サマーフェスティバル2017 サントリー芸術財団

ザ・プロデューサー・シリーズ 片山杜秀がひらく〈日本再発見〉

The Producer Series KATAYAMA MORIHIDE ga HIRAKU re-discover JAPAN

English

〈日本再発見〉

「ザ・プロデューサー・シリーズ」は、年毎に代わるプロデューサーが独自の視点で、現代の名曲の数々や、音楽の枠におさまりきらないステージなど、多彩でチャレンジングな内容をおとどけするシリーズとして2013年にスタートしました。本年は、幼少の頃からあらゆるジャンルの日本人の音楽に惹かれ聴き続け、驚異的な記憶と洞察により、その魅力をさまざまなメディアを通じて発信し続けている片山杜秀氏をお迎えします。錚々たる日本人音楽家の新しい演奏で、4夜にわたり、埋もれかけた日本の音楽を再発見ください。

プレイベント開催決定!

片山杜秀
片山杜秀

プロフィール

9/3(日)再発見“戦前日本のモダニズム” −忘れられた作曲家、大澤壽人−

15:00[開場14:30] 大ホール

座席表PDF(0.6MB)

大澤壽人(1906-53):コントラバス協奏曲**(1934)世界初演

大澤壽人:ピアノ協奏曲 第3番 神風協奏曲*(1936-38)

大澤壽人:交響曲 第1番(1934)世界初演

  • 指揮=山田和樹
  • ピアノ=福間洸太朗*
  • コントラバス=佐野央子**
  • 管弦楽=日本フィルハーモニー交響楽団
  • 大澤壽人
  • 山田和樹
  • 福間洸太朗
  • 佐野央子
  • 日本フィルハーモニー交響楽団

入場料:
[指定席]S席 4,000円/A席 3,000円/B席 2,000円/学生席 1,000円

セット券

「片山杜秀がひらく」大ホール2公演セット券[9/3(S席)、9/10(S席)]
6,000円〈限定100セット〉販売中
「片山杜秀がひらく」4公演セット券[9/3(S席)、9/4、9/6、9/10(S席)]
10,000円〈限定 50セット〉※予定枚数終了

東京コンサーツ(Web/電話 03-3200-9755)のみ取り扱い。(5月18日発売)

  • ※サントリーホール休館中は、サントリーホールチケットセンターの営業日が変わります。
    休館中の営業時間:月~金10:00~18:00(土日祝は休業)
    チケット窓口は8月31日まで休業させていただきます。
  • ※先行発売および一般発売のインターネットでのチケット購入にはサントリーホール・メンバーズ・クラブへの事前加入が必要です。(会費無料・WEB会員は即日入会可)
    サントリーホール・メンバーズ・クラブについてはこちら(PDF:4.17MB)
  • ※学生席はサントリーホールチケットセンター(電話・WEB)のみ取り扱い。
    25歳以下、来場時に学生証要提示、お1人様1枚限りです。
  • ※就学前のお子様の同伴・入場はご遠慮ください。
  • ※出演者・曲目は予告なしに変更になる場合があります。

9/4(月)再発見“戦後日本と雅楽” −みやびな武満、あらぶる黛−

19:00[開場18:30] ブルーローズ(小ホール)

武満 徹(1930-96):秋庭歌一具(1979)

黛 敏郎(1929-97):昭和天平楽*(1970)

  • 出演=伶楽舎
  • 指揮=伊左治 直*
  • 伶楽舎
  • 伊左治 直
  • 武満 徹
  • 黛 敏郎

入場料:
[自由席]一般 3,000円/学生 1,000円

セット券

「片山杜秀がひらく」4公演セット券[9/3(S席)、9/4、9/6、9/10(S席)]
10,000円〈限定 50セット〉※予定枚数終了

東京コンサーツ(Web/電話 03-3200-9755)のみ取り扱い。(5月18日発売)

  • ※本公演は座席配置が通常の仕様とは異なります。
  • ※サントリーホール休館中は、サントリーホールチケットセンターの営業日が変わります。
    休館中の営業時間:月~金10:00~18:00(土日祝は休業)
    チケット窓口は8月31日まで休業させていただきます。
  • ※先行発売および一般発売のインターネットでのチケット購入にはサントリーホール・メンバーズ・クラブへの事前加入が必要です。(会費無料・WEB会員は即日入会可)
    サントリーホール・メンバーズ・クラブについてはこちら(PDF:4.17MB)
  • ※学生席はサントリーホールチケットセンター(電話・WEB)のみ取り扱い。
    25歳以下、来場時に学生証要提示、お1人様1枚限りです。
  • ※就学前のお子様の同伴・入場はご遠慮ください。
  • ※出演者・曲目は予告なしに変更になる場合があります。

9/6(水)再発見“戦後日本のアジア主義” −はやたつ芥川、まろかる松村−

19:00[開場18:30] ブルーローズ(小ホール)

芥川也寸志(1925-89):ラ・ダンス***(1948)

松村禎三(1929-2007):ギリシャによせる2つの子守歌***(1969)

松村禎三:弦楽四重奏とピアノのための音楽***(1962)

松村禎三:肖像*(2006)

芥川也寸志:弦楽のための音楽 第1番**(1962)

松村禎三:弦楽のためのプネウマ**(1987)

芥川也寸志:弦楽のための三楽章**(トリプティーク)(1953)

  • 指揮=伊藤 翔**
  • チェロ=堤 剛*
  • ピアノ=土田英介*、泊 真美子***
  • 弦楽アンサンブル**
  • ヴァイオリン=白井 圭、須山暢大、竹内 愛、前田奈緒、町田 匡、柳田茄那子、湯本亜美
  • ヴィオラ=安達真理、田原綾子
  • チェロ=門脇大樹、山澤 慧
  • コントラバス=岡本 潤
  • 伊藤 翔
  • 堤 剛
  • 土田英介
  • 泊 真美子
  • 白井 圭
  • 須山暢大
  • 竹内 愛
  • 前田奈緒
  • 町田 匡
  • 柳田茄那子
  • 湯本亜美
  • 安達真理
  • 田原綾子
  • 門脇大樹
  • 山澤 慧
  • 岡本 潤
  • 芥川也寸志
  • 松村禎三

入場料:
[自由席]一般 3,000円/学生 1,000円

セット券

「片山杜秀がひらく」4公演セット券[9/3(S席)、9/4、9/6、9/10(S席)]
10,000円〈限定 50セット〉※予定枚数終了

東京コンサーツ(Web/電話 03-3200-9755)のみ取り扱い。(5月18日発売)

  • ※サントリーホール休館中は、サントリーホールチケットセンターの営業日が変わります。
    休館中の営業時間:月~金10:00~18:00(土日祝は休業)
    チケット窓口は8月31日まで休業させていただきます。
  • ※先行発売および一般発売のインターネットでのチケット購入にはサントリーホール・メンバーズ・クラブへの事前加入が必要です。(会費無料・WEB会員は即日入会可)
    サントリーホール・メンバーズ・クラブについてはこちら(PDF:4.17MB)
  • ※学生席はサントリーホールチケットセンター(電話・WEB)のみ取り扱い。
    25歳以下、来場時に学生証要提示、お1人様1枚限りです。
  • ※就学前のお子様の同伴・入場はご遠慮ください。
  • ※出演者・曲目は予告なしに変更になる場合があります。

9/10(日)再発見“戦中日本のリアリズム” −アジア主義・日本主義・機械主義−

15:00[開場14:30] 大ホール

座席表PDF(0.6MB)

尾高尚忠(1911-51):交響的幻想曲《草原》Op.19(1943)

山田一雄(1912-91):おほむたから(大みたから)Op. 20(1944)

伊福部 昭(1914-2006):ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲*(1941)

諸井三郎(1903-77):交響曲第3番(1944)

  • 指揮=下野竜也
  • ピアノ=小山実稚恵*
  • 管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団
  • 下野竜也
  • 小山実稚恵
  • 東京フィルハーモニー交響楽団
  • 尾高尚忠
  • 山田一雄
  • 伊福部 昭
  • 諸井三郎

入場料:
[指定席]S席 4,000円/A席 3,000円/B席 2,000円/学生席 1,000円

セット券

「片山杜秀がひらく」大ホール2公演セット券[9/3(S席)、9/10(S席)]
6,000円〈限定100セット〉販売中
「片山杜秀がひらく」4公演セット券[9/3(S席)、9/4、9/6、9/10(S席)]
10,000円〈限定 50セット〉※予定枚数終了

東京コンサーツ(Web/電話 03-3200-9755)のみ取り扱い。(5月18日発売)

  • ※サントリーホール休館中は、サントリーホールチケットセンターの営業日が変わります。
    休館中の営業時間:月~金10:00~18:00(土日祝は休業)
    チケット窓口は8月31日まで休業させていただきます。
  • ※先行発売および一般発売のインターネットでのチケット購入にはサントリーホール・メンバーズ・クラブへの事前加入が必要です。(会費無料・WEB会員は即日入会可)
    サントリーホール・メンバーズ・クラブについてはこちら(PDF:4.17MB)
  • ※学生席はサントリーホールチケットセンター(電話・WEB)のみ取り扱い。
    25歳以下、来場時に学生証要提示、お1人様1枚限りです。
  • ※就学前のお子様の同伴・入場はご遠慮ください。
  • ※出演者・曲目は予告なしに変更になる場合があります。

プロデューサーに聞く

片山杜秀が語る企画コンセプト

片山杜秀

――まず、全体のテーマ「日本再発見」について。テーマにこめたメッセージからお願いいたします。

来年の2018年が明治維新から150年でしょう。その前のペリーの黒船来航の頃から日本には西洋音楽が入ってきて、ずっと今につながっています。もちろん徳川初期に鎖国する前にも入っていたのですが。とにかく、音楽文化の歴史としてすでにたいへんな蓄積がある。演奏も作曲も研究や評論も誇るべきものがあると思います。でも、特に作曲の歴史は相応の評価を受けていないのではないかという気がしてならないのですね。西洋音楽の本場はどこまでも西洋ですから、日本の演奏家も評論家も聴衆も、西洋の名曲や新しい動向と対決し耳を傾け消化しようとしているだけで人生はすぎてゆく。そして「いや、それだけではいけない、日本のオリジナルなものを!」と思うと能や歌舞伎に反転してしまう。日本の作曲家の作った西洋音楽はどこまで行っても鬼子扱いみたいなところがあります。

そうなる事情は、もう40年以上音楽ファンをやってきて、よく分かっているつもりなのです。しかし、それでいいとは思えないのですね。たとえば日本で行われるクラシックの音楽祭がもっと日本の作曲家を取り上げて良いのではないか。しかも、長い歴史が既にあるのだから、山田耕筰や伊福部昭や武満徹のような特定の作曲家を単体で取り出すのではなく、歴史的脈絡をつけて聴いてみる機会がもっともっとあっていい。欧米の音楽祭だとそういう視点のものがたくさんあるではないですか。フランスならドビュッシーからメシアンを経てブーレーズ以降へ、旧ソ連ならショスタコーヴィチがいてヴァインベルクがいてシュニトケがいて……。そういう描き方をして自分の国の音楽史をイメージするのが当たり前でしょう。音楽鑑賞の楽しみ方の大きなポイントですよね。

