンター席はすべて埋まった。まだ早い時間なのに大盛況だ。隣の席の女性もいましがた来たばかりなのだろう。おしぼりを手にしながら「凄いね。人気だね」と気さくに九谷に声をかける。
九谷は「たまたまですよ」と答え、つづけて「こういう日もある、ってところを見せとかないと格好悪いですから。今夜はよかった」と小さな声で言って微笑んだ。独り言のように聞こえたが、瑠璃に向けての言葉だろう。
それを察した瑠璃は挨拶もそこそこに、「凄い繁盛ぶり。坂戸に伝えておきます」と応じた。
微笑みを絶やさないで「伝えなくていいですよ」と九谷は言って、瑠璃におしぼりを手渡す。そして姿勢を正すと、隣の女性に「一杯目は何になさいますか」と話しかける。すると彼女は面白いオーダーの仕方をした。
「あのさ、マスターのホワイトでさ、水割じゃなくって、ソーダ水のハイボールでもなくって、早い話、軽やかなんだけどいつもとは違うもの」
苦笑しながら「良美さん。いつもの水割で良いんじゃないですか」と言う九谷に、「ダメなの。2杯目を水割って決めてあるの。今夜の口開けはね、いつもとは違う味わいが欲しいんだな」と良美さんと呼ばれた女性が返す。
この乱暴なオーダーに九谷は平然と、「しょうがない。わかりました」と答える。つづいて瑠璃に「里原さんは何にしますか」と聞いてきた。
今夜はバーボンとライウイスキーをベースにしたカクテルを味わうつもりでいた瑠璃なのだが、良美さんのオーダーに九谷がどう応えるのか気になってしまい、おそるおそる「失礼ながら、わたしにも同じものをお願いきませんでしょうか。よろしいですか」と言ってしまった。
まず、この店に大衆ウイスキーのホワイトが置いてあることに瑠璃は驚いたのと、さらにマスターのホワイト、それに水割、というワードが気になってしまったのだ。九谷は笑いながらずっこける仕草を見せる。
「ほら、この方もわたしと同じ気持ちなのよ。今夜のいい女は、みんなそう」
良美さんははじめて瑠璃のほうへ顔を向けてニッコリと微笑んだ。秋晴れのような清々しく魅力的な笑顔だった。それが初対面の挨拶だった。
月曜日。瑠璃の休日。彼女は客としてバーカウンター席に着く。師匠である坂戸マスターおすすめのバー巡りをしているのだった。
黙ってバーテンダーと客のやり取りに耳を澄ます。とてもいい時間だし、すべてが学びにつながっている。
最近ではリピートする店がほぼ決まってしまった。最終的に行きつけの店になるかどうかは、バーテンダーとの波長が合うかどうかである。
そうは言っても、崇拝する橋上清和の跡を継いだ竹邨洋孝のカクテルは毎週でも飲んでみたい。しかしながら交際相手である粂澤勝也が竹邨のアシスタントとして修業しはじめたからなかなか顔を出しにくくなってしまった。
気に入ったのは九谷賢の店である。坂戸の接客の波長と似通っているところがあり、なんだかリラックスしてグラスを傾けている自分がいることに気付かされるのだ。
九谷の師匠はすでに他界しているが、その方は橋上マスターが最初に修業したバーの同僚であった。もしバーテンディングに流派があるとしたら同門ということになる。接客において異なっている点は、坂戸のほうが付かず離れずに徹しているところがある。九谷も一定の距離感を保っているが、接しているうちにどこか親戚のおじさん的な存在になるのだ。
ちょっとカジュアルさがあり、なんだか話したくなるような、相談したくなるような、ついこちらの脇が甘くなってしまうような人懐っこさがある。
自然と親近感が湧くキャラなのだ。九谷は坂戸より年が若い。10歳前後は差があるはずだ。九谷は瑠璃の親の世代と大きくは変わらず、生きてきた時代をなんとなく把握できる部分もある。
