SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2006年7月11日

#29 山口 大輔 『ボールを持って走れ、相手が来たら捕まえろ』

◆長与町出身選手が多い

—— 出身地は「にしそのぎぐん」と読むのですね

はい、長崎市と隣接したところで、市の中心地まで車で20分ぐらいのところです。ラグビーが盛んかどうかはわからないんですが、長与町出身のラグビー選手は結構多くて、去年まで東芝にいた1つ上の品川さん(英貴)とか、1つしたに明治の松添(健吉/九州電力)や、早稲田にも小森(允紘/リコー)がいて、小森は出身は長与でないかもしれませんが、うちの高谷順二も違ったかなぁ?とにかく多いんですよ。

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僕はラグビースクールの出身ではないけれど、町にラグビースクールがあったし、市の方のラグビースクールに通っている人もいたので、盛んだったのかもしれません。

—— そういう環境に育ったのでラグビーを始めた?

まったくそういう意識はなかったです。ラグビーをやろうって思ってなかったんです。小学校ではソフトボールで、長崎県大会の2位になったり、中学までは野球をやっていたんですが、野球部が弱かったんです。ショートをやっていて、小学校のときはそこそこできたと思いますが、中学では普通のレベルだったと思います。それでこのまま野球をやるよりも、他の違うスポーツをやりたいと思いました。

高校は実家から徒歩10分のところにあった、公立の長崎北陽台高校に受かって入り、サッカーやバスケットは中学で上手かったやつが来るので、中学で部がない競技に行ってみようかと考えて、ハンドボールに入ろうかと思ってたんですが、友人がラグビー部に入るので一緒に行ってみようと思って行ったら、そのまま入っちゃったっていうパターンです。

—— 個人スポーツのことはぜんぜんでてきませんね

そうですね、個人スポーツのことはぜんぜん考えていませんでした。小さいころから、チーム感覚があったんでしょうね、意識してはいませんでしたが。

◆無責任な自分勝手なプレーに対して厳しかった

—— 高校ではどうだったんですか?

北陽台ラグビー部は県の中で強豪だというのは、もちろん知っていたし、強いとこだなとは思っていましたが、浦先生(敏明)という方がいらっしゃって、その監督にラ グビーをゼロから教えてもらったんです。

—— きつかったですか?

厳しかったです。いちばん厳しいところは、何かができないから怒られるのではなく、無責任なプレーや、自分勝手なプレーに対して、厳しかったんです。まだラグビーがぜんぜんわかんないときでした。

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フォワードが小さくて機動力が有名なチームだったんですが、当時僕は180センチの身長があって、ガリガリに痩せていて同級生の中で2番目に背が高かったんです。いま考えればロックか3列目かという感じですが、監督からはバックスだと言われました。

後で監督に聞いたんですが、何であのときバックスにしたんですかと言ったら、パス回しをしてボールで遊んでいるところをみて、お前はバックスだと思った、ということでした。それがいままで続いている大きなきっかけだと思います。フォワードになったら、たぶんつぶれていました。

—— 面白かったんですか?

面白かった。しかも4月に入学して、4月末かゴールデンウィークか、いやもう少し1ヶ月が2ヶ月ぐらい経ったときに、3年生が試験勉強か何かで、まったくいない日に練習試合があったんです。2年生以下のラグビー経験者ばかりの中に、「お前、来い」と言われて連れて行かれて、後半から出されたんです。

ウイングをやれてと言われて、ウイングと言われてもどこなんだかわからない(笑)。たぶん不安な顔をしていたんでしょうね、「ボールが来たら持って真っ直ぐ走れ、相手が来たら捕まえろ」と言われました。

そのとき1年生で出たのは確か2、3人だったと思います。必死だったんで、どんなプレーをしたかあんまり覚えていませんが、抜かれた、とか、落とした、というイメージはないんで、普通にやってたんじゃないかと思います。やっぱり入ってすぐに試合に出れたので、ハマリましたね。

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◆最後まで2回負けただけ

—— それからずっと試合に出た

いや、強いチームだったですし、3年生が来たらメンバーにも入れません。3年生が卒業してすぐぐらいに、次の年の2年、1年生の大会である新人大会があって、そこから出てますね、たぶんぜんぶ出ています。

その年の新人戦では負けたんですけど、優勝したのは長崎北高でした。2年生になって高校総体の長崎県大会があって、確か6月ぐらいだったと思いますが、その大会ではこの北高に決勝で勝って優勝、その勢いで九州大会でも優勝しました。その年の花園予選ではベスト4まで行って、5点差でまた北高に負けたんですが、こっちは2年生が10人近く出ていて、これ、自分らも行けるんじゃないか、というか、次の年は行けて当然という気持ちになって、そこから最後まで、1回、いや2回負けただけでした。

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3年に上がる前の新人戦で優勝して、九州大会の決勝で佐賀工業に負けました。東芝の立川剛士、コカコーラの渕上宗志とかがいたチームでした。それ以降、夏の高校総体で優勝、九州大会で優勝、花園予選で優勝、そして花園の決勝で相模台工業、トヨタの難波英樹がいたんですが、そこに負けて、この2回しか負けていません。

—— そのメンバーはみんな大学でもラグビーを続けたんですか?

