文学の評価とサロン的空間の可能性

岩下 弘史(いわした ひろふみ)

法政大学准教授
2018年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者

文学の評価とサロン的空間の可能性

岩下 弘史
Hirofumi Iwashita

文学の評価とサロン的空間の可能性

岩下 弘史 Hirofumi Iwashita

 文学の評価に個人的な好悪が関与することは避けられない。むしろそれが文学の美点であると捉える者もいるだろう。だがたとえばそうした評価が「賞」と結びつくとどうか。なるべく多くの人が納得する客観的な評価は可能だろうか。今回の堂島サロンにおける重里徹也氏による講演「日本文学の現在地」ならびにその後におこなわれた意見交換は、文学の評価や批評の可能性についてあらためて考えさせてくれるものであった。以下、その内容について簡潔にまとめたい。

 重里氏はまず日本文学が現在、特に英米で人気を博している点に注目する。その先駆けは村上春樹だが、2010年以降、英米で翻訳文学が広く読まれるようになったこともあり、日本文学の、特に女性作家の活躍が目立っている。近年では柚木麻子の『BUTTER』と王谷晶の『ババヤガの夜』が好例である。2025年、英国の推理作家協会賞であるダガー賞の翻訳部門はこの二作が争った。
 『BUTTER』は日本における「首都圏連続不審死事件」を題材にした作品である。英国でベストセラーとなり、4つの文学賞を受賞した。30か国以上で翻訳が決定しているという。いわゆるミステリー作品だが、食やルッキズムなどを焦点に、日本社会における女性の現状を鋭く描いた点も評価されている。
 実際にダガー賞を受賞したのは『ババヤガの夜』である。暴力を趣味とする主人公が、暴力団会長の令嬢のボディガードをすることになるという、バイオレンスを主題とした作品だが、女性主人公二人の心のつながりにも焦点が当てられている。その描写の巧みさにくわえ、切れ味のいい文章、過激な描写の迫力などもあいまって、高い評価を受けた。
 こうした海外での日本文学の躍進を受け、国外に市場を見出す動きは強まるだろう。そのメリットは大きい。日本文学が外部に開かれることは言うまでもなく、翻って国内とは異なった価値観や尺度で日本文学を見直すことにもつながるはずである。
 ただし、翻訳を推進するにあたり問題がないわけではない。世界に受け入れられるものが優れた文学であるという単純化が生じないか、翻訳しやすい小説が優先されないか、英米以外の言語圏が置き去りにされないか、海外の小説評価が全てではないのに、日本独自の評価軸がないがしろにされないか、など様々考えられる。
 今回、特に活発な議論がなされたのは最後の点をめぐってである。重里氏は、英語圏で高く評価された『BUTTER』と『ババヤガの夜』が日本の文学賞受賞を逃していることを強調した。『BUTTER』は直木賞の候補に、『ババヤガの夜』は日本推理作家協会賞の候補になったが、落選したのである。この点に関していえば、英米で高い評価を受ける村上春樹も芥川賞の候補になりながら、最終的に受賞を逃している。このように日本の文学賞に落選して、海外で高く評価されることは何を意味するのか。日本の評価基準と海外のそれが異なるのか。そもそも日本独自の評価基準などは存在するのか。日本の批評はいかに機能しているのか。