一方、自分の師匠、坂戸のことを客の立場として眺めたことはない。彼氏の勝也が「坂戸マスターの仕事から、バーテンダーへの憧れを抱いた」と話してくれたことがあった。質問すれば丁寧にウイスキーやカクテルを味わう楽しさを教えてくれ、またマスターに導かれながら飲みたくなるのだという。
坂戸は生徒をその気にさせる先生のような存在なのかもしれない。
目の前でつくりはじめたのはマミー・テイラーか。いやスコッチウイスキーではない。ホワイトだからウイスキー・バックと言ったほうが正解ではなかろうか。氷を入れたタンブラーにホワイトとレモンジュースを注ぎ、冷やしたジンジャーエールを満たす。
良美さんと瑠璃の手元にタンブラーを置きながら、「はい、ウイスキー・バックです」と九谷は言った。
「あっ、そう。ジン・バックならわたしも飲んだことがあるけれど、ウイスキー・バックっていうのもあるのか。そうか。またひとつ覚えたぞ」
そう言って良美さんはひと口、少しだけ啜ると、すぐにふた口目をスーッと気持ちよさそうに滑り込ませた。そしてタンブラーをゆっくりとコースターの上に置き、笑顔でサムズアップしながら「バッチグー!」と言う。
「古っ!死語ですよ。チョベリグよりも古いんじゃないか、って、まっどうでもいいか。里原さん、あなた、聞いたことないでしょう、こんな言葉」
九谷は瑠璃にそう同意を求めた。
「いや。わかります。バッチリ、グッドってことですよね」
瑠璃がそう答えると、良美さんは「ほらね。わかっていらっしゃる」と喜んで、そして「あなたもお飲みなさい。美味しいわよ」と言う。瑠璃は頷くと、ホワイトのウイスキー・バックを口中に滑らせた。
甘味と酸味のバランスがいい。果実的なテイストはレモンとジンジャーエールが溶け合って生まれるもので、そこにホワイトのスパイシーなニュアンスが潜み、程よいアルコール感を効かせながらも軽快な飲み心地である。
「九谷さん。これはバッチグーです」
瑠璃がそう言うと、九谷はまたずっこける仕草をした。
良美さんのあのオーダーにすぐさまウイスキー・バックで応えて見せた。大いに勉強になった。我が儘そうな良美さんのおかげだ。感謝しなくては。
そのとき、以前から気になっていたことを思い出した。
「ごめんなさい。話が変わるんですが、お店に活けられているお花がとても素敵です。今夜、あれはガーベラですよね。綺麗です」
瑠璃はカウンターの端に活けられた花に目を向けて言った。薄いピンクを主体に赤、オレンジ、白の花が脇を固めている。キク科の細い花弁が可憐だ。温かみのある秋の明るい日和といった朗らかさを感じて見惚れてしまう。
「お褒めの言葉をいただきありがとうございます」
九谷は仰々しく感謝の言葉を述べると、良美さんに大きく頷いてみせた。彼女も小さく2度、3度と頷き返している。
良美さんは年齢不詳だ。40代後半だろうか。いや、意外にずっと年配かもしれない。九谷よりも年上であることは、接し方でわかる。坂戸と同じ60代半ばだったりして。誰からも若々しく見られる羨ましい人であろう。ちょっとボーイッシュで、活けられたガーベラのように朗らかな光を放っている。
「実はバッチグーのお姉さまのお弟子さんが活けてくださっています」
九谷がそう言うと、良美さんが「あなたはとっても素敵なお嬢さんね。お花好きなの。嬉しいわ」と言って丁寧に頭を下げてきた。
瑠璃も頭を下げて、素直に「前から、凄く素敵だな、って」と返した。
「ありがとう。お花もバッチグーってことね」
そう言った良美さんの笑顔はとても麗しく、ウイスキー・バックのように爽やかだった。瑠璃のこころは秋晴れのような朗らかさで満たされていた。
(第55回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希