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サントリー学芸賞

受賞のことば

芸術・文学2025年受賞

細川 瑠璃(ほそかわ るり)

『フロレンスキイ論』

(水声社)

1990年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。
日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。
論文 「天動説ともうひとつのユートピア」(『ユリイカ』2023年1月号)など。

『フロレンスキイ論』

 本作は、ロシアの思想家パーヴェル・フロレンスキイ(1882-1937)の思想と生涯を一冊の本にまとめたものです。ロシア思想においては、個と全をめぐる問題が極めて大きなテーマとして横たわっています。個と全の対立、そのどちらを重んじるか、あるいは両者は調和しうるのか、全とは現世的な意味で言われうるものではなく、個と全の調和は神との交わりにおいてのみ実現するのである、しかしそんな調和は結局、権力者の誤魔化しにすぎないのではないか、等々。宗教的な議論は政治的、社会的な議論へスライドし、そうかと思えばまた宗教的領域へ戻っていく。しかしどのようなアプローチをとるにせよ、ロシアの思想家たちにとって、それは常に具体的で切実な問題でした。彼らがこの問題を扱うとき、そこには、世界というものに対する、また他者や自分自身に対する、諦念や怒り、理想、憧れ、誇り、優しさ、絶望、絶望から立ちあがろうとする意志があり、それを彼らは、西欧から輸入した学問の言葉を用いながら、なんとか哲学的体裁のもとで語ろうとしました。フロレンスキイもそうした思想家の一人で、彼の特色は、それを単に西欧哲学から借りた言葉のみならず、数学や科学、美術、神学、自身の多様な経験に基づいた言葉で語った点にあり、それはそのまま本作の特徴にもなっています。
 本作はフロレンスキイの生涯を扱った第一部と、思想を扱った第二部から成っており、第二部の中心的なアイディアは2020年に提出した博士論文がもとになっていますが、第一部と全体の方向性はそれより後に出来上がったものです。2022年、ロシアによるウクライナ侵攻と、より直接的には弟の死を通じて、私は読み書きを行うことすら困難な状態になりました。この世界で生きることの意味は、私にとって、日々具体的で差し迫った問題として立ちはだかりました。狭い部屋の中で、一人の人間のかけがえのなさを叫び続け、しかしその言葉はもうきっと彼には届かない。言葉は所詮、未来に向けてしか放てない。言葉が共通性の土台とするこの世界を、もはや愛せない。でも、ものを書くことはそういうところから始めるしかないのだろうと思います。フロレンスキイの思想の根底には、言葉の持つ力を信頼したいという意志があります。言葉は過去には届かないかもしれないが、開かれて、新たな形を結ぶことがある。本作の第一部で引用した追悼文では、フロレンスキイが敬愛した神父の死を嘆いているのですが、その悔恨の言葉の中に、フロレンスキイとその神父の生命の炎がくっきりと現れて、それが二人の生と交流の証とも、祝福ともなっています。本作もまた、これを手に取ってくださった方のもとで、新たな美しい形を得ることになれば幸いです。

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