ヨーロッパ中心主義を揺さぶる

上野 正弥(うえの まさや)

神戸市外国語大学外国語学部中国学科准教授
2014年度 鳥井フェロー

ヨーロッパ中心主義を揺さぶる

上野 正弥
Masaya Ueno

ヨーロッパ中心主義を揺さぶる

上野 正弥 Masaya Ueno

 「中国の台頭」が語られるようになって久しい。大国となった中国にいかに向き合い、いかに理解すべきなのかが問われるようになっている。私自身、大学において現代中国に関する講義を担当し、研究に従事する者として、日本社会の中国理解にささやかながら寄与しようとしているが、中国をいかに捉え、それをいかに伝えるべきかという問題は、私のような浅学にはなかなか答えを出せないものであり、日々試行錯誤している。
 そんななか、岡本隆司氏が「世界史/日本史と東洋史」という題目で歴史学や歴史教育の諸課題について語るという堂島サロンに参加する機会を頂いた。岡本氏は、中国研究やアジア史、歴史学に携わる者なら知らぬ者はいない存在である。貴重な議論を拝聴できるに違いないと思い、喜び勇んで会場に足を運んだ。ご報告および出席者による議論は2時間近くに及んだ。特に議論では、歴史学の領域を大きく超えて、縦横無尽な議論が展開された。以下では、まず岡本氏の報告の内容をまとめ、次に議論の様子を記すとともに私の感想を述べる。

 日本の教育課程では、高等学校までは、世界史と日本史という枠組みで歴史を学ぶ。ここでいう世界史とは、畢竟、西ヨーロッパ発祥の歴史、西ヨーロッパの視点から見た世界の歴史である。一方、日本史は、当然に日本の歴史を学ぶものであるが、日本が古代から経済的・文化的交流を持ち、明治以降には勢力を広げていこうとした東アジア(中国、朝鮮半島、台湾)の歴史についてもいくらか学ぶ科目である。近年、高等学校の教育課程の改定にともない、歴史の科目は世界史Bまたは日本史Bという枠組みから、歴史総合を経て世界史探求または日本史探求へと進むというものに変更された。歴史総合では近現代史を中心に世界史と日本史を総合して学び、そのうえで世界史、日本史それぞれの探求へと進むという建てつけである。こう言うと聞こえはいいが、これは日本の歴史学や歴史教育が長く抱えてきた問題を解決できるものではないと、岡本氏の評価は厳しい。氏によれば、新しい教育課程においても、世界史/日本史の「共犯関係」は変わらない。ここでいう共犯関係とは、科目としての世界史も日本史も、西ヨーロッパと日本の間に存在するアジアの歴史を、西ヨーロッパ由来の歴史学の視点や概念に依拠して描いてきたために、アジアをアジアの論理で理解することを妨げてきた点を指している。一方で、アジアの歴史を探求する学問として、日本の学界には東洋史学という分野が存在するが、これとて一定の限界を抱えるものである。
 東洋史という学問領域の成立は、明治末年頃にさかのぼる。明治の文明開化の中で様々な学問が西ヨーロッパから伝来するが、歴史学もその1つであった。当時は万国史と呼ばれていた世界史が日本に入ってきたが、これは西洋人が西洋の視点から見た歴史、結局のところ西洋史であり、アジアの歴史は扱われていなかった。そこで東洋史の必要性が提起され、東洋史が誕生したが、当然のことながら、当初は東洋史の専門家が存在しなかった。そこで、西洋史を研究してきた者が東洋史研究に鞍替えしたりすることで、その担い手が生まれた。このような経緯が示すのは、明治以来の東洋史は、西洋由来の歴史学やそこで使われる概念から深く影響を受けるかたちで成立し、展開していったということである。東洋史研究は、西洋由来の概念や術語から自由ではなく、中国史における時代区分をめぐって激しい論争が展開された時期もあった。こうした研究や議論の仕方は、果たしてアジアや中国の歴史や社会の動態的変化を捉えるうえで的確なものであったのだろうか。
 その一方で、日本史研究は、西洋由来の歴史学で使われている時代区分法や概念が、幸か不幸か、違和感なくフィットしてきた。日本史は中国史と異なり、古代、中世、近世、近代という時代区分がうまい具合に当てはまり、立憲政治や民主主義といった西洋由来の概念を用いてもほとんど無理なく論述することができる。日本の史実が、西洋史の概念と同じ論理で理解できてしまったために、多くの日本人は、他の国・地域の歴史もまた西洋由来の概念で把握できるものだと考えてしまっているのではないか。
 中国やアジアがたどってきた歴史が当地の論理に基づいて分析されてこなかったことを論じたうえで、岡本氏はさらに、戦後日本の東洋史研究や歴史教育の課題について語った。東洋史は江戸時代の漢学をベースにしていたため、漢文の素養を持つ明治期の東洋史学者はその読解に長け、中国側の資料や文献をそつなく読みこなせていた。また、戦前・戦中の日本は、大陸進出や植民地経営の必要もあったために、いわゆる支那通が多く存在した。漢学の余沢があるなかで、中国事情に精通した人材が豊富に存在していたが、戦後日本の学知(教育課程)では、洋学が偏重され、漢学はみるみるうちに廃れていった。中国思想史研究の権威である島田虔次が1965年の著作『中国革命の先駆者たち』において、「ヨーロッパやアメリカの事象にくらべて、近代中国のそれがあまりに知られなさすぎる」という「不健全な事態」が生じていると記したことは、その状況を端的に物語っている。この「不健全な事態」は、世界史/日本史の「共犯関係」も手伝って、悪化の一途をたどっていると言える。
 近年の世界史の教科書では、ユーラシア史と呼ばれる領域の記述が増えてはいる。しかし、その記述の中で使われている概念のほとんどは、依然として西洋製のものである。非西洋地域の歴史を論理立てて説明するには、西洋製の概念だけでは足りないだろう。中国の大国化やアジアの台頭が言われ、中国を正しく理解する必要性が高まる今日において、中国のことを中国のロジックに即して考えるということが必要なのではないか。歴史学や歴史教育においては、「世界史/日本史」の枠組みの下で硬直化してしまっている思考の転換が迫られていることが、ご報告から示唆された。

