Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第1回
「ツバメきたる」

作・達磨信

 会社の同僚であろう。良直はカウンター席の右隣に座った二人の若いビジネスマンの会話が面白くて、シングルモルト白州の輝きを映したショットグラスを傾けながら耳をそばだてる。
「ランチを食べて会社に戻るときにツバメを見たんだよ。猛スピードで街路樹の上を飛んでいった」
「まさか。こんな都心にツバメがいるはずはないだろう」
「そうかな。まぼろし、ってやつかな。でも、ツバメだった、絶対に」
「いや、幻想だね。疲れているんじゃないのか」
 声を落としながらの彼らの会話から、突如として良直の脳内スクリーンに幼い頃の記憶が映し出された。

 良直は大学進学で東京に出てくるまで、深い緑に囲まれた町で育った。彼には有次、通称ユウちゃんという同級生がいて、高校卒業までずっと同じ学校に通った。
 ユウちゃんの家は味噌づくりの蔵元で近隣に知られた名家だった。土間の玄関はやたらと広く、風通しはいいものの蔵から漂う独特の香り、匂いがする。良直はよちよち歩きの頃からユウちゃんの家に遊びに行きながらも、香りが気にならなくなったのは小学生になってからである。
 30年ほど前、たしか小学4年生になったばかりの春だった。いつものことで、学校から帰ると宿題もしないでユウちゃんの家に遊びにいった。その日は玄関の中にツバメが飛び込んできた。ツバメは慌てる様子もなく、悠然と飛びまわる。
 その姿を目で追いながら良直が「ツバメは、味噌の匂いが好きなんじゃないのかな」と言うと、「決まっているよ。毎年、家の軒先の巣に戻ってくるんだから」とユウちゃんは応えた。
 すると「有次はおバカさんね、まったく」と声がした。玄関口を見やると、ユウちゃんの姉の藍が立っている。二人に近づいてくる中学生になった彼女の真新しい制服姿を見て、良直は何故かドギマギした。
 ユウちゃんが「人のことをバカっていうな。ツバメはこの家が大好きなんだぞ」と言い返す。藍は「たしかに大好きなんでしょうよ。でも、有次はおバカさんだから、お父さんが前に教えてくれたことを忘れているでしょう」と、大人ぶった口調で応えて、弟のオデコをコツンと小突いた。
 ユウちゃんはいつになく反抗的で「バカ、バカって言いやがって」と姉の肩をドンと強く押した。藍も負けてはいない。互いに両手で肩を強く押し合いはじめる。放っておいたら土間の上で取っ組み合いになりそうで、良直は慌てて二人を引き離そうとした。
 良直が藍の左肘を掴んだ瞬間、勢いで制服の袖を引っ張る形になってしまい、ブチっと嫌な音がした。肩口あたりの縫い合わせ部分の糸が切れたらしい。
 わずかの沈黙があり、次に「なにすんのよ」の藍の怒り声とともに良直は突き飛ばされる。不安定な体勢でいたために、土間に尻餅をついてひっくり返り、後頭部を打った。仰向けになった瞬間、痛みを感じながらツバメが表へと飛び出していくのが見えた。気づくと大きなたん瘤ができていた。
 それからしばらく、ユウちゃんは出会う度に良直の後頭部を触っては声をあげて笑った。ただ、良直と藍との間にはなんだか気まずいフィルターがかかり、お互いにおよび腰で接することになる。
 彼らは父親から、多くの鳥の嗅覚はあまり発達していない、と聞かされたことがあったらしい。ユウちゃんはそれをすっかり忘れていたのだった。

 ベテランのマスターが若い二人の相手をしている。
「銀座のデパートにツバメが巣をつくっているニュースをテレビでやっていました。幻想とは言い切れません。昔に比べれば都心では希少な光景ですが、ちょうどいまの季節らしい話で、楽しいじゃないですか」
 マスターの話に、ひとりは「ほら、やっぱりツバメだよ」と喜び、もうひとりは「ほんとうなのか」と驚いている。
「たとえ幻想でも、人の気持ちが優しく癒されればよろしいのでは」
 マスターはそう言って、良直の前に置かれた白州のボトルに手をかけ、「白州蒸溜所に行かれたことはありますか」と二人に聞いた。どちらも首を振り、ひとりが「写真で見たことはあります」と答えた。
 頷いたマスターは「甲斐駒ケ岳の麓の深い森にある蒸溜所で生まれ、その森の貯蔵庫で熟成したモルトウイスキーがこの白州。ノージングしてみませんか。サービスです」と言って、二つのテイスティンググラスに少量の白州モルトを注いだ。
 二人は慣れない仕草でノージングする。「いかがですか」とマスターに問われても、どう表現していいのかわからず困惑している。
「ほんのりスモーキーで、ミントのような、森の若葉のような清々しい感覚がありませんか。ウイスキーで森林浴。白州モルトは都会のバーを森にしてくれます。幻想という言葉が当てはまるかどうかわかりませんし、こじつけと言われても仕方がありませんが、こころの持ちようです。では、ゆっくりと口に含んで味わってみてください」
 マスターに促されてひと口啜ると、「たしかに、言われてみれば、爽やかな森の印象があります」「ウイスキーを飲みながら、気分は森林浴。面白い」と二人は笑顔になっている。
「どうです、ソーダ水で割って見ましょうか。白州ハイボールで森の清涼感をたっぷりと味わってみませんか」
 そうすすめながらマスターは良直のほうに顔を向け、「最後の一杯、同じでよろしいですね」と声をかけてきた。いつも最後は白州ストレート二杯で締めるから、それでいいよね、と念を押したのだった。
「いや、ツバメ返しの現実を味わっているわたしにも、白州ハイボールをください。すっきりと爽やかに帰ります」
「えっ、なんと珍しい。ハイボールで締めるんですか。それにツバメ返しの現実って、なんのことですか」
 その問いに答えることなく、良直は後頭部に手をあてながら笑ってごまかす。
 帰宅が遅くなっても、玄関ドアを開けると必ず出迎えてくれる。しかしながら「おかえりなさい」につづいて「寝る前に、しっかり歯を磨いてね」が決まり文句となっている藍の顔が、ショットグラスに映り込んで消えないのだ。

(第1回了)

絵・中村しし 写真・児玉晴希

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