SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2006年10月26日

#53 林 仰 『スクラムという言葉に惹かれている自分がいる』

◆カレー、雑貨、メガネ

—— HPのプロフィールにニックネーム「サンゴリアス君」とありますが、似てますね

思わない、僕は思わない(笑)。第三者にはそう言われるんですが、自分では「どこが?」という感じです。サンゴリアス君には高野さん(貴司)も似ていると思います。絶対似ています。

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—— サンゴリアス君に似ていると言われるのは不本意ですか?

不本意じゃないですけど、嬉しいか?嬉しくないか?と言われれば、嬉しいですけど(笑)、そんなに似てるかなぁ??

—— もうひとつのニックネーム「ローレルキング」というのも最近やっと分かりました

「ローレル」というのは、中野島駅(南武線)の近くのカレー屋の名前です。「週7回のローレル」ともHPには書いてありますが、ネタです、それは。7回は行かないけど、週に1回ぐらいは行きます。行くのは休みの日とか、週末ですね。

—— お薦めメニューは?お店のPRをどうぞ

えっ?いいんですか?...お薦めは「スペイン風カレー」にトッピングでフランクとチーズ、ですね。普通のカレーと違って、真ん中にご飯があって、その上に卵焼が乗っていて、オムライスのカレー版、オムカレーみたいな感じです。

—— 休みの日は何をしてるんですか?

ふつうにゴロゴロしてます。

—— ゴロゴロって...

1人で買い物してますね。ブラブラするのが好きなんです。

—— ブラブラって.....

よく行くのは下北沢で、雑貨を見たり必ず「ゾフ(Zoff)」へ行ってメガネを見て、新作がないかチェックして、気に入ったのがあれば買ったりしてます。人に言わせると、ちょっと変わったメガネ、ってことなんですが、僕の中ではいいなと思ってるんです。でも周りからは突っ込まれるんです(笑)。

—— 視力は?

0.3です、たぶん両眼とも。ずっとコンタクトレンズをしています。コンタクトでもラグビーはぜんぜん大丈夫です。コンタクトはしょっちゅう失くしますから、ぜんぶ使い捨てレンズにしています。

—— 視力が落ちたのはいつ頃からですか?

高校生のときです。特に何か理由があって落ちたんではなくて、勝手に落ちたという感じですが、母親が目が悪いんです。当時ボールが見辛くて、距離感もわからなくて、それでコンタクトにしたら良かったんです。

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◆ぶつかったりするスポーツがむいている

—— 高校は東福岡高校、サンゴリアスに何人か卒業生がいますね

耕太郎さん(田原)が3年のときに僕が1年生、僕が3年のときに長谷川圭太が1年生でした。高校はラグビーの名門ですね(笑)。それぞれ1年ずつしか一緒じゃなかったですが、耕太郎さんは優しい先輩でしたし、圭太はあの体型で最初ロックをやっていて、それからプロップに異動してきました。結構がんばり屋で接することも多かったですよ。

—— ラグビーを始めたのは?

中学(稙田南-わさだみなみ-中)からラグビーを始めましたが、中学にラグビー部がなかったので、大分ラグビースクールというクラブチームでやってました。兄貴がラグビーをやってたので、その影響で始めました。

小学校ではソフトボールや相撲をやっていました。そもそも親父が野球少年だったんです。僕の家族は男兄弟が3人で、いちばん上に男勝りの姉貴がいました。親父は男3人とも高校球児にして野球をやらせたかったようですが、僕はあまり野球が好きじゃなかったんです。

中学のとき相撲大会があって、それに借りだされて出たんですが、県で準優勝して九州大会に出たり、九州大会で団体で優勝したりして、ぶつかったりするスポーツがむいてるんだろうな、と思いました。

—— 当時から体は大きかったんですか?

中学で178cm、100kgでした。親父が縦に大きく、母親はその逆で、僕はちょうどその中間なんじゃないでしょうか。姉貴も女性にしてはデカイですし、兄弟みんなデカかったんです。ラグビーをやってた兄貴はフランカーで、いまでもキッチョムクラブという大分県のクラブチームでやってますよ。本格的にやったのは高校まででしたけど。

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◆中学浪人

—— 高校はどうやって決めたんですか?