 講演後におこなわれた意見交換では、日本における文学の評価や批評が抱える構造的な問題とその背景を中心に活発な議論が展開された。まず前提として、現代において文学の批評が読める場所が限られているという問題がある。多くの読者の目にふれる場としては新聞の書評欄があるが、その役割は、読者への作品紹介であり、紙幅も限られているため、深い批判的な考察を展開するのは難しい。
 また、文芸雑誌に目を向けると、そもそも批評が掲載される割合は減っているし、作品に鋭く切り込む批評も少ない。これに関しては、狭い世界における論者同士の「内輪的な関係」のために、相互に褒め合う構造が生じやすく、批評の独立性が損なわれている可能性も出席者より指摘された。
 さらに、文学の批評をめぐるより大きな問題として、かつての「文壇」のようなサロン的空間が消失してしまったこともある。相互に規律を保ち、質を高める共同体が失われた現代では、互いに接点を持たない作家たちがばらばらに文学賞の受賞や売上の向上を主たる目的としているようにも見える。「文壇」の代わりに「文学業界」があるに過ぎないという見解も示された。
 こうした状況において重里氏が強調したのは、文学賞の選評が持つ重要性である。文学賞の選評では、例外的に厳しい批評がなされている。たとえば『BUTTER』に関して言えば、犯罪者の内面が描けていない、週刊誌記者や裁判、警察、検察にリアリティーがないといった批判がなされた。また『ババヤガの夜』についても、叙述トリックがうまくいっていない、登場人物の内面の変化に説得力がないといった批判がなされている。さらに、多くの文学賞においてこうした選評が公開されていることも重要である。それにより、ある程度の公平性が担保できるし、第三者が選考委員についての評価をくだすことも可能になる。
 ただし、こうした文学賞における批評にも限界がある。これらの賞の選考委員は、ほとんどの場合作家であり、同業者を選ぶことになる。そうなると、意識的ではないにせよ、たとえば選考委員に近いジャンルの作品が評価されづらいといった事態が生じる可能性も否定できない。現状は字数の制限もあって、そうした可能性を完全に払拭できるほど丁寧で客観的な見解がどれだけ示されているだろうか。「内面が描けていない」、「作家がはらわたをみせていない」、「登場人物から体臭がしない」などの批評が交わされることがある。いずれも興味深い観点で、ニュアンスは伝わってくるが、より精緻で説得力のある説明を知りたいという人も少なくないだろう。

 上記の議論を踏まえ、何よりも必要とされるのは、まずある程度の分量で批評ができる場だろう。それにくわえて、個人的な見解を反映しながらも、恣意的になりすぎない評価、批評が重要になる。後者は、芸術をめぐる根本的な問題であり、一夜にして解決される類のものではない。だが最後に、少なくともその可能性について、私の研究対象である夏目漱石の言葉も参考にしながら、見解を述べてみたい。
 重要になるのは、文壇に関する議論で示唆されていた、文学にかかわる人々の協働ではないだろうか。たとえば漱石は次のように述べている。「今の日本の文芸家は、時間からいっても、金銭からいっても、また精神からいっても、同類保存の途を講ずる余裕さえ持ち得ぬほどに貧弱なる孤立者またはイゴイストの寄合」であり、「自己の劃したる檻内に咆哮して、互に噛み合う術は心得ている」が「一歩でも檻外に向って社会的に同類全体の地位を高めようとは考えていない」(「文芸委員は何をするか」)。これに対し、現代の「文芸家」はもはや「互に噛み合う」ことはほとんどしない。それでも、業界全体で協働し「一歩でも檻外に向って社会的に同類全体の地位を高め」る取り組みが十分になされているようには思われない。だが文学が制度化してから長い年月が経過した現在、すでに多くの知見が蓄積されている。文芸家――実作者のみならず批評家や研究者も含む――がそれぞれの見識や技術を学び合うことで、文学とは何か、文学はどうあるべきか、といった根本的な問題に対する理解を深め、それを踏まえた客観的な文学の評価が可能になるのではないだろうか。
 たとえば今回も話題になった国ごとの文学の評価の違いという問題について、比較文学研究者の方法論を用いることは有益だろう。実際にオリジナルの作品と翻訳を細かく比較し、それぞれの国における評価についても検討することで、翻訳によって何が失われたのか、それが評価においてどう反映されているのかなどに関する知見を得られる。それは翻訳推進の方向性を考えることにもつながるはずである。
 さらに言えば、「文芸家」以外の知見も重要になる。たとえば漱石は留学中に「根本的に文学とは如何なるものぞ」という問いに突き当たった。そして「文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段」(『文学論』)だと認識し、文学以外の学問にも手を伸ばし、より多くの人が納得できる文学の定義を目指した。この精神は現代にも必要とされるはずである。
 もちろん、言うは易しで、実際にこうした場がどのように設定されるのか、それが実現したとして、本当に建設的な議論がなされるのかなどといった問題はある。だが、「文芸家」以外の方々も多く集まった今回の「堂島サロン」での議論がこうした場の可能性について希望を抱かせるものであったことは記しておきたい。

岩下 弘史(いわした ひろふみ)

法政大学准教授
2018年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者

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