歴史的脈略をつけて聴いてみる

むろん一国だけの音楽史は限界にぶつかります。国境を越えた影響関係が大きいですから。ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフの続きでもありますが、ドビュッシーの続きでもある。特に日本のクラシック音楽はそういうところが大きい。たとえば武満徹を早坂文雄とのつながりだけから、黛敏郎を伊福部昭や橋本國彦のつながりだけから説明するのはいかにも無理でしょう。メシアンやヴァレーズやウェーベルンがいないとおかしなことになる。でも日本には日本なりの国内の作曲家の系譜学、その脈絡もやっぱりあるし、そういう聴き方をして、それぞれの時代の達成をもっと積極的に楽しむということがあっていいとは思うのです。子供の頃は誰かが自ずとそういう世の中にしてくれると信じていたのですが、なかなかそうならないので、機会があれば自分でこんなことを言うようになってしまって。

もとをただせば幼い頃から映画が好きだったのですね。幼稚園から楽器も習っていましたが、クラシック音楽はそれでかえって嫌いになってしまって。映画音楽だとたくさんいいのがあるのに。じゃあ、その映画音楽を作っているのは誰かと作曲家の名前を気に掛けるようになると、伊福部昭や芥川也寸志や黛敏郎や武満徹であり、NHKの大河ドラマで「なんて良い曲なんだろう」と思うのは林光だったり湯浅譲二だったりと分かりました。この人たちは何者なのか。映画やテレビの音楽専業の作曲家なのか。いや、日本人にもクラシック音楽の作曲家がいて、映画やテレビの音楽も作っているのだと。そうだったのかと驚きまして、小学校6年、中学1年と進む頃には、ラジオ番組の録音に励み、コンサートの情報を探して聴きに行くようになりました。映画音楽の趣味の延長線上に、嫌いと思っていたクラシック音楽も再発見したわけです。黛敏郎の《涅槃交響曲》や松村禎三の《前奏曲》のLPレコードを買ってきて、まじめな顔をして家で聴いていたりもする。親が心配してしまって。へんな音楽ばかり聴いておかしくなったのではないかと。

「日本の交響作品展」との巡り会い

その頃、巡り会ったのが、芥川也寸志指揮するアマチュア・オーケストラの新交響楽団の「日本の交響作品展」なんです。1976年に開かれた二晩の演奏会で、戦前・戦中の曲ばかり10人10曲やりまして、心底感激しました。日本にはこんなにたくさん昔からいい曲があったのかと。当時の私の耳には伊福部と早坂文雄と箕作秋吉と清瀬保二がとりわけよかった。この企画で芥川と新響はその年の鳥井音楽賞(現サントリー音楽賞)を貰いまして、受賞記念で山本直純の司会するテレビ番組『オーケストラがやってきた』にも出て、そこで伊福部昭の《交響譚詩》が演奏されて、これはほんとうにいい曲だなあと。その頃、芥川也寸志が「私たちは日本の上の世代の仕事に対してあまりに冷たかったのではないか」といった趣旨の発言を繰り返して、演奏会プログラムにも載っていたと思いますが、そうだ、そうだと凄まじく共感してしまって。私の音楽ファンとしての価値観がひとつそこで出来てしまったのです。

そのあと、秋山邦晴さんや富樫康さん、あるいは柴田南雄さんや武田明倫さん、あと木村重雄さん等々の批評にも導かれながら、日本の作曲家の作品の渉猟に努めて、もちろん単に数から言えば外国の音楽の方をはるかに多く聴いてきたのですが、日本の作曲家が興味の根幹ということはずっと変わらないですね。ついに自分でも20代からですか、音楽批評も致すようになってしまいました。

そういうときにいつも思いましたのは、現役の作曲家は自助努力でがんばれるけれども、亡くなってしまうと一部の例外を除いて忘れられる一方で。歴史がつながらない。この忘却に私は我慢がならないのですよ。「今現在」で飽和してしまう状況を少しでも補正してゆくことができないか。生意気ですが、そこをひとつの職責にしようと。音楽批評家としての私なりの自己規定なのですが。

新交響楽団の「日本の交響作品展’96」の企画に協力させていただいて、橋本國彦の《交響曲第1番》や諸井三郎の《交響曲第3番》や早坂文雄の《ピアノ協奏曲》が演奏されたときには、もう21年も前ですが、たいへんな感慨がありました。神奈川県立音楽堂には、橋本國彦没後50年のコンサートとか、アレクサンドル・チェレプニンと弟子筋の江文也や伊福部昭や松平頼則を並べてやる「チェレプニン楽派再考」のマラソン・コンサートとか、黛敏郎の追悼演奏会とかをやらせてもらいました。キング・レコードの「伊福部昭の芸術」やナクソス・レーベルの「日本作曲家選輯」のシリーズ、最近だとコロムビア・レコードのTBSのアーカイヴスから山田耕筰から湯山昭までの音源を集める組み物など、CD作りにはたくさん携われたし、あとNHKのその種の昔の音源を再放送する仕事に近頃は生き甲斐を感じていますね。音楽評論家としては、ミヨーの回顧録の題名ではないけれど、それなりに幸福にやらせていただいてきたと、近年は年のせいかあまりに懐古的になりすぎているところもあるけれど、とにかく多くの方にほんとうに感謝しています。

けれど、やはり私ごときは所詮あまりに無力と言いますか、東京の有名どころのオーケストラの定期演奏会のプログラムなど見ましても、日本の作曲家はたまに見かける程度だし、40年前の芥川也寸志の「冷たすぎるのではないか」という台詞が今もそのまま使える状況と言えば状況で、ならば今回、機会を頂いたからには、いや、実はミヨーの《コロンブス》とかマデルナとかアルド・クレメンティとかフェルドマンとかシチェドリンとかボリス・チャイコフスキーとか、いろんな西洋人の名前も頭をよぎったのですが、やはり僭越ですけれども芥川さんの衣鉢を継ぐつもりで「遡って日本の曲を聴いて歴史のたすきをつなげよう」みたいなところで腰が据わりました。

――ザ・プロデューサー・シリーズのタイトルは「片山杜秀がひらく」。今回片山さんが「ひらく」ものとは? またひらいた先になにを見たい、見てほしいと思われていますか?

戦前・戦中・戦後の「日本の近現代音楽史」はやはり私には宝の山と思えるもので、その蔵を開きたいということですね。かといって全部の蔵はいっぺんには開けないので、少し開いてご披露します、というところでして。

そして、その種の財産が日本の演奏家のレパートリーとしてもっと根付き、音楽ファンが普通に聴く曲の中にもっと座を占められたらというのが、先の願いとなりましょうか。例えばパーヴォ・ヤルヴィがエストニアの作品を、ラン・ランが中国の作品を来日公演でも当然のように取り上げるでしょう。そんな具合に、もっと普通に内外でいろんな時代の日本の曲がしょっちゅうやられるようになるのが夢ですね。

――山田和樹氏、下野竜也氏をはじめ、人気、実力とも第一線の演奏家陣がそろいました。

この種のレパートリーを親身に振ってくれる人は、かつてなら山田一雄や芥川也寸志など、やはりそんなに大勢はいなかったんですね。大澤壽人の作品に至っては、戦前はともかくとして、戦後には在京のブロ・オーケストラがコンサートで取り上げることはまったくなかったのではないですか。その意味で、指揮者、ソリスト、演奏団体、何から何まで作品の真価を引き出してくださるに違いないタレント揃いになったことは、もう本当に夢のような出来事です。楽しみでなりません。

――では個々の公演についてうかがっていきます。聴きどころについては動画メッセージ(動画はこちら→「作品の聴きどころムービー」)でも語ってくださっていますので、ここではコンセプト中心にお話しください。

※下記の見出しをクリックすると本文が表示されます

1.再発見 “戦前日本のモダニズム”
 −忘れられた作曲家、大澤壽人− 9/3(日)

大澤壽人は、戦前日本のモダニズムを代表させるべき作曲家です。新ウィーン楽派、バルトーク、フランス六人組、それからチェレプニンやタンスマンなんかのパリ楽派、ハーバの4分音音楽、あとガーシュウィンのシンフォニック・ジャズの路線。そういうところと切り結んで、日本の音の趣味も入れて、30歳前後の数年間、留学先のボストンとパリ、そして帰国直後の時期までに驚きの作品群を作り上げました。

ところが同時代の日本ではじゅうぶん理解されなかったのですね。大澤は、神戸製鋼の創業にも加わった技術者兼企業家の息子として神戸で西洋文化を満喫しつつ青少年期を過ごし、ボストンではコンヴァースに習い、セッションズと知り合い、シェーンベルクの教室にも出て、ボストン交響楽団で自作自演もしました。それからロンドンに行って指揮者のボールトに将来、自作を取り上げてもらう約束をし、パリではナディア・ブーランジェとポール・デュカスに学び、コンセール・パドゥルー管弦楽団を指揮して自作自演の大演奏会を開き、オネゲルやイベールやグレチャニノフが称賛するほどの成功を収めて帰国します。ところがボストンやパリで受け入れられた大澤の作品は技術的にも内容的にも昭和10年代の日本のオーケストラや聴衆にはハードルが高かったのでしょう。同時代的に「大澤ってけっこうやるぞ」という感想を抱いたらしい人は、私の知る限りでは菅原明朗と深井史郎と伊福部昭くらいのようでして。伊福部さんに大澤の話を振ったら、「東京で会ったけれど、なかなかの人で」とおっしゃっていましたが。

それで大澤は、日本でも受け入れられやすいはずのもう少し折衷的な音楽を模索してゆきます。というかご本人にそういう志向ももともと強くあったと思うのです。ガーシュウィンがスターの時代のアメリカにずっと居たのですから。たとえば今回演奏されるものだと《ピアノ協奏曲第3番 神風協奏曲》、これは朝日新聞社所有の民間航空機「神風号」が東京―ロンドン間の最速飛行時間記録を打ち立てた記念として、飛行機の速度を讃美した、プロコフィエフやガーシュウィンやタンスマンやオネゲルのようでもあるモダンで格好の良い、通俗性もじゅうぶんなコンチェルトなんですね。クルト・ヴァイルやマルティヌーやマルケヴィチやオルンステインやアンタイルなどが一種の「飛行機音楽」を書いていましたが、その路線上にもとらえられるものです。