大分舞鶴に入りたくて、推薦枠が1つだけだったんですが、そもそも大分舞鶴からは「獲るから」と言われていました。ところが、いま東芝にいる藤井航介(東芝/ロック/192cm,110kg/同志社大出身)が同い年で同じラグビースクール出身で、2人とも大分舞鶴を受けたんです。そして受かったのは藤井でした。僕は私立も受験して受かってたんですが、大分舞鶴以外に興味がなくて、浪人したんです。

—— 中学で浪人とはご両親は何と?

親はすごいです。「お前のやりたいようにやれ」と言われました。「舞鶴でやりたい、兄貴もいたんでやってみたい」という気持ちがあったので、ずいぶん迷いました。大阪工業大とか国学院久我山とか、追加募集しているところを探してみたんですが、「親の元でやりたいな」という気持ちもあって、浪人しました。

浪人中は大分府内学園という予備校で1年間勉強して、1年経ってもう1度大分舞鶴を受けようかと考えたときに、熱が冷めていたんです。東福岡には当時、谷崎監督がいて、わざわざ実家まで誘いに来てくれたんです。いまでも覚えているのが、東福岡の入試の前日に谷崎監督は学校が終わってから僕の実家まで飛んできて、「いまから一緒に福岡へ行って試験を受けよう」と熱いことを言ってくれました。

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正直、舞鶴と東福岡と迷っていて、そのときは親元だったので福岡で1人暮らしするイメージがぜんぜんなくて、守りに入っていた感じでした。でも前年、大分舞鶴に落とされて、そんなんでもう1年経ってまた受けてそこへ入っても面白くない、だったら同じ九州で見返してやろう!って思ったんです。

谷崎監督はそのとき夜中の12時を過ぎるまで話をしていて、そのまま監督の車で福岡へ行って自宅に泊めてもらって、奥さんの作ってくれたお弁当を持って、次の日に試験を受けました。試験はできてます(笑)。できてなきゃ何のため予備校に通ったのかってことですから。

谷崎監督に会ったのはそのときが初めてでなくて、中学時代のラグビースクールのときに会っていました。九州大会に出場したときに会って、チームメートも体が大きかったので、「全員でうちのチームに来いよ」と監督が話してました。その頃は、大分舞鶴か雄城台(おぎのだい)に行くのが、大分ラグビースクールの中では当たり前でした。

◆親のありがたみを実感

—— 東福岡高校に入って初めての1人暮らしですね

1人暮らしは大変でした。いま思えばすべて、炊事、洗濯を自分でやり、学校へも行ってラグビーもしなきゃいけないですから、親元を離れて親のありがたみを実感しました。東福岡のラグビー部は、いまのサントリーのチームみたいに、当時の最先端ラグビーをやっているチームでした。それまでのラグビーとまったく考え方が違うんです。ラグビースクールでやってたときとは違って、組織でやるチームでしたし、ここへ来て良かったし来た甲斐があったと思いました。

※田原耕太郎からのコメント
「仰は入ってきた当時もデカかったですよ。試合にもチョコチョコ出てました。中学で浪人したのは、当時ラグビーをやってる仲間はみんな知っている状態でしたので、上級生はそうでもないけど、同級生や下級生は、その辺は微妙だったんじゃないでしょうか。いつの間にか"タメ語"になってたとは思うけど」

1人暮らしは1年間だけでした。2年目からはサニックスのラグビー部の寮に入れられました。サニックスはスポーツフェローみたいに地域に対しての活動をやっていたりしていて、谷崎監督がサニックスの社長と仲良かったこともあって、サニックスの練習場で合宿したりもしていたんです。それもあって入れられました。金銭面でも安いということもありました。

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高校生で社会人の寮に入るのなんて初めてでしたが、サニックスのラグビー部の人たちには可愛がられたと思います、たぶん(笑)。高校生にとっては気まずいんですが、大浴場で一緒になったりしました。サニックスの練習時間はわからないんですが、僕らは帰るのが10時、11時でしたから、それ以外ではあまり一緒にならないくらい長くて厳しい練習でした。

