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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗2025年受賞

松永 智子(まつなが ともこ)

『米原昶の革命 ─ 不実な政治か貞淑なメディアか』

(創元社)

1985年生まれ。
京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。
日本学術振興会特別研究員(DC1)などを経て、現在、東京経済大学コミュニケーション学部准教授。
著書 『昭和50年代論』(共著、みずき書林)など。

『米原昶の革命 ─ 不実な政治か貞淑なメディアか』

 夏の全国高校野球の第一回大会の開幕試合で勝利したのは、鳥取中学(現在の鳥取西高校)である。はかま姿の新聞社社長による始球式の写真はあまりにも有名だが、背後に立つ投手のユニホームには「TOTTORI」の文字が刻まれている。
 屈指の伝統校である鳥取西高校には、生徒に長年歌い継がれている応援歌「祝勝の歌」がある。同僚である50代の西高OBに歌のことをたずねると、竹刀を持った応援団に叩き込まれたという歌詞がすらすらと飛び出した。
 「熱と力の高潮に/行手さえぎる猛者なく/月桂冠はかくかくと」から始まる作詞者不明とされてきたその歌が、革命に生涯を捧げた郷土の政治家であり、“メディア人間”でもあった人物の手によるものであることを、多くの人々は本書によって初めて知るだろう。
 社会や地域を少しでもよくしようとする「革命」の追求には、イデオロギー(内容)だけでなく、日常の場で語り交わされるエートス(形式)が不可欠である。地方の大富豪の御曹司の身分やエリート学生の肩書を捨てて革命家に身を投じた米原昶(いたる)とその同志たちは、弾圧時代の地下生活のなか、独自の言葉をリレーでつなぎながら運動を続けた。
 不安定であるがゆえに強固な結束でもあった言葉のネットワークの根幹にあったのは、同志の間で手渡しされる「紙」の存在である。戦前には、機関紙の存在が決して明るみに出ないよう偽装され、徹底的に暗記したうえで次の同志の手に渡った。地下生活は紙の本を扱う地域の知の拠点――書店の経営者たち――によっても秘かに支えられていた。
 戦後の合法化の時代に入っても、紙を媒介に言葉と思いをつなぐという仕組みは、党員や議員が自ら新聞を配達するという独自の動員形式によって強化されていく。新聞を手渡し、その過程で聞き、語ることで双方向のコミュニケーションが生まれる。印刷の匂い漂う紙を直に配り、また配られるという原初的な社交こそが、人と人とをリアルにつないできたのだ。
 本書は、メディアを駆使した一人の革新政治家のすぐれた評伝である。同時に、現代の政治家やマスメディア、さらにはインターネットなど、それぞれの場で日常的に飛び交う「改革」といった言葉が、なぜこれほどまでに空虚で心に響かないのかを鋭く示した一冊とも読める。革命であれ、改革であれ、必要なのは戦略でも「〇〇ファースト主義」でもなく、思いを託せる歌や紙が象徴する手応えある存在だ。歯止めなくデジタル社会・AI社会が進むなか、失われつつあるリアリティをこれから何が埋めていくのだろうか。
 著者は、一人の政治家の人生と紙媒体の果たしてきた役割を通じて戦前から戦後にかけての社会の激動を瑞々しい映像のように活写しており、社会・風俗部門の受賞にふさわしい。読者としての故・米原万里(昶の長女)との出会いをはじめ、本書誕生のきっかけとなった数々の偶然や幸運があったことを、著者はあとがきで述べている。米原万里にも匹敵する見事な表現力をもつ著者の受賞が、新たな出会いを広げていくことを心から期待したい。

玄田 有史(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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