でも、大澤としてはかなり妥協したつもりでも世間の評価は相変わらず芳しくならない。なんか先走ったことをしているやつだと。そこで本当は欧米にまた行きたかったけれど、戦争でしょう。もうパリに戻れる時代ではない。ボールトとの約束も、もう一回、ロンドンに行くのが前提ですから。戦争で仕掛けが崩れてしまった。それで日本国内で放送や映画や宝塚歌劇の作曲家に転身していって、戦中と戦後の混乱期を過ごし、多忙を極め続けているうちに、47歳で脳溢血のため急逝。日本の楽壇での人脈が弱かったことも災いして、その後、大澤の業績はほとんど忘れ去られてしまいました。レコード録音も楽譜の出版もあまりなかったので、映画音楽を除いたら作品について知ることのほぼできない時期が約半世紀も続いたのです。結局、2000年に私と神戸新聞の藤本賢市記者が神戸の旧宅の蔵開けをさせていただくまで、大澤のほぼすべての手稿譜は埋もれたままだったのです。

今回は、若き大澤壽人の野心作、ボストン時代の総決算の超大作で、作曲家の生前、ついに演奏機会を得られなかった《交響曲第1番》、およびボストン響の指揮者で元はコントラバス奏者であったセルゲイ・クーセヴィツキーに捧げたのに弾いて貰えないまま埋もれた《コントラバス協奏曲》の、なんとなんと世界初演を含むコンサートにさせていただきました。ぜひ「大澤壽人再発見」を体験していただきたく存じます。

2.再発見 “戦中日本のリアリズム”
 −アジア主義・日本主義・機械主義− 9/10(日)

第二次世界大戦期を含むスターリン時代のソ連の音楽が、私は妙に好きなのです。スターリンは好きじゃないし、その時代に生きたいとは思いません。が、その時代の芸術のアウトプットには惹かれてしまう。プロコフィエフだと交響曲第5番やオペラ《戦争と平和》に《セミョーン・カトコ》、そして音楽物語《ピーターとおおかみ》、ショスタコーヴィチだと交響曲第7番や第8番、ハチャトゥリアンなら交響曲第2番やバレエ音楽《ガイーヌ》、カバレフスキーですと《道化師》やピアノ協奏曲第3番ですね。ソ連共産党が民衆に広く分かりやすくしかもポジティヴでロシアの伝統や歴史にも目配りした音楽を推奨して、そこに戦争で愛国的気分が加わって、いわゆる「社会主義リアリズム」の美学と愛国主義が結合し、たくさんの音楽が生まれていった。作曲家にとっては作りたいものを素直に作って反時代的・現実遊離的と非難されると命に関わるから、自らの美意識と時局の要求をギリギリのところで折り合わせながら、もしかすると本気にやるのとは違うものを作る。でも、それで時局迎合の駄作が生まれるかというと、作曲家のタレントにもよりますが、プロコフィエフでもショスタコーヴィチでもハチャトゥリアンでも、今日なお彼らの作品として最も親しまれ重要とされる類のかなりが、この時期に生まれているのは否めない事実だと思うのです。

戦時期の日本では、国家がスターリン時代のソ連のように具体的な音楽文化の方向を示して作曲家たちの作風や様式を規定したということはないと思います。しかし、作曲家たちが時代の政治的・社会的欲求を斟酌し忖度しながら、そこを自らの表現と折り合わせて、特に戦争の後半になると作曲家たちもこの戦争で死ぬのではないかという実感にとらわれていきますから、「遺言」のような「白鳥の歌」のようなものも作り出して、ソ連と比較したくなるような状況が生まれていたとも思われるのですね。戦中とは、傑作問題作が特にオーケストラ音楽の分野で集中している、日本の近代音楽史のひとつの大きな収穫期であったと、私は思っているのです。正確に言うと「皇紀2600年」の1940年の少し前から1945年までがたいへん重要と思います。そこで、その時期の作品に集中してプログラムを構成してみたのです。

では曲目の各々について作曲年代順に少し触れさせていただきます。刻々と戦局が変わるなかで、この4曲によって、戦中の日本人が味わった気持ちの揺れを感じていただけるのではないかとも思います。

伊福部昭の《ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲》(1941年完成/1942年初演)は、日本の5音音階にこだわっての民族主義的姿勢と機械主義的な未来派風の音響とがミックスされたエネルギッシュな作品です。終楽章ではピアノのクラスターが頻用されます。機械主義とか未来派というのはやはり戦争の時代で飛行機や戦車や戦艦が行き来するイメージと無縁とはいえない音楽なんですね。メード・イン・ジャパンの近代工業製品の音楽となったら日本主義+機械主義になるでしょう。本当にそういう音楽になっております。作曲者は、東京空襲で東京フィルハーモニー交響楽団(当時は東京交響楽団と名乗っていましたが)に預けていたスコアもパート譜も焼けたと信じて、残っていたスケッチをもとに戦後に《シンフォニア・タプカーラ》と《リトミカ・オスティナータ》という2つの代表作をこの曲から発展させるかたちで作り上げたのですが、1990年代になってNHKの資料室からパート譜が発見され、スコアが復元されて、舘野泉さんと日本フィルハーモニー交響楽団によりCD録音されました。それが復活演奏で、その直後に札幌で札幌交響楽団が取り上げています。東京でプロのオーケストラがこの曲をステージで演奏するのは、今回が戦後初めてと思います。

初演は日米開戦から3ヶ月後の1942年3月に日比谷公会堂でマンフレート・グルリットの指揮する今日の東京フィルハーモニー交響楽団により行われました。東フィルは今回、74年ぶりにこの曲を演奏してくれるのですが、とにかくその日は日本軍がアラスカとマダガスカルで戦果をあげたという報道のなされた日で、日比谷公会堂の楽屋で伊福部さんは「早坂(文雄)君と日本もやるものだねと昂揚してしまっていた」のだそうで、その時代の「いかれた気分」がやはり曲にあらわれていると思わざるをえないと、少し困ったように話してくださったことを印象深く記憶しております。でも緩徐な第2楽章では素直な地が出てしまったともおっしゃっていました。これはもう本当に寂しい音楽ですよ。

尾高尚忠の交響的幻想曲《草原》(1943年初演)は、アジアの遊牧民族が大草原から朝鮮半島を通って日本列島に至るという、戦後の騎馬民族渡来説を先取りするイメージで作曲された作品なのだと、尾高さんの弟子の林光さんから伺いました。尾高尚忠はウィーンに長く留学していましたが、そのときウィーン大学の日本学研究所にいた人類学者の岡正雄からこのアイデアを学んだというのです。ウィーンでワインガルトナーとヨゼフ・マルクスにみっちりと仕込まれ、R.シュトラウスやラヴェルに影響された尾高の美意識と職人芸が、時局の要請と融合するとこういう音楽になるのですね。早坂文雄の《左方の舞と右方の舞》や深井史郎の《ジャワの唄声》や江文也の《孔子廟の音楽》などと並ぶ、アジア主義的というか、語弊があるかもしれませんが「大東亜共栄圏幻想音楽」のひとつに数えられると思います。今回が戦後初の復活演奏になるかと思います。

山田一雄の《おほむたから(大みたから)》(1944年完成/1945年1月1日初演)は、真に凄絶な音楽だと思います。山田一雄はマーラーの孫弟子なのです。師匠となるクラウス・プリングスハイム、この人はマーラーの愛弟子で1920年代にベルリン・フィルを指揮してマーラーの交響曲連続演奏会を開いていた大物ですが、彼が上野の東京音楽学校に招かれて学校のオーケストラでマーラーの交響曲第5番を指揮したのに音楽学生時代の山田は圧倒され、マーラーに惚れ込んで作曲の方向を定めたのです。
《おほむたから》は山田の遺書ですよ。この戦争で死んでも、マーラーに惚れた日本の音楽家が確かにいたのだと、どうしても遺したかった曲でしょう。何しろマーラーの第5番の第1楽章「葬送行進曲」の本歌取りで全体ができております。伊福部や尾高の作品とはうってかわって、戦争末期の日本人の追い詰められた心情が濃厚に感じられます。しかもとても日本的な葬送行進曲ですね。だってマーラーの土台の上に乗っているのは天台声明の旋律なのです。お経ですよ。お経と言えばお葬式という連想も働くでしょう。この戦争で既に死んでいった膨大な同胞に捧げられたレクイエムであると同時に「一億玉砕」するかもしれない1945年の日本人たちに捧げられた悲愴美・悽愴美を探求した音楽でもありますね。人によっては反戦的なメッセージを受け取るかもしれません。
「おほむたから」とは「おおみたから」と同義で、「おほむ」とか「おおみ」というのは「大御」で「天皇の」の意。「たから」というのは田の輩で、つまり農民。そこから転じて公地公民制の古代における「天皇の民」、つまり日本国民というか日本人民というか、そういう意味になると思います。藤田嗣治の「戦争画」、特にサイパン島玉砕のあの悽愴美の限りを尽くした絵に音楽史で対応し比肩するものだと思っています。

諸井三郎の《交響曲第3番》(1944年完成/1950年初演)は戦争末期に生まれた傑作です。諸井という芸術家のこの世への告別の歌のようでも、またひとつの帝国の黄昏に捧げられた音楽のようでもあります。重圧感に満ちて足を引きずるように始まり、英雄的に高まりもしますが、悲愴さと酷薄な調子に押し潰され、悲哀と慰藉の歌が鳴り響き、母性的なものに包まれて終わります。
全体は3楽章ですが、それは戦争中の諸井が追求していた「日本的交響曲」のかたちを示しています。第1楽章は序奏つきのソナタ・アレグロのようですが、ソナタ風のところはよく聴くとヨーロッパの伝統のソナタ形式から遠ざかっています。短い動機が次々と現れて、第1主題や第2主題や第3主題や第4主題のようにも思えるのですが、それらは対比的ないし対立的に働くのではなく、多元的にとりとめなく動き回り、やがて突然数珠つなぎになって、たくさんの別個の動機に見えたものが1本の長いメロディに化けてしまうのです。諸井門下の柴田南雄の、恐らく師匠の意をふまえたアナリーゼに従えば、そのつながった一本こそがこの楽章の唯一の主題である、ということになります。
これは、戦時期の日本思想のキイワードのひとつ、「多即一、一即多」と明らかに関係があります。個は自由であるが、全体としては相和する。バラバラにみえるものが一体化する。個と全体が融通無礙に離合集散する。バラバラなものは、一般的なソナタ形式の第1主題や第2主題のように別物として対比されるのではない。専制か民主か、資本主義か社会主義か。そういう二項対立、多項対立に走るのが西洋思想である。一方、対立や葛藤を生まないのが東洋思想であり日本の道だ。別物に見えるものが実は一体で、一体に見えるものが実は別物だ。この融通無礙に日本の神秘、日本の独自性があるという議論です。五族協和とか翼賛とかいう概念はみんなこれです。当時の日本では、哲学から経済学まで、この理屈で通すのが流行でした。芸術音楽にこの理屈を適用しようとし、なおかつ音楽的達成を産み出した作曲家として諸井三郎を考えるというのが、私の立場です。  第2楽章は「戦争スケルツォ」ですが、5拍子の5拍めにアクセントを置くところに日本的リズムの探求があります。終楽章になる第3楽章は大スケールのアダージョです。柔らかく包むように終わる。西洋が力ずくで父性的なら、東洋は愛で包むように母性的で、交響曲のフィナーレも、日本の交響曲は優しく泣けてくるのがいい。勝利の讃歌のような第4楽章は要らない。諸井が戦時期に到達した交響曲のかたちだと思います。
ドイツのチェンバロ奏者、音楽学者で戦中を東京で過ごしプリングスハイムとバッハを演奏したりしていたエタ・ハーリッヒ=シュナイダーは、諸井と付き合いがあって、初演前にスコアを見せられて、これはもう世界的名曲だと評しました。響きの面から言うと、フランクやブルックナーやヒンデミットに近いでしょう。母なるものに包まれるかのように結ばれる終楽章のおしまいにはオルガンも鳴り響きます。その点でもサントリーホールでやるのにうってつけと思います。
この交響曲は戦争中には演奏機会を得られず、戦後早くに山田一雄指揮する今のNHK交響楽団によって日比谷公会堂で初演されました。そのあとずっとやられず、次の演奏機会は1978年の諸井の追悼演奏会。東京文化会館で同じく山田指揮の東京都交響楽団でした。私はその日のことはとてもよく覚えています。ということで、プロのオーケストラがコンサートで取り上げるのは、今回が39年ぶり3度目ではないでしょうか。

