保子 英之(ほし ひでゆき)
立命館大学専門研究員
2019年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者
保子 英之(ほし ひでゆき)
立命館大学専門研究員
2019年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者
「まなざし」についてのお話を伺う末席で、私は『ハドリー城』のスケッチのことを思い出していた。1814年、英国の画家ジョン・コンスタブルは、エセックスにあるハドリー城の遺構を訪れた。彼の「まなざし」でとらえられた風景は、1829年に油絵として完成され、いまではコンスタブルの代表作の一つとなっている。ロンドンのテート・ブリテンには、その構想として描かれたスケッチが展示されている。スケッチとはいってもほぼ完成品と言ってよい出来栄えである。ハドリー城は、重く黒く立ち込めた雲、海に向かう荒涼とした低地の遠景が作り出す陰うつな空気の中に、ほとんど崩れてしまって原型をとどめないものとして描かれている。一見すると悲しく、なんとも満たされず、私自身がその風景の中に置かれたならば、いますぐに逃げ出してしまいたくなるだろう。そんな寂寞とした風景は、コンスタブルのまなざしでとらえられることによって、なぜか私のこころを心地よさへと導くものとして完成されていた。コンスタブルは、「悲しい」風景の中に「美しさ」や「心地よさ」をとらえるまなざしを携えていた。そして、それをカンバスの上に描き出すことができる十分な力を持ち合わせていた。だからこそ、この魅力的な作品が生まれたのだ。逃げ出すどころか、その風景は私を惹きつけて離さなかった。私は毎週末のように足を運び、誰もいない展示室で、絵の目の前のベンチに腰掛けて、何十分もそれを眺め続けていた。
「悲しい」ものの中に、「美しさ」を見出すことができる。鑑賞者に多面的な見方を提供する可能にすることそのものが芸術の魅力である。複数の視点でとらえた対象を同一平面に描き出そうとするキュビズムの考え方や、コラージュの技法はわかりやすい例である。表現主義絵画では、目に見えるものだけではなく、人の内面や情動といった、目に見えないものに対してもまなざしを向け、それを一つのカンバスの上に描き出そうとした。こうした作品たちは、事物の見え方が決して一つではないことを私たちに教えてくれる。
今回の堂島サロンで、大阪大学教授の中野珠実先生にお話しいただいた「囚われの顔~見えない自己と他者のまなざし」というご演題の内容は、まさに事物の認識や評価における多面性に切り込む視点であった。
古来、自分自身の姿をとらえられるのは他者のまなざしだけだった。鏡やカメラがなければ、自身の顔や容姿は他者による認識の対象であり、とくに自分の目で直接見ることのできない顔や背中の様子は、他者のまなざしを経由することでしか認識することはできなかった。しかし、鏡の発見やその後の技術の発達は、自分の姿かたちを自分自身で見ることへのハードルを取り払った。それまで決してまなざしを向けられる先にはなかった自己像が、その対象となり始めたのである。これが、自己像の「対象化」を推し進めた。一度自己像が認識の対象となってしまうと、その対象化を止めることは難しい。他者像は警戒のシグナルとなる一方で、自己像の認識には報酬が伴う。それはさらなる自己の対象化を推し進め、主体となる自己(見る自己)と、対象となる自己(見られる自己)で構成された閉じたループでは、他者の存在は不在となる。本来、顔や容姿は他者との情報伝達の手段としての役割を持っていたはずが、次第にその役割は薄れ、自己の認識の対象、つまり「自分で見るための自分の顔」としての役割ばかりが強調される。そこでは、「本物の」他者による視点は欠如する。自己の顔をとらえるまなざしの変化は、SNSなどで散見される、自分の顔や容姿への不気味なほどのこだわりにも反映されている。中野珠実先生のご講演内容は、このようなものであった。
本来の自己は、周囲を取り巻く多くの人間や、社会によって構成される多面的な概念である。鏡で認識した自己像と、本物の他者からのまなざしで認識される自己像は必ずしも一致しない。しかも、他者は一人ではない。家族、友人、同僚、道行く人、それぞれのまなざしによって捕捉される自己像は、千差万別である。もちろん、鏡や眼には直接映ることのない自己の内面も、自己を構成する重要な要素である。自己から発せられるすべてのシグナルと、複数の他者・社会によるそれらの受容のされ方を総じて、自己という概念は構成される。他者のまなざしの内在化と、本物の他者からのまなざしの欠如は、自己概念を構成する軸を減らすことへとつながりかねない。講演後の議論の中で、中野先生は「自己=自己像になってしまう」という表現をされた。究極的には、自分が認識した「自己像」が自己そのもの、つまり、自己という概念が一軸的に自己像と同一視されてしまうかもしれない。これは大変にさみしい話である。まるで、「悲しい」だけの『ハドリー城』のようである。表紙しかない本のようでもあり、定点カメラから見た風景のようでもある。自己が、そんなふうに薄っぺらいものになっていく。