僕らの代は、関東学院に1人、筑波に1人、中央に1人、それぐらいでしたが、僕らの下には、明治に行った松添、早稲田に行った小森がいました。

◆明治は個人が強い

—— 明治卒ですが、明治は厳しいと評判だったのでは?

いろいろあって、最終的に明治に入りました。明治のことはまったく知らなかったんです。関東とか関西の強豪大学にいるやつらは、先輩から明治が厳しいと聞いて知っていますが、北陽で僕は3人目の明治なんだそうで、僕の前の先輩もだいぶ上の方だったので、接点がないんですよ。だからぜんぜん知らなくて、行ってみて、何だ?!と思いました。

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かなり厳しくてすごいところではあったんですが、そんなに苦しんだり、ヤダァーっていう逃げるような気持ちとか、辞めようとか、1回も思ったことはなかったですね。たぶんみんなが厳しくて、その中でハマる(先輩のターゲットになる)やつがいたんですが、僕は結構そこには入らなかったんです。シゴキは一律で、みんなもやっているし、きつい思いをしているんだと思って耐えられたんです。中でハマったやつは、とことんやられましたから、逃げたりかわいそうなやつもいて辞めていきました。

—— ラグビーの中身も大学は違いましたか

大学に入って思ったのは、明治は強かったんですが、個人が強いんですね。個人の力がBチームでもCチームでも、1対1がズバ抜けて強い人がいっぱいいました。まとまって強い、というイメージはぜんぜんなくて、個々の強さがあって、自分も個人として強くなってかなきゃいけないな、と思いました。自分ではぜんぜん気がつかなかったんですが、入ったとき10kg痩せました。

◆オール早明戦でトライ

—— ご両親とか心配したのでは?

なかなか実家には帰れないし、親が来ても親と会ってきます、という自由はないんです。後から聞いたら両親で何かこっそりとグラウンド(世田谷区八幡山)に来て練習を見たということですが、当時はこっちから電話してもいけないんです。こっそりしていましたけど(笑)。

自分では痩せたことすら気づいてなかったんですが、長崎県ラグビー協会の会長だった平川さん、この方は明大OBなんですけど、OB会の後に何かの機会で練習に来られて、長崎にいるときからよく話をさせていただいてたので、僕を見て「大丈夫か?お前は....げっそりしてるじゃないか」と言われたんです。あぁ、そうか、とそのとき気がつきました。でも、そう言われても、やっていくしか無いですからね(笑)。

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—— 大学の初試合は?

いちばん初めて試合に出たのは1年生の終わりでした。オール早慶明の試合で、シーズンが終わった後の試合に出ました。オール早明戦です。トライしたんですよ、そのとき。1年のときは仕事もきついのをやっていましたが、シーズンに入ったら、同期の山岡(俊)が1年目でレギュラーになったんです。

それで、あぁ頑張ればレギュラーになれるんだ、って初めて気がついて、それまでラグビーのプレー以外の仕事を必死にやっていたんで思いもよらなかったんですが、山岡を見てから、9、10月からそう思い始めて、1年の終わりにリザーブで途中出場したんですね。

オール明治には相当歳とっている人や、雑誌なんかで見て憧れていた藪木さん(宏之)、神戸製鋼のスタンドオフですがその藪木さんのパスをもらって、抜けてトライしたと思います。自分も頑張ればできるなという自信が、多少そのときについたと思います。

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◆高校からの2人でセンターを組み始めた

—— レギュラーになると仕事はしなくていいんですね

レギュラーは基本的にしなくていいんです。先輩でお前しなくていいよ、と言ってくれる人もいれば、1年生同士でも、お前はいいよ、と言ってくれるやつもいますが、そんなこと言わないやつもいっぱいいますよ。

2年になってもレギュラーに定着したわけではなくて、出れたのは3試合ぐらいかな?公式戦は1、2試合だったと思います。2年だと自由な時間もできたので、頑張ろうって黒崎侑一(現・明治大学コーチ)という親友と一緒に、渋谷にある彼の知り合いのスポーツクラブまで自転車で40~50分かけて通いました。1年近く通ったんじゃないでしょうか。

3年になって、キヨノリさん(田中澄憲)がキャプテンで、当時の明治はキャプテンがメンバーを決めていたんですが、それで使ってもらえるようになりました。3年からレギュラーに定着して、松添健吉は2年からセンターに定着してたんですが、高校から一緒にやってた2人でセンターを組み始めたんです。