その後サントリーに入る前に、教育実習で東福岡の練習に参加しましたが、練習時間がかなり短くなってました。谷崎監督にも僕が入学した後いろいろあって、2年目に奥さんが病気になられて練習に来たり来なかったりとなって、3年目はまったく来れなくて春先に奥さんが亡くなって、次の年まで監督をやってから、子供を連れてニュージーランドへラグビーの勉強に行かれました。

日本にいない間も監督の籍は置いてあって、監督の法政大学時代の同期の川内鉄心さんや藤田コーチがいらっしゃって、監督のいない間をサポートしている感じでした。ちょうど僕が実習に参加した時、シーズンになったということで監督が帰って来て、一緒に教えたり、むこうのラグビーはどんなラグビーをやってるかとか、夏はラグビーをしないでサッカーや野球など、違うスポーツをやっているなんて話もしてくれました。

◆コテンパンにやっつけた

—— 東福岡高校は大会ではどうだったんですか?

1年のときに花園ベスト16でした。2年目は花園予選の決勝で東筑高校に負けて、3年目は春も全国大会で優勝するなど無敗のチームでその年の優勝候補だったんですが、最後は予選の決勝で、後半ロスタイムに入って相手がハーフウェイラインからペナルティゴールを狙って、逆風だったのが蹴る瞬間に追い風に変わり、劇的な幕切れで敗れました。

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大分舞鶴とは九州大会で当たりましたんで、コテンパンにやっつけました。新人戦があって、優勝、準優勝チームが九州の1・2位グループに分かれて試合をするので、舞鶴とは1位グループで必ず当たるんです。初戦でポーンと当たったりしたら、喜びましたよ。そして勝って「やってやった」みたいな喜びがありました。その頃からポジションはプロップでしたから、もう10何年やってますね。

—— そして明治大学へ

明大もいろいろありました。慶應の当時の上田監督(昭夫)からの「ウチに来いよ」という甘い言葉にやられて、そのときはAO、アドミッションオフィスという入試があって、それを受けました。春先だったんですがそれに落ちて、そこから行く大学なんてなくて、もう花園への県予選が始まってるときで、入試関連はほとんど終わっていて、「これじゃあ高校の二の舞かな?」と思いました。

最後に帝京と明治から話があって、結局明治に決めました。明治は当時から"重戦車"と呼ばれていて、それに影響を受けたのと、中学のときから早明戦に憧れていたので、明治に決めたんです。厳しいと評判の明治ですから、入る前は恐怖でしたし(笑)入っても恐怖でした(笑)。絞りで腕立て伏せを千回以上やったり、シゴキのエピソードはいろいろいくらでもあります。でもここでは言えないし書けません。例えば電話の当番をしていながら、先輩が部屋から「おーい」と呼んで3回呼ばれても行かないとアウトとか。

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試合は1年目から早明戦に出て、1年のときは3番で出て、テレビでは見てましたが実際に国立が満員で、その場に自分が立っていると考えたら、信じられなくて何をやってるのか分からなくなっちゃいました。最初の30分間そうでしたね。でも、ここに立っているのは自分なんだからやらないといけない、と思ってその後はやりました。

2年目に首のヘルニアをやって、1年間何もできずに半年入院でした。3年目は早明戦に出ました。4年目も早明戦前まではスタメンで出ていましたが、前日のメンバー変更でリザーブにまわりました。フジテレビのウッチー(内田恭子アナ)が取材で来ていて、試合の前の日のジャージ授与式で、「出ない選手の分まで死ぬ気で頑張ってくる」と泣きながら言ったのが全国放送されて、恥ずかしかったですよ。

その早明戦では、後半20分で交替して入って、2トライしました。この2トライ目は、未だに秩父宮のオーロラビジョンで流れているんです。トップリーグでも流れているはずです。このときは、スタメンで出れなくて悔しくて、それでまたスタメンで出たやつが先制トライをかましてたので、ガムシャラに何が何だか分からない感じでやっての2トライでした。ラグビーをやっていて初めての公式戦トライの場が、そんな大舞台でした。

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◆最先端を行くラグビー

—— 5年目の大学があるんですね

4年で留年したんですが、ウチのチームは5年目でも出られました。法政大学なんかは4年で終わりの筈です。5年目は夏合宿最終日にアキレス腱を切って、1年間棒に振りました。そんなときに、サントリーの永友監督(洋司/前監督)から、いいからリハビリしにウチに来いと言っていただいて、サントリーに来ました。その時はサントリーから内定をもらっていました。

—— 高校時代にお世話になったサニックスは考えなかったんですか?