3.再発見 “戦後日本と雅楽”
 −みやびな武満、あらぶる黛− 9/4(月)

大ホールが戦前と戦中。その続きはもちろん戦後ですね。ブルーローズでの2公演は戦後篇です。まず9月4日の公演では武満徹黛敏郎の雅楽のための大曲を並べてお聴きいただきます。

戦後の日本の作曲はたくさんの才能に恵まれましたが、その中で2つの綺羅星をまず探すとすると、武満徹と黛敏郎だと思うのです。これは私の勝手な意見ではなく、吉田秀和さんでもそういうお立場だったでしょうし、ごく一般的な見解かと思います。このふたりは、日本の作曲史の文脈でいうと、武満はドビュッシー好きの早坂文雄、黛はストラヴィンスキー好きの伊福部昭の続きに来る人で、音楽の性質からして極めて対照的です。しかもフィールドがよく重なる。やる順番は黛が先で、武満が後を追って、そこで武満は黛のやったことの裏返しをやるのです。
雅楽もそうでした。国立劇場の委嘱を受けて作曲したのは黛が先です。《昭和天平楽》は、平安時代にみやびやかに変容して完成して今に残る雅楽の、その前の奈良時代の今は残っていない雅楽の原型、もっと野性的でヴァイタルであったろう音の世界を想像して、ダイナミックな奈良時代のイメージを乱世の昭和と結びつけた。極端な言い方をすれば雅楽の《春の祭典》みたいなもので、初演は大反響を呼んだのに、楽器編成の面倒さもあって、ちっとも再演されずに何十年も立ちました。
一方、黛の次の新作雅楽として国立劇場が委嘱したのが武満の《秋庭歌》で、これが拡大して《秋庭歌一具》という大作になり、繰り返し演奏され、戦後日本の名曲として認識されて、特に芝祐靖さんが手塩にかけて育ててきた伶楽舎は《秋庭歌一具》を看板にする団体であって、その《秋庭歌一具》の意欲的演奏によってサントリー芸術財団の佐治敬三賞を受けたばかりだとは申すまでもないでしょう。では《秋庭歌一具》の世界はというと、みやびやかな雅楽のイメージをもっと深めて濃やかにした具合ですよね。黛が雅楽の《春の祭典》なら、武満は雅楽の《牧神の午後への前奏曲》や《海》や《遊戯》ですよね。ストラヴィンスキーとドビュッシーが奈良と平安に重なる。縄文と弥生と言っても、『万葉集』と『新古今集』と言っても、イメージ的には大差ないですが。黛と武満が楕円状に作る大宇宙があるんですね。そして私どもは日本の美意識のようなことを考えると、この武満と黛のかたちづくる楕円の中から永遠に逃れられないのではないかという気さえして参ります。
ということで、《昭和天平楽》を、長年の眠りから呼び覚まして再発見すると、《秋庭歌一具》という単体で屹立してきたものが再再発見されて、日本が見えてくるのではないかという企画でございます。

4.再発見 “戦後日本のアジア主義”
 −はやたつ芥川、まろかる松村− 9/6(水)

今回の企画にあたって、やはりこの人が出てこないといけないだろうと思っていたのが芥川也寸志です。サントリーが芸術振興の財団を作って、クラシック音楽に肩入れしてくれて、しかも日本の作曲家の仕事、ひいては現代の音楽全般に対してあたたかいという伝統の形成は、芥川也寸志ぬきでは考えられないと思うのです。 具体的に申しますと、サントリー1社提供のTBSラジオのクラシック音楽番組『百万人の音楽』が、芥川也寸志を司会に迎えて始まったのが1967年ですね。芥川は単なる番組出演者にとどまらず、当時のサントリーの社長、佐治敬三と次第に信頼関係を築いていって、サントリーの文化芸術に対するスタンス、応援の仕方を指南してゆく役割を果たしてゆくようになった。サントリーとクラシック音楽の関わりは古くはもう大正時代からあるのですが、今日につながるかたちは、佐治敬三と芥川也寸志の関係から主にできあがっていたと思うのです。芥川也寸志は日本の作曲家の作品を広めたいと物凄く強い思いを持っていましたから、その思いがサントリーに伝わって、たとえば「作曲家の個展」という演奏会シリーズも始まったし、その命名も、サントリーホールの建設を佐治敬三に提言したのも芥川だし、だからサントリーホールのこけら落としで最初に鳴り響いたのは芥川の《響》というオルガンとオーケストラのための作品でした。
そうやって芥川がしっかり種を蒔いて田畑を作っていたから、このサマーフェスティバルもあるのでしょうし、そこに私も2017年に便乗させていただけたのです。しかも私は芥川也寸志と新交響楽団によって日本近代音楽史に目も耳も開かれたのだから、この機会に芥川が出てこないのは許されません。バチが当たってしまいます。 そして芥川也寸志が1960年代から常に盛り立てた後輩作曲家の筆頭といえば松村禎三でしょう。松村は初期のサントリー音楽賞の受賞者であり、ほとんど音楽祭の規模で催された受賞コンサート・シリーズは私には忘れがたいものです。そのあと、芥川の推しがあったからに違いないと私は勝手に思っているのですが、サントリーは松村禎三にオペラ《沈黙》を委嘱して、これが出来るまで長い歳月を要し、初演の時はもう芥川さんも亡くなっていましたが、この《沈黙》が日本を代表するオペラのひとつとして上演を重ねている事実が、サントリーと日本の作曲の結びつきが大きな果実をもたらしたことを示していると思います。
すると、芥川也寸志はなぜ松村禎三の応援団を務め続けたのか。やはり音楽の志向性が似ていたところがあったのでしょう。そもそも芥川と松村は共に伊福部昭の門下生です。そのせいでアジア主義的な美意識を共有していた。伊福部のアジア主義はやはり繰り返しです。オスティナートです。伊福部は戦争末期に甘粕正彦の招きで満州を旅し、熱河の寺院を訪ねて、小さな粗末な石仏が密集することで、とてつもない量感をもつありさまに感嘆した。それを音楽に置換すると短小な音型の繰り返しと堆積になる。この師匠の経験を、芥川と松村はなぞるのですね。芥川も松村も、南アジア、東南アジアに行って同じような気持ちになり、繰り返しにこだわることで西洋とは別の何かアジア的なものを表現できると確信するに至る。そうやって師匠が戦時期に得たモティーフを弟子が戦後に反復している。戦前・戦中と戦後のあいだには、断絶もあるけれど、そういう連続もある。たとえばオスティナートを多用するアジア主義的音楽の系譜がある。今回の大ホールでの企画ともそこで噛んでくるのです。
ただし、芥川と松村とでは音のくりかえしのさまがずいぶん違います。「はやたつ」と「まろかる」と副題を付けさせていただきましたが、「はやたつ」は川の異称と辞書にあり、要するに流れが速く勢いをもって流れる川の意味で、やはり元は「速立つ」から来ているのでしょうし、疾風(はやて)の語源とも言われています。とにかく疾風怒濤の如く素早くグイグイ来るのが「はやたつ」で、芥川の音楽といえば、シャープで明快で気負い立つようなくりかえしに味があるのですから、これはもう「はやたつ」ではないかと。「まろかる」はまろやかやまどかと関係のある大和言葉ですけれども、渾沌や混沌を和語に訳すと「まろかる」であるという。つまり鮮明でなく澱んでぼかしがかかって茫洋としているようなところのある言葉ですね。これは松村のくりかえしの流儀を象徴させようというとき、良い言葉ではないかと。
そんな芥川と松村を一緒に聴くと、戦前から戦後を貫くアジア主義の渦も響いてくれば、サントリーと日本の作曲家たちの長い歴史も見えてくるでしょう。サントリーとの縁をハッキリ示すなら芥川の《響》と松村の《沈黙》のハイライトを並べるなんて手もありましょうが、今回はブルーローズでの企画ですし、ピアノと弦にしぼりまして、ゆかりの方々と新しい世代の方々の両方に出て頂き、佐治敬三に捧げられた松村《肖像》を入れることでサントリーとのかかわりについての刻印もいたしまして、お楽しみいただきたく存じます。

出演者からのメッセージ

福間洸太朗

この9月にリニューアルオープンするサントリーホールでの山田和樹氏率いる日本フィルハーモニー交響楽団の皆様との共演を、心より嬉しく光栄に思います。

今回大澤壽人さんの作品に初めて接しましたが、その日本人離れしたモダニズムやコスモポリタンな精神に大変驚きました。タイトルにある『神風』は、1937年当時東京-ロンドン間で国産機の最速記録を出した二人乗りの飛行機のことで、その操縦士の勇姿を称えるかのような力強い生き生きとした第1楽章のモチーフは印象的です。第2楽章の穏やかで郷愁に駆られるメロディは美しい夕焼けを見ながら飛行するかのよう。フィナーレは速いテンポの中、複雑なリズムでオーケストラの各楽器群と絡み合います。

発表当時受け入れられなかったこの作品が、その後の飛行機の発達によってグローバル化した21世紀の現代人へ新鮮な息吹と感動をもたらすことを信じ、私も強い意志をもって取り組みたいと思います。

[福間洸太朗(9/3出演 ピアノ)]