「鏡」といえば、『道徳感情論』(アダム・スミス)の中にも鏡の話が登場する。こんな話題が、出席者のひとりから提供された。アダム・スミスは、社会の中で生きることは、他者という鏡を見ることだと述べている。私たちは、鏡を使って自己像を観察するように、自己の行動や言動に対して他者がどのような判断を起こすかを注意深く観察することで、その適宜性を知ることができる。この点で、他者が「鏡」であるという。そして、この鏡が人の道徳観を醸成する基盤となっているという。例えば、他人が使う部屋の掃除をすることは「道徳的」かもしれないが、自分だけが使う部屋に落ちているゴミを拾っても、その行いが「道徳的」とはいえないだろう。たった一人で生きていれば、自己の行いについての道徳的な判断はできないし、道徳観も育たない。そもそも、道徳的価値そのものが存在しないかもしれない。掃除をしたことによって他者が喜んだり、感謝してくれたり、そんな他者の反応を見て初めて、その行いが道徳的であったことを知ることができる。つまり、他者は自身の行動の道徳的な適宜性を映す「鏡」である。
スミスは、美醜についての観念も同様に、他者という「鏡」の観察によって醸成されると述べている。中野先生は、「美しさ」の中に、生物的で人類普遍的なものと、文化依存のものがあると述べられた。同様の考え方は、私の専門とする「神経美学」の分野でも散見される。進化的に古い・生物的な美しさと、より高次な美しさの区分である。前者は、生理的な欲求や生存に紐づくものであり、顔、身体、容姿や住環境の「美しさ」はこれにあたる。このような「美しさ」の感覚は、人という生物であれば誰しも生まれながらにしてある程度持ち合わせているだろう。一方で、後者は社会的、内発的な報酬に紐づくもので、文化や学習によって形成される。芸術一般に対する「美しさ」はこれにあたり、ほかにも「数式」や、人の「行い」の美しさなどは、後者に含まれると考えられている。後者の「美しさ」への感覚は、他者という「鏡」を持たなければ醸成されない。SNSなどで散見されるような、私たちの美醜感覚を逸した自己像の加工は、カメラという本物の「鏡」を得た人間が、自己対象化のループに陥り、本物の他者という「鏡」を失ってしまった結果ではないだろうかと想像してしまう。美醜感覚は時代によって移り変わるものであり、SNSで表現される「美しさ」が悪いことだとは決して思わない。ただ、カメラという「鏡」によって醸成される一面的な美醜感覚には、どこかに寂しさを感じる。
自己像を直接的に観察できることが、必ずしもその正確な把握につながるとは限らない。東京科学大学教授の伊藤亜紗さんは、著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』の中で、晴眼者と全盲の方の空間認識のまなざしの違いを示されている。晴眼者では、どうしてもいま見えている視覚情報が先に来るため、いま自分がいる空間や見えている事物を、現在の視点からとらえた2次元的なものとしてイメージしやすい。その一方で、見えない方にとっては、視覚的な情報がないため、現在の視点に縛られることはない。ランドマークや事物の特徴といった概念的な情報から、空間や事物を頭の中で立体的に構成してイメージするという。例えば富士山をイメージするときに、晴眼者は「上が欠けた三角形」(2次元)を、全盲の方は「上が欠けた円錐形」(3次元)をイメージするという。情報が少ない全盲の方が持つイメージが、晴眼者のもつイメージよりもよりリッチであることは大変興味深い。これは、私たちが視覚情報から得られた事物の一側面をどうしても強調して認識してしまうバイアスがあることをわかりやすく示している。視覚情報を使うことが「できてしまう」晴眼者のように、自己像を視覚的にとらえる手段を「得てしまった」私たちは、それによって、自己を一面的にしかとらえることができなくなっているのかもしれない。
自己は、鏡やレンズひとつで捉えられるものではない。体の中の見えないところでは心臓が力強く脈打ち、体液がしみわたり、電気信号が駆け巡っている。その身体は、絶え間なく外界を知覚し、認識し、感情の機微を持ち続ける。身体から流れ出した情報は他者に受容され、他者の中に自己が再構成される。他者に受容される数だけ、新たな自己が他者の中に生まれ、それらはすべて異なっている。中野先生のご講演は、このような自己(人間)の多面性、有機性を私に思い起こさせてくれるものであった。鏡を手にしたからと言って、自己像しか愛することのできなくなったナルキッソスのように、それにのめりこんでしまうことのないように生きていきたいものである。
保子 英之(ほし ひでゆき)
立命館大学専門研究員
2019年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者