九州に帰ってサニックスに恩返ししなきゃいけない、という気持ちはありました。でもサントリーはその年に優勝していて、しかもウェールズにも勝っている年で、それを見てこのチームは最先端を行く先頭を切ったラグビーをやっているんだなと思って、大学のコーチをしてくれていたサントリーの岡安さん(倫朗)にもウチでやってみたら?と声を掛けてもらっていたので、サントリーに決めました。

—— そのサントリーの1年目、去年はどうでしたか?

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怪我で1年間、出たり出なかったりでした。アキレス腱がまだしっかりリハビリできていませんでした。もういまは大丈夫ですし、首も調子がいいです。トップリーグにはまだ出ていずに、1年間ずっと下のチームでやってきました。今年の夏合宿で復帰したんです。

—— その今年の目標は?

黄色いジャージを着て、ピッチに立つことです。

—— その日は近いですか?

何とも言えません。自分次第です。この前もチャンスを逃してしまったんで、ポジション的に期待されるのはスクラムやセットプレーなので、常に安定してるセットプレーを目指さないといけないと思ってます。波なくやることが、今の自分の課題です。

◆ラグビーと言えばスクラム、スクラムと言えばラグビー

—— ラグビーの魅力って何ですか?

プロップなんで他のポジションの選手たちがどう思うか分かりませんが、スクラムはラグビーの中でもちょっと違う種目だと思うんです。いろいろ工夫ができますし、慎さん(長谷川)と酒を飲んでいてもスクラムをテーマに何時間でも話せちゃうんです。"スクラム"という言葉に惹かれている自分がいます。

ラグビーと言えばスクラム、スクラムと言えばラグビー。体を張って相手ボールをターンオーバー(攻守逆転)する時の快感があるし、スクラムトライを取った時の快感を味わってみたいと思います。相手ボールをターンオーバーしながらそのまま押し込んでトライ、ですね。

スクラムもそうですが、8対8のフォワードでも1人ずつがどれだけ頑張って押せるか?8人がどれだけまとまれるか?その中でも前3人が顔を見合わせて協力して、後ろ5人がいかに前に力を伝えられるか?それこそまさに"ONE FOR ALL, ALL FOR ONE"ですよね。すべてそこに繋がってくるんじゃないかと思います。

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—— 将来展望は?

教職を持っています。欲張りなんですが、なれるんであれば、鍼灸師の資格を取って、接骨院を開いて、近くに高校のラグビーチームがあれば、トレーナーをしながら教えていけるんじゃないか、なんて思っています。高校の時からヘルニアの持病持ちだったんで、高校の時にトレーナーと接した時に、こういう資格や仕事もあるんだと知ったんです。

復帰できたのもその人たちのお陰でしたし、そういう仕事を自分もできたら楽しいだろうなと思ったんです。順平さん(吉岡/サンゴリアス・トレーナー)の"ゴッドハンド"で助けてもらってますし。現役を続けられる間はラグビーをやって、引退した後に考えようと思っていますが、教職があるんで教員採用試験を受けてみようとも考えるし、サントリーで今やっている営業の仕事を続けていくことももちろんあり得るし、その時になってみないと分かりません。

サントリーに決めた時のことで、言っておきたいことがあります。サントリーに入る前に、スカウト担当の武山さん(哲也/チームディレクター)と長谷川慎さんと食事する機会があったんですが、その時に慎さんに「お前はサントリーでスクラムを押すんではなくて、日本代表になって世界を押すスクラムをしてみたくないか」と言われたんです。

そう言われて、すぐ「はい!」って返事しちゃいました(笑)。今使っている携帯電話でなくて前の携帯に、サントリーに入ることが正式に決まった時の、慎さんからの留守電がいまも入っています。「サントリーの長谷川です。内定の話、聞きました。嬉しいです。また連絡します」

(インタビュー&構成:針谷和昌)

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