小山実稚恵

伊福部先生の作品を演奏するのは初めてです。今回《ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲》を演奏することになり、それにともなって他の作品もいろいろ調べてゆく中で、《ピアノ組曲》に強く惹かれました。特に「盆踊」と「七夕」の2曲が大好きです。猛暑の中、心身ともに無になって踊り狂う「盆踊」。願いを込めると、静かな風が涼となって響いてくる暑気払いのような「七夕」。伊福部音楽特有の直接的な繰り返しと微妙な表情変化が、身体の深部に内在していた感覚に訴えてきます。

大地を踏みしめて、そこからぐっと湧き上がる力強さ、生命力――作品に接して、まずそれを感じました。伊福部先生そのもの、そして、この作品が作曲された戦中という時代、両方からくるものでしょうか。先生は「自分はこうありたい」という、人生を生きる芯を持ち続けた方。あの時代、徹頭徹尾、ご自分を貫く、というのがどれだけ大変だったことか。やり切ることの尊さ、潔さを、この作品からも感じて、心打たれます。

明快に聞こえるのですが、楽譜をみると、実にこまめに変拍子が書き込まれています。変化球をたくさん入れていることがわかります。野球にたとえるなら、変化球を細かく混ぜているのに、直球勝負しているように見える、というような(笑)。変化球のこだわりを聴いてください、という作曲家もいらっしゃるでしょうが、伊福部先生は「直球が生きるために変化球が存在する」というお考えのように思います。似ているのにちょっとリズムが違うパッセージが延々と続くのですが、それを弾くのはけっこう快感です。私としては、その変化球の妙を日々楽しみながらも、本番では直球勝負でいきたい!と思っています。

いろいろな要素が詰まっていますが、突如出現するスペイン風の音楽や、祭りのリズムや音…、何といっても変わり身の速さがおもしろいですね。その変化をどのようにつけていかれるかなと。1楽章に『ゴジラ』の出だしとそっくりなところがあるのも楽しいところです。打って変わって、ラヴェル風の2楽章は、寂しさ、諦めを感じさせる美しい音楽です。ノスタルジックな雰囲気とともに、北国育ちの人間として、私は寒いところの空気感を感じています。そして3楽章は、再び力強いリズミックな世界。ピアノの書法は原始的ですが、むしろそれが味を出しているように思います。音楽そのものが体に入るまでいかないと、先生の音楽にならないのが難しいところですね。実は私はこういうリズミックな音楽、大好きなんです。自分の素に近いものを感じます。

この作品に出会って、「自分の信念を貫く」ことの潔さをあらためて感じています。信念に込められた息吹は力強く、そして燦々と輝いている。それを伝えることができたら、という思いで作品に向き合っています。(談)

[小山実稚恵(9/10出演 ピアノ)]

作品の聴きどころムービー

今回のプロデューサーシリーズ4公演、いったいどのような作曲家の作品が登場するのでしょうか。
各公演の聴きどころを片山杜秀自らが語ります!

再発見 “戦前日本のモダニズム”
 −忘れられた作曲家、大澤壽人−

9/3(日)大ホール

再発見 “戦後日本と雅楽”
 −みやびな武満、あらぶる黛−

9/4(月)ブルーローズ(小ホール)

再発見 “戦後日本のアジア主義”
 −はやたつ芥川、まろかる松村−

9/6(水)ブルーローズ(小ホール)

再発見 “戦中日本のリアリズム”
 −アジア主義・日本主義・機械主義−

9/10(日)大ホール

図解 今回登場する作曲家たち

片山杜秀プロデュース公演に登場する作曲家たち
さらに知りたい方へ

まんが 怪物!カタヤマくん

プロデューサー・片山杜秀とはいったいどのような人物なのか・・?
マンガでご紹介します!

※下記の見出しをクリックするとマンガが表示されます

第1話 ~覚醒篇~

第2話 ~ハンター篇~

番外編 〜お宅探訪篇〜

プロフィール

片山杜秀

音楽評論家、政治思想史研究者。1963年、仙台生まれ、東京で育つ。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。1980年代から、音楽や映画、日本近代思想史を主たる領分として、フリーランスで批評活動を行う。2008年より慶應義塾大学に勤務。現在は法学部教授。著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』『クラシック迷宮図書館』(正続)『線量計と機関銃』(以上、アルテスパブリッシング)、『近代日本の右翼思想』(講談社)、『ゴジラと日の丸』(文藝春秋)、『未完のファシズム』『国の死に方』『見果てぬ日本』(新潮社)、『クラシックの核心』(河出書房新社)など、共著に『伊福部昭の宇宙』(音楽之友社)、『日本戦後音楽史』(上下)(平凡社)、『宮内庁楽部雅楽の正統』(扶桑社)、『近代天皇論』(集英社)など。『音盤考現学』と『音盤博物誌』で吉田秀和賞およびサントリー学芸賞を、『未完のファシズム』で司馬遼太郎賞を受ける。『未完のファシズム』は海外でも翻訳されている。NHKFM『クラシックの迷宮』の選曲・構成とパーソナリティを務める。

9/3(日)作曲家

大澤壽人

1906(明治39)年8月1日、兵庫県神戸市生まれ。父は神戸製鋼所創業時からの技術者。母はクリスチャンで、キリスト教に囲まれた環境で育った。20年関西学院中学部に入学。グリークラブに入部して山田耕筰の後輩となる。25年初来日したフランスのピアニスト、H. ジル=マルシェクスの神戸公演を聴いて感銘し、作曲家を志す。26年高等商業学部に進学。ピアノを神戸在留の外国人、第一露国音楽学校を開いていたロシアのA. ルーチンと原智恵子の師であるスペインのP. ヴィラヴェルデに師事。学内外で活躍し、近畿の学生音楽界で知られる存在だった。
関西学院を卒業した30年に渡米。ボストン大学音楽学部で正式に作曲を学び始めると、直ちに頭角を現した。32年日本人初の作曲専攻生としてニューイングランド音楽院にも入学。F. コンヴァースに師事した頃から才能が一挙に開花し、あふれる創作力を示す。33年日本最初期の《ピアノ協奏曲》を卒業作品としてボストン大学に提出。卒業式の晩にはボストン交響楽団メンバーから成るボストン・ポップス・オーケストラを率いて自作《小交響曲》を披露し、同響を指揮した初めての日本人となった。
34年にはアメリカに移住したA. シェーンベルクやアメリカ前衛派の作曲家達の影響を受け、「ウルトラモダン」を目指した独創的な作風を見せる。数多くの演奏会用作品を作曲し、日本初の《コントラバス協奏曲》や戦前の日本洋楽史で屈指の大作《交響曲第1番》などを次々完成。S. クーセヴィツキに実力を認められ、新進作曲家として脚光を浴びた。
同年10月大志を抱いてフランスに渡り、エコールノルマル音楽院でP. デュカのクラスに出席、N. ブーランジェのプライベートレッスンを受ける。35年コンセール・パドゥルー管弦楽団を率いて、パリで日本人初の自作自演の大演奏会を開催。J. イベールやA. オネゲルなど、西洋音楽史のビッグネーム達が来場した。《交響曲第2番》《ピアノ協奏曲第2番》、歌曲《桜に寄す》は新聞各紙で絶賛を博し、指揮も高く評価され、華麗なデビューを果たした。大戦前のヨーロッパで「欧米楽壇で通用する一流の作曲家・指揮者」と称えられた成功は、邦人作曲家が海外進出を模索した時代に、輝かしいキャリアである。
36年帰国。凱旋のはずの帰朝演奏会では先鋭の作風が理解されず、日中戦争下の38年に発表された《ピアノ協奏曲第3番 神風協奏曲》も「愛国的」でないと批判された。しかし時代に阻まれながらも、神戸女学院の教壇に立ち、文壇・画壇の芸術家達と活動を続け、ラジオや映画、宝塚や松竹の音楽、ジャズ風協奏曲から校歌に至るまで、幅広いジャンルで多彩な作品を創作。戦後、時代の寵児として大活躍していた最中、53(昭和28)年10月28日に急逝。作曲・編曲を合わせ1000近くの作品を遺した。生誕百年にあたる2006(平成18)年、大澤家より3万点に及ぶ遺品資料が神戸女学院に寄贈された。

[生島美紀子(大澤資料プロジェクト代表・音楽学)]

9/4(月)作曲家

武満 徹

1930(昭和5)年、サラリーマンでジャズを愛する父のもと東京に生まれる。生後1ヶ月から6歳まで満州で過ごす。15歳の時、勤労動員先で耳にしたシャンソン《パルレ・モア・ダムール》に衝撃を受け、音楽家を志す。清瀬保二に師事するが、ほぼ独学。早坂文雄の映画音楽のアシスタントを務め映画の仕事を始めるとともに、創作面でも「汎東洋主義」を唱えた早坂の影響を受ける。
1950年、ピアノ曲《二つのレント》を発表しデビュー。“レント”(ゆったりとした速度の意)に東洋的な美と反近代への思いを込めた意欲作だった。同時期に美術評論家の瀧口修造と出会い、美術や文学への関心を深め、同時代の欧米の芸術に目が開かれる。瀧口がシュルレアリストの詩人であったことから、洋の東西を超え、個人の内なる自然である想像力や夢に関心を抱くようになる。
1959年に来日したストラヴィンスキーが《弦楽のためのレクエイム》を認めたことで欧米で活躍する足場が作られ、指揮者の小澤征爾の活躍と相まり1967年、ニューヨーク・フィルハーモニックからの委嘱で琵琶と尺八、オーケストラのための《ノヴェンバー・ステップス》を作曲、自らの課題であった日本と西洋の音の違いを見極め、次なるステップを踏むきっかけとなる。
作品には、楽器の特性と空間に広がる音の響きを生かしたオーケストレーション、歌うようなメロディー、12音と調性を用いた緻密な構造が絶妙に詩的に混ざり合う。日本と関連するタイトルを用いることを控えていたが、音色を重んじ、演奏者・聴衆に想像させる余白を残す表現法や、雨や樹、鳥、庭など自然を聴き手に想起させるタイトルやモチーフ、テーマが展開するのではなく絵巻物のように変容する形式で、おのずと日本が想起される作品を書いた。 創作と並行して、プロデユーサーとして国内外の音楽祭に携わり、国籍を超えて音楽家同士が交流する場をつくることに尽力した。武満自身が企画した音楽祭に「今日の音楽」(1971年-1993年)、「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」(1986年- )、東京オペラシティの企画(現・「コンポージアム」)などがある。
映画に傾けた情熱は深く、約100本の作品で音楽だけでなく効果音、音声にまでこだわった音による演出を手掛け、なおかつ観客の想像力を生かして「映像から音を削る」音楽のつけ方をした。監督から厚い信頼を得、勅使河原宏、小林正樹、篠田正浩らと繰り返しコンビを組んだ。1996年、65歳で他界。

