バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

ピューリッツァー・プライズ

ウィリアムはサンフランシスコで生まれた。彼の父はゴールドラッシュ時代に銀の鉱山を当て、炭坑オーナーとなった大富豪で、カリフォルニア州上院議員にもなった人物である。

ハーバード大学にウィリアムは入学するものの退学。1887年、父が所有していたサンフランシスコの新聞社を譲り受けると、たちまちにして手腕を発揮した。

そしてジョーゼフの新聞が好調をつづけるのを見て、ウィリアムは1895年、ニューヨークに進出。ニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙を買収するとともに一部紙面をカラー化する。ここからジョーゼフとの発行部数競争が激化することになる。

19世紀後半の新聞はイエロー・ジャーナリズムに染まっていた。この言葉はジョーゼフのニューヨーク・ワールド紙、ウィリアムのニューヨーク・ジャーナル紙の泥仕合から生まれたものだった。

1896年、ウィリアムはワールド紙の記者たちを引き抜きにかかる。ついにはワールド紙日曜版の人気漫画、黄色い服装をした少年が登場する“イエロー・キッド”の漫画家まで引き抜き、そのまま自分のジャーナル紙に連載させるという荒技に出る。ジョーゼフは別の漫画家を立て、“イエロー・キッド”の連載をつづける始末だった。

イエロー・ジャーナリズムという言葉は、こうした発行部数拡大レースの激化を象徴するものでもある。

この2紙に限らず、当時のアメリカの新聞は扇情的で偏向報道は当たり前。事実確認などしないままのでっち上げ記事が多く、センセーショナルな話題で紙面を埋めて読者をつかむことを第一とする風潮にあった。いくつかの報道史を描いた文献を読むと、当時は通俗的で品位というものを重んじる姿勢が希薄だったと解釈するしかない。

ただし別の道を歩んでいた新聞もある。象徴は1851年創刊のニューヨーク・タイムズである。もともと高級紙という位置づけで発行されていたが、1896年にオーナーが変わると国際関係記事や経済記事をより強化して、イエロー・ジャーナリズムとは一線を画す姿勢を貫いた。


さてジョーゼフ・ピューリッツァー。彼は早くから危機感を抱いていた。イエロー・ジャーナリズムでは新聞の品格が上がるはずもない。

彼はコロンビア大学に世界初のジャーナリズム専攻のスクールを設立することを願い出る。大学側に多大な資金を提供することを約束した。

願いが叶ったのはジョーゼフが世を去った翌年、1912年のことになる。コロンビア大学にジャーナリズム大学院が誕生したのだった。これにより1917年のピューリッツァー賞へとつながっていく。

「ノブ クリーク」の新聞をモチーフとしたボトルを見つけたら思い出していただきたい。来年、ピューリッツアー賞は100周年を迎える。

(第43回了)

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