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4年のときは僕がバイスキャプテン(副将)で、山岡がキャプテンでした。大学での成績は、1年のとき大学日本一、そのあと社会人に負けて、2年でも日本一になって社会人に負けて、3年は準優勝で社会人に負けて、4年でも準優勝で社会人に負けました。

3、4年生のときの想い出は結構ありますよ。最後に決勝で負けた相手は関東学院で、向こうには立川剛士、淵上がいました。学生最後の試合だったので、終わったなぁっていう感じはありました。両親は来ていました。連絡とっちゃいけないのは1年のときだけで、3年生からは逆に何でもOKなんです。

—— そういう自分が体験した厳しさは、自分が上級生になったら変えていったんですか?

年々ゆるくなっていると思います。各代各代ずーっとゆるくなってきてると思います。たぶん僕らの前の人も、もっともっと昔はすごかった、と言っていたと思いますし、いまはぜんぜんもう違いますよ。

◆かなりの数の誘いをいただいた

—— 明治を卒業した後もラグビーをやろうと決めていたんですか?

4年になる前には、企業のリクルート活動があって、幸せなことにかなりな数の誘いをいただきました。ぜんぶで12社ぐらいあったと思います。東京、関東に残ってやるか、九州に帰るか、たぶん九州出身の選手はみんなその選択肢を持っていると思うんですが、九州なら古豪の九州電力だし、関東に残るならトップチームでやりたかったんです。トップチームでできればいいなと思って、最終段階まで迷いました。

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それで、せっかくだったらトップで頑張ってやろう、と決めたときに、サントリーはとくに誘われていたわけじゃなかったんです。熱心に誘ってくださるところもって、でもいまでこそプロ選手もいますが、当時はアマチュアスポーツ、企業スポーツで、その先の人生も長いことを考えると、社会人として仕事していかなきゃいけないし、仕事もきっちりやって、ラグビーはラグビーで頑張れるところと考えました。

それで誘われてませんでしたが、キヨノリさんからもサントリーの話を聞いていて、サントリーには自分から声を掛けたんです。入れてくれませんか?と当時は三郎さん(武田ゼネラルマネージャー兼チームディレクター)がリクルートを担当していたので言ったんですが、いまでも覚えてますけど「センターは難波英樹を誘っているから、断られたらお前を誘うわ」って、かなりなめた返事を返されました(笑)。「じゃあ来なかったら教えてください」と言って、結局、難波英樹はトヨタへ行ったので「サントリーで採ってください」「じゃあ会おうか」となって、サントリーに入ることになりました。

—— このやりとりには、結構我慢が必要だったのでは?

明治のときも、すごく我慢して続けようとか、辞めたいと思わないようにしようとか、とくに意識していたわけではないですし、ムカつくこととか、嫌なこととかがあっても、あまり気にしないタイプなのかも知れません。そう最近思い始めました。

◆自分で自分を生きやすくしている

—— 試合中は怒らない?

怒る気持ちもわかるし、怒る人は怒ればいいと思うし、怒るときももちろんあるんですが、それはそうだけどいいや、と思っちゃうのかな。自分で自分を生きやすくしているのかも知れません。

試合中のラフプレーや、シンビンとか、見えないところで何かしたりとかは1回もないですよ。関係ないでしょう、どうでもいいでしょう、その怒りとかの感情は。何かやり返すことは、いらんことするってことであり、その試合で勝つことに、何ら関係ないと思います。ラグビーはそれを超えられるものだと思うんです。

—— 怒るときは?

自分はこう絶対に行きたい、ということへの横やりに対しては、怒ります。自分のやりたいことにこられた場合ですね。例えば.....何だろう.......ここ府中のグラウンドでチームでもめて、殴り合いになったこともあります。

2回あって、両方とも同じようなことだったんですが、例えば試合に負けているとき、上手くいかなくてきついときに、じゃあこうしよう、みんなで頑張ろう、踏ん張ろう、こうしようって言い合うときがありますよね。それって自分自身もそうしなきゃいけないし、みんなもそうしないと流れは変えられません。

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誰か1人でも「何で上手くいかないんだよ」とか「何してんだよ」っていう雰囲気のやつがいたり、踏ん張ってやろうって言っているときに、座って下向いているやつに、カチンときたりするんです。1回は殴り合いになって、もう1回は頭から水をぶっかけました。

これ、ここまでの話って、いいやつ路線ですね(笑)。自分では理不尽なことに怒っているつもりですが、僕が自分で気がついていないところもあるかも知れません。

◆サントリーに入ってから熱さを意識するようになった

—— でも、冷静というか、他の人と少し違う見方を持っているところがある

視点が違うかも知れません。それは微妙なところで、清宮さんもラグビーは熱いスポーツだとか、熱をもってやろうとか言っていて、その通りなんで、いままでのこの話は、客観的に見てるなぁって感じに聞こえるかも知れません。