[小野光子]

黛 敏郎

1929(昭和4)年、船長の父のもと横浜に生まれる。1945年、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)作曲科に入学。戦時期に橋本國彦に、戦後は池内友次郎と伊福部昭に師事。2年上に芥川也寸志、3年上に團伊玖磨がいた。ストラヴィンスキーに傾倒しつつ、在学中、ビッグ・バンドのブルー・コーツのピアニストとして活躍しジャズに親しむ。1951年、フランスへ私費留学しパリ音楽院に入学。楽音にとらわれずに現実音で音楽を作るミュジック・コンクレートに触れ、帰国後《X・Y・Z》を制作・発表。1955年には日本初の電子音響のみによる《7のヴァリエーション》を作曲家の諸井誠と制作。西洋の最先端の動向を伝えて真っ先に創作に応用する、戦後日本の音楽界の旗手となった。
創作の初期に、西洋の新しい技法と日本を含めたアジアの伝統を洗練された都会的なセンスで織り交ぜた《シンフォニック・ムード》(1950年)や《スフェノグラム》(1950年)がある。後者は第25回ISCM国際現代音楽祭に入選、黛の名を世界に知らせることとなった。
1950年、映画『花のおもかげ』(家城巳代治監督)を担当。それが、以後200本以上携わる映画の仕事の第1号となった。1953年に芥川と團と「三人の会」を結成。映画や放送などの仕事で得た資金をもとにオーケストラを雇い、自作を披露する演奏会を開いた。1954年の第1回で初演されたオーケストラのための《饗宴》は、日本の伝統音楽、ジャズ、西洋の前衛の要素を取り入れ、かつオーケストラを自在に操るスケールの大きさで海外でも好評を博し、ペータース社から楽譜が出版され、再演を重ねた。1957年に作曲した《カンパノロジー》及び1958年の《涅槃交響曲》では、日本の梵鐘の音を音響解析し、それにより得た数値の近似値を平均律のピッチに直してオーケストラに用いる手法で、作曲界に衝撃を与えた。
フランス留学中、パリで三島由紀夫に出会ったことが黛の人生に光と影をもたらした。日本文化への眼差しを強めるとともに1958年には「ヨーロッパ音楽への訣別」を宣言。70年に三島が自決した後、日本文化、天皇制、武士道、憲法改正などを論じ、政治運動に関わる機会が増え、憂国の情を深めていった。創作は激減したが、ベルリン・ドイツ・オペラの委嘱による《金閣寺》(原作は三島)を1976年に完成、代表作とする。 1964年から亡くなるまで33年間、TV番組「題名のない音楽会」の企画・司会を担当、クラシック音楽の楽しみを一般に伝えた。1997年、68歳で他界。

[小野光子]

9/6(水)作曲家

芥川也寸志

1925(大正14)年、作家・芥川龍之介の三男として東京に生まれる。父の所蔵するレコードにあったストラヴィンスキーの《火の鳥》《ペトルーシュカ》に感動を覚え、作曲家を志す。1943年、東京音楽学校(現・東京藝術大学)本科作曲部入学、戦中期に和声を下総皖一(しもふさかんいち)、対位法を細川碧(みどり)、作曲を橋本國彦に師事。戦後、伊福部昭に師事、影響を受ける。1級上に團伊玖磨、2級下に黛敏郎がいた。1949年、研究科修了の年に作曲したNHKラジオの連続放送劇『えり子とともに』の音楽で一躍有名になり、映画版の音楽も担当。以後、『煙突の見える場所』(五所平之助監督、1953年)など映画の仕事を重ねる。1950年、《交響管弦楽のための音楽》がNHK放送25周年記念管弦楽懸賞に特選入選。1953年、《弦楽のための三楽章》がニューヨーク・フィルによりアメリカで初演され、話題を呼ぶ。
1954年、團と黛と結成した「三人の会」第1回演奏会で《交響曲》(のち改作されて《交響曲第1番》)を初演。同年、ウィーンを経由して共産圏のソヴィエトと中国へ入り、ショスタコーヴィチ、カバレフスキー、ハチャトゥリアン、フレンニコフらと交際した。
1957年にインドのエローラ石窟寺院を訪れ、レンガを積み上げて構築する西洋と異なり、掘り下げマイナスして空間を作る寺院の姿に衝撃を受け「マイナス空間論」を説く。翌年《エローラ交響曲》としてその感動を結実させた。「リズムはあらゆる音楽の出発点」という信念から、作品には歯切れ良いリズムがある。また、ユニゾンで奏すメロディー、原始的な生命力みなぎるオスティナート1、叙情的なメロディーといった、力強さと繊細さをあわせ持つ。《小鳥のうた》など童謡でも才能を発揮した。
1960年、大江健三郎の台本によるオペラ《ヒロシマのオルフェ》を作曲(原題は《暗い鏡》)、夢と現実の混じる台本を見事に音楽化した。この「60年安保」の年に初演された「原爆物」のオペラはソ連の歌劇場のレパートリーにもなった。
アマチュアの新交響楽団や宮城フィルハーモニー管弦楽団(現・仙台フィル)を指導したほか、TBSラジオ『100万人の音楽』やNHKテレビ『音楽の広場』などで司会者としてクラシック音楽の普及に貢献。「反核・日本の音楽家たち」を組織し音楽家の社会参加を促したほか、日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長として音楽家の権利を守る活動で多忙を極めた。1989年、64歳で他界。1年後、その功績を記念し、新進作曲家のためのオーケストラ作品を対象とした芥川作曲賞が設立された。

[小野光子]

松村禎三

1929(昭和4)年、京都の老舗染物屋に生まれる。謡を嗜む父、箏曲の師匠の母のもと幼い頃から音楽に親しむ。シューベルトやベートーヴェンを好み、卓上ピアノで作曲をする。10歳で父を、20歳で母を失くす。1949年旧制第三高等学校を卒業後、上京し池内友次郎に師事。東京藝術大学を受験するも、結核が発覚し断念。一時期生死をさまよう療養生活を送る。失意の中、高浜虚子の次男である池内から勧められて俳句を始め、旱夫(ひでりお)の号を持つ。快復期から書き始めた《序奏と協奏的アレグロ》で1955年度NHK・毎日音楽コンクール作曲管弦楽部門で1位に入賞し、作曲家デビュー。翌1956年、審査員の一人だった伊福部昭に師事。
非ヨーロッパ的な創作を模索しつつ、生死をさまよった経験から、生命の根源に直結するようなエネルギーのある曲を理想とした。そして細かな音が体積した重厚感のあるオーケストレーション、息が長く力強い旋律、官能性・生命の脈動を感じさせるオスティナート1によるリズムが生まれた。友人である武満徹はそれを、松村の山荘から見える雄大な浅間山の稜線に喩えた。一方で、アジアから遠くギリシャへ思いを馳せ、洋の東西を超えた文化の根源を探ろうとするロマンティックな一面もあった。次第に時空を超えた普遍的な要素の回復を考え、ヨーロッパを見つめ直した。機能和声の体系に基づくのではなく、一つの中心音を持つものとして調性を捉えた《交響曲第2番》(1998年)などを作曲。
1968年に《管弦楽のための前奏曲》で第17回尾高賞を受賞、1979年にサントリー音楽賞を受賞。1993年には、自ら台本も手がけたオペラ『沈黙』(遠藤周作原作)を13年余かけて完成させ、揺るぎない評価を得た。信念を貫く態度で作曲に臨み、寡作となったが、存在感のある作品を生涯にわたり書き続けた。
東京藝術大学、東京音楽大学、相愛大学で教鞭を執った。京都音楽賞大賞、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章受章など受賞多数。
100本を超える映画のための音楽を作曲。特に熊井啓、黒木和雄両監督とのコンビで数々の秀逸な仕事をした。また、水上勉の原作による戯曲をはじめとする演劇の分野でも活躍。2007年、78歳で他界した。

[小野光子]

(注)1.オスティナートとは、ある音楽的パターンを執拗に繰り返すこと。

9/10(日)作曲家

尾高尚忠

1911(明治44)年、実業家の父のもと東京に生まれる。両親は義太夫を嗜んだが、本人は洋楽に目覚める。1931年から1年間ウィーンに留学、ピアノと音楽理論を学ぶ。帰国後、武蔵野音楽学校作曲科で教鞭を執りつつ、クラウス・プリングスハイムに作曲を、レオ・シロタにピアノを学ぶ。再び1934年からウィーンへ渡り、国立音楽大学作曲科でヨーゼフ・マルクスに作曲を、指揮者のフェリックス・ワインガルトナーに指揮を学ぶ。学外でフランツ・モーザーに作曲、管弦楽法、指揮を学んだ。《日本組曲》(1936年)でワインガルトナー賞を受賞。また指揮者として活動し、ベルリン・フィルなどを振った。
1940年に帰国、自作自演演奏会を新交響楽団(現・NHK交響楽団)で開き、《蘆屋乙女》(1937年)と《みだれ》(1938年)を披露し、日本デビュー。翌年から新響の指揮者となる。その後、戦中・戦後を通じて指揮と作曲の二足のわらじを履いて多忙を極め、過労の果てに、1951年、39歳で急逝した。雅楽のリズム、五音音階や民謡を用いた作品もあるが、民族主義的主張は強くはなく、リヒャルト・シュトラウスとラヴェルを理想とした。授与された文部大臣賞の賞金を文化事業に使いたいとの夫人の希望により、N響が彼の功績を称えた「尾高賞」を1952年に設けた。

[小野光子]

山田一雄

1912(大正元年)年、大学教授の父のもと東京に生まれる。作曲家を志し、1931年に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)に入学。ピアノをレオ・シロタに、作曲をクラウス・プリングスハイムに師事。1937年、オーケストラ作品《日本の俗謡による前奏曲》で日本放送協会賞第1位を受賞、1938年に交響楽詩《若者のうたへる歌》が新交響楽団邦人作品コンクールに入選、1939年には日本放送協会から民謡を用いた「国民詩曲」を委嘱され、《交響的木曽》を作曲。同年、作曲家の深井史郎、安部幸明、小倉朗らと「楽団プロメテ」を結成した。自作の指揮をきっかけに、指揮法を本格的にヨーゼフ・ローゼンシュトックに学び、1941年に新響(現・N響)の補助指揮者、翌年専任指揮者に迎えられると、作曲家から指揮者へ活動の比重を変えた。以来、 “ヤマカズ”の名で多くの人々に親しまれた。
作曲家としては、マーラーの弟子で、マーラーから新古典主義の様式にまで精通した師のプリングスハイムに強く影響され、マーラー、バルトーク、コダーイ、ヒンデミット、ラヴェルらに感化された音楽を書いた。指揮者としての最大のレパートリーもマーラーの交響曲であった。1991年、78歳で没。

[小野光子]

