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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史2025年受賞

鶴見 太郎(つるみ たろう)

『ユダヤ人の歴史 ─ 古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』を中心として

(中央公論新社)

1982年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。埼玉大学研究機構准教授などを経て、現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。
著書 『ロシア・シオニズムの想像力』(東京大学出版会)、『イスラエルの起源』(講談社)など。

『ユダヤ人の歴史 ─ 古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』を中心として

 いま求められている本、という決まり文句は、この本にはあてはまらない。
 著者は、時代の寵児などではない。2023年10月7日があったから彼の作品の価値が高まったのではない。『ロシア・シオニズムの想像力――ユダヤ人・帝国・パレスチナ』(東京大学出版会、2012年)や『イスラエルの起源――ロシア・ユダヤ人が作った国』(講談社、2020年)をはじめとする帝国ロシアのユダヤ人たちの歴史と思考を、社会学的センスを随所に織り込みながら丹念に追ってきた長年の研究があったからこそ、時代の急変にも対応できている。この点で、著者の研究は時代の後を追ってきたのではなく、時代の先を歩いてきたといえるかもしれない。
 本書に記されているように、イスラエルの非道はあの日に始まったわけではない。そして、ユダヤ人の歴史はホロコーストやイスラエルの建国に集約されるわけでもない。虚心坦懐にユダヤ人の歴史をできるだけ長くたどることが、もっぱらユダヤ人たちが中心となって運営されている国家の現在の背景を知るためには、どうしても必要である。3000年のユダヤ人たちの歴史をわずか300ページ強で知ることができる本書が日本語で登場したことは、それゆえ僥倖だと感じられた。
 それにしても、近現代史の専門家が古代史から中世、近世も含めてユダヤ人の歴史を書き切ったことに、もっと日本の読者は驚いてよい。歴史学が細分化するなかで、一人で通史を書いた心身の強靭さと、先達たちに各章の「査読」を依頼する謙虚さにも敬意を表したい。
 本書は、ある金曜日の深夜、アメリカのブルックリンで突然、見知らぬ正統派ユダヤ人の家の電気を消しにいった経験から始まる。安息日(シャバット)には労働(火をおこしたり、電気を消したりすることも労働なのだ)をしてはならないというユダヤ教の戒律を真面目に守っている人たちは現在も多い。
 読み進めるにつれて、カバラー、神秘主義、ハシディズム、ハスカラー、シオニズムといった基本用語だけではなく、スピノザ、モーゼス・メンデルスゾーンなどの歴史に名を残したユダヤ人思想家の背景や、ユダヤ人が金融や学問の世界に多い理由、イスラエルにチーズバーガーが売られていない宗教的理由も含め、読者の歴史把握力をじっくりと複層的に鍛えていくことも怠っていない。「今日の国際政治に囚われすぎると、ユダヤ教とイスラームは犬猿の仲であると錯覚するかもしれない。だが少なくとも宗教のあり方について、キリスト教とユダヤ教の類似性よりも、イスラームとユダヤ教の類似性のほうがはるかに高い」という記述にもみられるように、現代社会が作り上げた読者の錯覚をほどいていく叙述も多い。
 本書の終わりには、私たちが報道で最も目にするユダヤ人であろうヴォロディミル・ゼレンシキー(「ゼレンスキー」と呼ばれている元俳優のウクライナ大統領のこと)、そしてベンヤミン・ネタニヤフの人生に対する解説も読むことができるが、これは、本書に結晶化しているような地道な歴史研究があってこそ可能だと思う。

藤原 辰史(京都大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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