 以上のような問題提起が岡本氏からなされた後、出席者による議論がなされた。実に多様な切り口からの議論がなされたが、論点の1つとなったのは、ヨーロッパ由来の概念でアジアの歴史が語られてきたことについてであった。歴史学に限らず、哲学や思想史などの分野においても、ヨーロッパ由来の概念に引きずられすぎた研究や議論がなされてきた。ある出席者は、日本語で歴史と呼んでいる概念と、historyやドイツ語のGeschichte(ゲシヒテ)との間には本当はズレがあるのではないかと述べ、仮に違いがあるのであれば、日本や東洋の側から歴史という概念を捉えなおし、それを世界に発信してみてはどうかと提起した。この議論はさらに展開し、近代以降、ヨーロッパがさまざまな概念や価値観を上から普遍化してきた実態をいかに乗りこえるかという点に話が及んだ。あらゆる学問領域において、これまでヨーロッパ中心主義に対する批判が散々なされてきた。しかし、それに対するオルタナティブが出されたとは言い難い。この問題に対し、ある出席者は、非西洋世界各地のindigenousな概念(地域固有の概念)を鍛え直し、それを特殊なものとして理解するのではなく、普遍化の中で広げていくことを提起した。そのような作業を通じて、これまでの現状に地殻変動を起こして、ヨーロッパ中心主義に揺さぶりをかけ、非西洋の側から新たな普遍化を試みていくべきであるという提案であった。
 ヨーロッパ由来の概念の転換が議論される一方で、研究をするためには概念は必要不可欠なものであるという意見も出された。確かにわれわれは、何らかの概念や分析枠組みに依拠しながら、比較分析や科学的な分析、検証を行っている。私自身、中国政府の宗教政策を研究しているが、その際に政治学などで使われる「政教関係」などの概念を使って考察を試みることもあるし、同分野の先行研究でもそれに基づいた議論がなされている。そうした研究は、確かに中国の宗教政策や、中国における国家と宗教の関係の一面を明らかにしてくれる。ただ一方で、国家と宗教の関係がキリスト教世界とは異なる道をたどってきた中国の「政教関係」を、ヨーロッパ由来の概念のみで包括的に説明することはできないことも事実である。さらに言えば、「宗教」という言葉、概念自体がヨーロッパ由来である。ヨーロッパ由来の概念では「宗教」として括られる仏教、イスラーム、キリスト教などと中国の政治権力は、歴史的にどのような関係を取り結んできたのか。そういった点を明らかにしたうえで、中国の「政教関係」を中国の論理に基づいて解明していくことの意義を、今回の議論を拝聴して改めて考えた。私の仕事がヨーロッパ中心主義を揺さぶることにまでなるかは不明であるが、中国研究者の端くれとして、中国を中国の論理で説明することの意義を銘記して、思索を重ねていきたい。

上野 正弥(うえの まさや)

神戸市外国語大学外国語学部中国学科准教授
2014年度 鳥井フェロー

サロン報告レポート 一覧