伊福部 昭

1914(大正3)年、警察署長の父のもと釧路に生まれる。北海道各地を転々として育ち、少年時代に十勝地方の音更で交流したアイヌの歌や踊りに影響される。
1926年、札幌第二中学(現・札幌西高校)へ入学。同級の、のちの音楽評論家・三浦淳史に進められて作曲を始める。北海道帝国大学農学部林学実科に進学、科学的な目を養いつつ、独学で作曲を続ける。1935年に《日本狂詩曲》でチェレプニン賞第1位。翌年、来日中のアレクサンドル・チェレプニンに1ヶ月間学んだ。1946年、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)の作曲科講師となり、1953年に辞するまで、芥川也寸志、黛敏郎、矢代秋雄、池野成、三木稔らを指導。その後、私的に松村禎三や石井眞木を教えた。1974年には東京音楽大学教授となり、学長も長く務めた。
伊福部は「総ての芸術は、その民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達すべき」と考えていた。その音楽には、原始的な生命力を喚起させる力強いリズムのオスティナート1、哀愁を帯びた旋律が漂っている。
1947年に映画『銀嶺の果て』(谷口千吉監督)の音楽を手掛けて以来、300本を超える映画音楽を作曲。特に1954年の『ゴジラ』(本多猪四郎監督)は、伊福部の代名詞となった。2006年、91歳で他界。

(注)1.オスティナートとは、ある音楽的パターンを執拗に繰り返すこと。

[小野光子]

諸井三郎

1903(明治36)年、実業家の父のもと東京に生まれ、中学の頃から独学で作曲を始めた。先行世代の山田耕筰や信時潔の歌曲に偏した創作を批判し、バッハ、ベートーヴェン、フランクに傾倒、交響曲やソナタなど絶対音楽の創作に力を入れた。東京帝国大学(現・東京大学)文学部美学科在学中の1927年、河上徹太郎らと楽団「スルヤ」(梵語で太陽神の意、ヴラヴァツキー夫人に神智学を学んだ今武平の命名)を結成。周辺には今日出海、小林秀雄、中島健蔵、中原中也、大岡昇平らがいた。1932年、ベルリン高等音楽院に入学、レオ・シュラッテンホルツに師事。ヒンデミットの影響も受けつつ2年間学び、同地で《交響曲第1番》等を発表。1937年、新交響楽団(現・NHK交響楽団)邦人作品コンクールで《ピアノ協奏曲》が入選。翌年初演した《交響曲第2番》で国内での評価を確立した。
『音楽形式論』『機能和声法』など理論書を多数執筆。刺激を受けた、柴田南雄、入野義朗、戸田邦雄、矢代秋雄、團伊玖磨や、映画・放送の分野で活躍した三木鶏郎や木下忠司らが諸井の門を叩いた。 戦後、文部省で学制改革などに携わったほか、東京都交響楽団の楽団長、洗足学園大学音楽学部の学部長として尽力。1977年、73歳で他界。次男・誠(1930-20013)も作曲家。

[小野光子]

9/3(日)出演者

山田和樹(指揮)

2009年第51回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。ほどなくBBC交響楽団を指揮してヨーロッパ・デビュー。同年、ミシェル・プラッソンの代役でパリ管弦楽団を指揮して以来、破竹の勢いで活躍の場を広げている。
2016/2017シーズンから、モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督兼音楽監督に就任。スイス・ロマンド管弦楽団首席客演指揮者、日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者、東京混声合唱団音楽監督兼理事長などを務めている。2016年実行委員会代表を務めた「柴田南雄生誕100年・没後20年 記念演奏会」が、平成28年度文化庁芸術祭大賞、2017年には平成28年度芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。
これまでに、ドレスデン国立歌劇場管、パリ管、フィルハーモニア管、ベルリン放送響、バーミンガム市響、サンクトペテルブルグフィル、チェコ・フィル、ストラスブール・フィル、ハーモニー管弦楽団、エーテボリ響、ユタ交響楽団など各地の主要オーケストラでの客演を重ねている。東京藝術大学指揮科で小林研一郎・松尾葉子の両氏に師事。
メディアへの出演も多く、音楽を広く深く愉しもうとする姿勢は多くの共感を集めている。ベルリン在住。
Twitter:@yamakazu_takt

福間洸太朗(ピアノ)

パリ国立高等音楽院、ベルリン芸術大学で学ぶ。20歳でクリーヴランド国際コンクール優勝(日本人初)およびショパン賞受賞。これまでにカーネギーホール、リンカーンセンター、ウィグモアホール等でリサイタル他、クリーヴランド管、イスラエル・フィルなど海外の著名オーケストラと数多く共演。2016年にはN響との共演や、7月にネルソン・フレイレの代役として急遽、ソヒエフ指揮・トゥールーズ・キャピトル管の定期演奏会において、ブラームスの協奏曲第2番を演奏し喝采を浴びた。これまでに「モルダウ~水に寄せて歌う」など10枚のCDをリリース。ベルリン在住。
オフィシャル・サイト:http://www.kotarofukuma.com

佐野央子(コントラバス)

新潟県栃尾市(現・長岡市)出身。12歳よりコントラバスを始める。東京藝術大学卒業、同大学院修了。在学中、芸大史上初となる女性コントラバスソリストに選ばれ、若杉弘指揮、芸大フィルハーモニア管弦楽団と共演。2006年、ドイツミュンヘンに留学し研鑽を積む。
小澤征爾オペラプロジェクト、サイトウキネン・フェスティバル松本、東京春の音楽祭、宮崎国際音楽祭、霧島国際音楽祭、ラ・フォル・ジュルネinナント(フランス)など多くの音楽祭に参加。バイロイト・インターナショナルユンゲオーケストラアカデミー、全国主要オーケストラの客演首席を務めるなど、オーケストラ奏者としての活動のほか、ソロ奏者として、全国各地で演奏会を開催し、好評を博す。今までに、村上満志、永島義男、山本修、W.ギュトラー、H.ブラウンの各氏に師事。現在、東京都交響楽団コントラバス奏者。

日本フィルハーモニー交響楽団

1956年6月創立、楽団創設の中心となった渡邉曉雄が初代常任指揮者を務める。60年の歴史と伝統を守りつつ、“音楽を通して文化を発信”という信条に基づき、「オーケストラ・コンサート」、「エデュケーション・プログラム」、「リージョナル・アクティビティ」という三つの柱で活動を行っている。現在、首席指揮者ピエタリ・インキネン、桂冠指揮者兼芸術顧問アレクサンドル・ラザレフ、桂冠名誉指揮者小林研一郎、正指揮者山田和樹、ミュージック・パートナー西本智実という充実した指揮者陣を中心に演奏会を行っている。
2011年4月よりボランティア活動「被災地に音楽を」を開始。17年1月末までに209公演を数え、現在も継続している。
オフィシャル・サイト:http://www.japanphil.or.jp

9/4(月)出演者

伶楽舎

雅楽の合奏研究を目的に1985年に発足した雅楽演奏グループ。音楽監督・芝祐靖。
発足以来、現行の雅楽古典曲以外に、廃絶曲の復曲や正倉院楽器の復元演奏、現代作品の演奏にも積極的に取り組み、国内外で幅広い活動を展開している。特に、現代作曲家への委嘱作品や古典雅楽様式の新作の初演には力を入れ、年2回のペースで開催している自主演奏会で度々発表している。他に、解説を交えた親しみやすいコンサートを企画し、雅楽への理解と普及にも努める。また、文化庁「文化芸術による子供の育成事業」他、小中高校生を対象としたワークショップ、レクチャーコンサートなどの教育プログラムも多く行っている。「伶楽舎第十三回雅楽演奏会~武満徹『秋庭歌一具』」で、2016年度サントリー芸術財団「佐治敬三賞」を受賞。

伊左治 直(指揮)

1968年生まれ。95年、東京音楽大学大学院修士課程修了。在学中、作曲を西村朗氏に、中世西洋音楽史を金澤正剛氏に師事。これまで日本音楽コンクール第1位、日本現代音楽協会作曲新人賞、芥川作曲賞、出光音楽賞を受賞。
2000年、ラジオオペラ「密室音響劇《血の婚礼》」制作。01年、「音楽の前衛I—ジョン・ケージ上陸」アート・ディレクター。03年、「Music from Japan」招待作曲家。16年、鼓童とオーケストラのための『浮島神楽』を作曲した。作曲、パフォーマンス活動と並行し、2001年よりブラジル音楽を中心としたライブ活動も定期的に行っている。

9/6(水)出演者

堤 剛(チェロ)

名実ともに日本を代表するチェリスト。桐朋学園子供のための音楽教室、桐朋学園高校音楽科を通じ齋藤秀雄に師事。1961年アメリカ・インディアナ大学に留学、ヤーノシュ・シュタルケルに師事。63年ミュンヘン国際コンクール第2位、カザルス国際コンクール第1位入賞。2009年秋の紫綬褒章を受章。2013年、文化功労者に選出。《バッハ無伴奏チェロ組曲全曲》など録音多数。1988年より2006年までインディアナ大学の教授を務め、2004年より2013年まで桐朋学園大学学長を務めた。07年9月、サントリーホール館長に就任。

土田 英介(ピアノ)

東京藝術大学作曲科卒業、同大学院修了。第53回日本音楽コンクール作曲部門第1位。第14回民音現代作曲音楽祭にて《交響的譚詩》が初演される。ソウル、上海などで演奏され、高い評価を受けた管弦楽曲や、毎日新聞紙上で絶賛された長大なピアノソナタをはじめ、多くの作品がある。ピアニストとしての活動も多岐に亘り、東フィル(山下一史指揮)、東響(飯森範親指揮)などとの共演やCD録音など何れも賞賛を浴びる。著書『バッハ平均律クラヴィーア曲集第1巻~演奏のための分析ノート1・2』を執筆。桐朋学園大学作曲理論科教授、洗足学園音楽大学作曲コース客員教授、東京音楽大学大学院講師。

伊藤 翔(指揮)

桐朋学園大学卒業。2016年にイタリア「第1回ニーノ・ロータ国際指揮コンクール」で第1位を受賞。これまでに大阪フィル、神奈川フィル、九州響、京都市響、新日本フィル、仙台フィル、東京シティ、東京フィル、名古屋フィル、日本センチュリー、日本フィル、広島響、山形響等に客演し、海外では、クラクフ国立室内管やジェシュフ・フィルハーモニー、マグナ・グレシア・オーケストラへの客演が好評を博す。また合唱指揮として2017年NHK交響楽団の公演を成功に導いた。現在、東京混声合唱団コンダクター・イン・レジデンス。上野学園大学非常勤助教。

泊 真美子(ピアノ)