でもラグビーですから、そこには熱とか、体をぶつけ合うとか、そこで負けちゃったらかなわないスポーツですから、熱くなってやるのも大切だということは、充分わかっています。

サントリーに入ってから、先輩を見ていても、大久保直弥さん、坂田(正彰)さんなんか、練習や試合が始まる寸前まで「お~~い」なんて感じですが、いざやり始めたら、熱くなってガムシャラに相手にいったりします。見ていてそういうのが、すごいなぁといいお手本になりました。だからサントリーに入ってからですね、熱さを意識するようになったのは。

学生時代にも言われたことがあります。キヨノリさんがキャプテンで明治での最後の試合前に、話があるって呼ばれて、お前はいつも冷静だけど、ラストゲームだしガムシャラにやってくれ、と言われました。冷静さも大事だけれど、熱くなって心をひとつにしてやることも大事なんだ、とキヨノリさんは言いたかったんだと思います。

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◆浅田朗はガムシャラにやる

—— いままでのラグビー人生の中で最も影響を受けた人は?

浅田朗かな。同期で、サントリーで初めて会いました。2年目から朗もセンターをやり始めることになって、センターでライバルとしてレギュラー争いをしています。いまもそうですけど、朗はタイプ的にさっきの話のガムシャラにやるタイプ。僕はそうでもなくて、練習をやるにしても、先ずこの練習は何でやるんだとか考えることが先にきます。彼は逆でとにかくやってみる。結局やるまでの2~3分のところで、先ず遅れていました。自分もやってみてもいいんじゃないか、普段はいいけどやるとなったら先ずやってみるのがいいんじゃないか、そうしよう、と影響を受けました。

2年目は朗がほとんど出て、3年目は逆に僕が出て、4年目は途中まで僕が出てて怪我してしまいました。そんな感じでいままでずっとやってきています。かなり切磋琢磨できたんじゃないかなと思います。

—— 今年のサントリーはどうですか?

振り返ると1年目は全国大会の予選負け、いまとシステムが違ってトップリーグはなかったんですが、土田さん(雅人 元監督)が3年でサントリーのスタイルを築いて、洋司さん(永友 前監督)がその流れを受け継いで、一時期築いたラグビーがちょっとずつ様変わりしてきたと思うんです。土田さんが3年、洋司さんが3年、この6年間だいたい大筋で同じラグビーをやってきました。

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今年からの清宮さんが考えるラグビーは、いままでとまったく違うものをやり始めたという感じで、個人的にはとっても面白いですね。そのラグビーをできるように練習して、試合でも出せてという状態ですね。6年間だいたい同じことをやってきて、ここで新しいことにチャレンジできて、個人的に面白いと思います。

オープン戦ではヤマハには負けたけど、内容は良かったし、試合でチャレンジしていることに、そこそこ結果がついてきているし、次のチャレンジができるというのは、チームにとってとてもいいことだと思います。個人としても、いい結果が出て次に行けるので面白いですね。ここしばらく感じなかった、新しいラグビーに変わっていると思います。

◆スターターとして出たい

—— 今年の目標は

個人的にはスターターとして試合に出たい。チームはもちろん、三冠?ことしから二冠ですか?トップに立つことですね。

—— あらためてラグビーの面白いところは?

球技なんですけど、チームスポーツで団体スポーツで、1個のボールをチームで体を張って獲得してトライするところ。個人の格闘技でもないし、まったくの球技でもないし、チームで格闘もする、でも球技だっていうスポーツ、アメフトとかありますが、 他にないでしょ。

—— プレーでいちばん気持ちがいいときは?

やっぱりたぶん、自分がトライすることもそうですが、チームがトライする一役をできたときとか、チームがトライされるピンチを救えたときとかじゃないですかね。大ピンチに誰かが頑張ってタックルして、トライされるのを防いだときとかに、達成感 があります。

ラグビーは、個人技でなく、ただの格闘技でもなく、でも格闘しないと球技ができない、ボールが動かない、そういう状況にボールがある、というイメージですね。

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—— 将来のビジョンは

今年30歳になるんで、あと何年できるかもわからないので、練習でもグラウンドでラグビーできる状態にあるときは、それを幸せに感じて、これが最後の練習かもしれないと日々思いながら、やれることをやっていきたいですね。そして少しでも長くプレー ヤーとしてできたらいいなと思います。

それが不可能になったときには、せっかくここまでラグビーをやってきたんですから、何かしらラグビーに関われることをできたらいいなと思います。

(インタビュー&構成:針谷和昌)

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