東京藝術大学ピアノ科卒業。第72回日本音楽コンクール第1位。これまでに、東響、新日本フィル、東京フィル他と共演、また、NHK-FM名曲リサイタル等に出演。発売中の4枚のCDは、読売新聞や毎日新聞で推薦盤、レコード芸術特薦盤に取り上げられ、高い評価を受ける。2014年、土田英介のピアノ協奏曲を札響と初演するなど、新作発表初演も多く務め、近年は、全日本学生音楽コンクール等の審査会に携わり、後進の育成にも力を入れている。一般財団法人地域創造・音楽活性化支援事業登録アーティスト。

白井 圭(ヴァイオリン)

トリニダード・トバゴ生まれ、東京藝術大学を経てウィーン国立音楽大学で学ぶ。これまでに田中千香士、ゴールドベルク山根美代子、ヨハネス・マイスルなどに師事。日本音楽コンクール第2位及び増沢賞、ARDミュンヘン国際音楽コンクール第2位及び聴衆賞、ハイドン国際室内楽コンクール第1位及び聴衆賞他、受賞歴多数。ソリストとしてはウィーン楽友協会でのリサイタルや、チェコフィルなどと共演。田中千香士音楽祭レボリューションアンサンブルの音楽監督。Stefan Zweig Trio、Trio Accord、Ludwig Chamber Playersメンバー。神戸市室内合奏団コンサートマスター。

須山暢大(ヴァイオリン)

東京藝術大学卒業。第1回宗次エンジェルヴァイオリンコンクール第2位。シオン国際ヴァイオリンコンクール入賞。G・フェイギン、G・プーレ、S・アシュケナージ各氏に師事。
ソリストとしてセントラル愛知交響楽団、藝大フィルハーモニア、東京室内管弦楽団、Shlomo・Mintz指揮 Orchestre Dohnanyi Budafok、Spirit of Europe等と共演。サイトウキネンオーケストラ、赤穂・姫路両国際音楽祭プレコンサート等多数出演。群響、京響、大フィル、九響等のオーケストラにコンサートマスターとして客演し、ソロ活動や室内楽でも活躍している。

竹内 愛(ヴァイオリン) 

名古屋市生まれ。4歳よりヴァイオリンを始める。1998年全日本学生音楽コンクール名古屋大会小学校の部第1位、翌年同コンクール中学校の部第1位。第11回日本クラシック音楽コンクール全国大会最高位(1位なし第2位)。2005年ストラディバリウスコンクール第3位。これまでに神奈川フィルハーモニー交響楽団、東京ニューシティ管弦楽団などと共演。原田幸一郎、(故)工藤千博、若林暢、ザハール・ブロン、藤原浜雄、漆原朝子の各氏に師事。2009年東京芸術大学音楽学部卒業。

前田奈緒(ヴァイオリン)

11歳で渡英し、ロンドンでイフラ・ニーマン、パリでミシェル・オークレールのもとで学ぶ。英国王立音楽院ジュニアアカデミー、東京藝術大学附属高校を経て、同大学卒業。大阪国際音楽コンクール第1位、全日本学生音楽コンクール全国大会第1位、日本音楽コンクール本選入選、他多数受賞。東響、藝大フィル等と共演。クラシック・ヨコハマ、六花亭ホール、等各地でソロリサイタルを行う。またサントリーホールチェンバーミュージックガーデン、ラフォルジュルネ等に出演するなど幅広く活動を行う。東京藝術大学非常勤講師として藝大フィルハーモニア管弦楽団に所属。

町田 匡(ヴァイオリン)

都立芸術高校を経て東京藝術大学を卒業。2010年かながわ音楽コンクール神奈川県教育委員会教育長賞。2012年、2013年南仏サン・ジャン・ド・リュズにてモーリス・ラヴェル国際音楽アカデミーに参加。同アカデミーにてボナ美術館賞を受賞。2013年ザルツブルク=モーツァルト国際室内楽コンクール第3位受賞。ヴァイオリンを沼田園子、Gérard Poulet、漆原朝子の各氏に師事。(株)日本ヴァイオリンより名器特別貸与助成を受けている。

柳田茄那子(ヴァイオリン)

東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校を経て、2009年に東京芸術大学音楽学部に入学。2010年、英国王立音楽院音楽学部に留学。2014年、英国王立音楽院音楽学部を1st Classで卒業。2016年同音楽院を最優秀で卒業、RAM Diplomaを取得。過去、第55回日本学生音楽コンクール小学生の部第1位。第78回日本音楽コンクール入選。2017年4月銀座王子ホールにて帰国記念リサイタルを開催。これまでにジョルジュ・パウク、澤和樹、小川有紀子、山崎貴子、他に師事。

湯本亜美(ヴァイオリン)

東京藝術大学卒業。べルリン音楽大学ハンス・アイスラーに編入し学部及び修士課程卒業。ベルリン芸術大学修士課程卒業。その際推薦され2017年4月より同大学コンツェルトエグザメン課程に在籍し研鑽を積んでいる。これまでに吉川朝子、若林暢、澤和樹、ジェラール・プーレ、オレグ・クリサ、サシュコ・ガヴリロフ、マーク・ゴトーニの各氏に師事。第73、74回日本音楽コンクール第3位。2011年ゾフィ・シャルロッテ王妃国際コンクール(ドイツ)第1位。2012年、13年度ロームミュージックファンデーション奨学生。東京交響楽団等と共演。

安達真理(ヴィオラ)

4歳よりヴァイオリンを始め、桐朋学園大学在学中にヴィオラに転向。卒業後、同大学研究生修了。2009年渡欧。ウィーン国立音楽大学室内楽科を経て、2013年、ローザンヌ高等音楽院修士課程を最高点で修了。2015年、同音楽院ソリスト修士課程を修了。2011年よりカメラータ・デ・ローザンヌのメンバー、2013年よりインスブルック交響楽団にて2年間副首席ヴィオラ奏者を務めた。現在、クァルテット・レストロ・アルモニコ、アラウダ・カルテットのメンバーとして、日本とイギリスを拠点に室内楽にも力を入れている。
公式ホームページ:http://www.mariadachi.com

田原綾子(ヴィオラ)

第13回東京音楽コンクール弦楽部門第1位及び聴衆賞、第9回ルーマニア国際音楽コンクール全部門グランプリ受賞。読売日本交響楽団、東京交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団等と共演。宮崎国際音楽祭、武生国際音楽祭、題名のない音楽会、NHKBSクラシック倶楽部、FMリサイタル・ノヴァ、CHANEL Pygmalion Days室内楽シリーズ出演の他、著名なアーティストと多数共演。2015、16年度ローム音楽財団奨学生。2017年桐朋学園大学を卒業、読売新人演奏会に出演。岡田伸夫、藤原浜雄の各氏、現在パリ・エコールノルマル音楽院にてブルーノ・パスキエ氏に師事。

門脇大樹(チェロ)

東京藝術大学卒業。日本クラシック音楽コンクール第1位・及びグランプリ。第74回日本音楽コンクール第3位。ザルツブルグ=モーツァルト国際室内楽コンクール第1位。ロームミュージックファンデーションより奨学金を得て、イタリアへ留学。その後、アムステルダム国立音楽院(オランダ)にて研鑽を積む。現在、東京音楽大学伴奏科非常勤講師。神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席奏者。これまでに、柳田耕治・雨田一孝・河野文昭・山崎伸子の各氏に、室内楽を、ゴールドベルク山根美代子・岡山潔の各氏に師事。

山澤 慧(チェロ)

東京芸術大学附属高校、同大学を経て、同大学院を修了。大学卒業時に同声会賞受賞、大学院修了時に大学院アカンサス賞受賞。第10回ビバホールチェロコンクール第3位。第2回秋吉台音楽コンクールチェロ部門第1位。第11回現代音楽演奏コンクール"競楽XI"第1位、第24回朝日現代音楽賞受賞。音川健二、藤沢俊樹、河野文昭、西谷牧人、鈴木秀美、山崎伸子の各氏に師事。
チェロアンサンブルXTC、アンサンブル室町メンバー。藝大フィルハーモニア管弦楽団首席チェロ奏者、千葉交響楽団契約首席チェロ奏者。
公式ホームページ:http://www.yamazawakei.com

岡本 潤(コントラバス)

東京藝術大学を経て2013年10月よりNHK交響楽団コントラバス奏者。2010・2011年小澤征爾音楽塾に参加。第8回北陸新人登竜門コンサートにて最優秀賞を受賞し、井上道義指揮・オーケストラ・アンサンブル金沢と共演。第21回宝塚ベガコンクール入選。第15回コンセール・マロニエ21にて1位(2位該当者無し)、第5回秋吉台音楽コンクールにて2位を受賞。コントラバスを松中久儀・今野淳・永島義男の各氏に師事。

9/10(日)出演者

下野竜也(指揮)

鹿児島生まれ。2000年東京国際音楽コンクール<指揮>優勝と齋藤秀雄賞受賞、2001年ブザンソン国際指揮者コンクールの優勝で一躍脚光を浴びる。
国内の主要オーケストラに定期的に招かれる一方、ローマ・サンタ・チェチーリア国立アカデミー管、チェコフィルハーモニー管、シュツットガルト放送響、シリコンバレー響など国際舞台での活躍が目覚ましい。
06年に読売日本交響楽団の正指揮者に迎えられ、13年4月から17年3月、同団の首席客演指揮者。その間11年には広島ウインドオーケストラ音楽監督、14年4月には京都市交響楽団常任客演指揮者に就任。更に17年4月からは広島交響楽団音楽総監督に就任。
公式ホームページ:http://www.tatsuyashimono.com/

小山実稚恵(ピアノ)

チャイコフスキー、ショパンの二大国際コンクールに入賞した唯一の日本人ピアニスト。2006年から全国6都市で行ってきた"12年間・24回リサイタル・シリーズ"は、本年いよいよ12年目を迎える。これまでにチャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ、ロイヤル・フィル、BBC響、シンフォニア・ヴァルソヴィアなどと共演しており、フェドセーエフ、デュトワ、小澤征爾といった国際的指揮者との共演も数多い。
2011年の東日本大震災以降、被災地で演奏を行っている。2016年12月には、ソニーから29枚目のCD『Cantabile』(ベスト盤)をリリース。

東京フィルハーモニー交響楽団

1911年創立。約130名のメンバーを擁する、日本最古の歴史と伝統をもつオーケストラ。名誉音楽監督チョン・ミョンフン、首席指揮者はアンドレア・バッティストーニ、特別客演指揮者ミハイル・プレトニョフ。自主公演の他、新国立劇場などでのオペラ・バレエ演奏、NHK他の放送演奏など、高水準の演奏活動を展開。海外公演も積極的に行い、最近では日韓国交正常化50周年を記念し2015年12月にソウルと東京の2都市でソウル・フィルと合同演奏会を行った。
公式ウェブサイト:http://www.tpo.or.jp/
公式フェイスブック:https://www.facebook.com/TokyoPhilharmonic
公式ツイッター:https://twitter.com/tpo1911