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研究助成

成果報告

外国人若手研究者による社会と文化に関する個人研究助成(サントリーフェローシップ)

2024年度

近世長崎における来舶清人の絵画制作及びその南画への影響

総合研究大学院大学文化科学研究科 博士後期課程
王 紫沁

 鎖国期において、日本と中国との文物の流通は、主として貿易都市・長崎を窓口としていた。それと同時に、人的交流の面でも、海商を主体とする書画作品の輸入にとどまらず、制作・鑑賞・贈答といった多様な文化実践も行われていた。
 海商に限らず、清代に長崎へ渡航して短期滞在した中国人は「来舶清人」あるいは「清客」と呼ばれた。本研究は、こうした「来舶清人」による絵画制作を中心的な対象としてきた。
 「来舶清人」の身分は多岐にわたる。沈南蘋のように、招請に応じて来日したと推測される職業画家もあれば、太平天国の乱を避けて逃れてきた文人たちも含まれる。人数の上で多数を占める貿易従事者のうち、船主や財副(会計役)といった管理者層は貿易関係史料に名を残しており、その経歴を比較的たどりやすい。加えて、長年にわたり複数回来日した者が多かったことも一因であろうか、現時点で「来舶清人画家」として確認しうる者の大半は海商である。
 来舶清人が近世日本絵画に及ぼした影響に目を向けると、特例というべき沈南蘋と南蘋風絵画はさておき、伊孚九や江稼圃などの海商画家は、主として南画家と交流を重ね、あるいは私淑されていた。本研究はこれまで、南画への影響について研究を重ねてきた。しかし、本年度の研究活動を通じて、海商画家と南画家との交流は、来舶清人の書画活動の一側面にすぎないことがわかった。
 本年度は主として張莘と張崑の絵画について研究に取り組んだ。
 張崑(字は秋谷、杭州の人)には、天明年間に海商として長崎に渡来した記録があり、南画家・春木南湖と直接交流していた点は注目に値する。その作品には竹、蘭、山水など、簡略な水墨画が多い。
 一方、張莘(1744−1817以降、字は秋穀、杭州の人)は、繊細かつ巧緻な花卉画を手がけ、その作品は日本にも数多くもたらされた。様式としては惲寿平派に連なるが、画面構成の「型」が比較的単一であることから、商品画を量産する専業画家として位置づけられる。日本では、渡辺崋山・椿椿山およびその門人によって学ばれた。
 張崑と張莘については、字の「秋谷」と「秋穀」が酷似することから、両者を同一人物とみなす「同人説」が江戸時代後期に現れた。戦後の研究では両者を同一人物とする見方が有力視されてきたが、なお議論の余地が残されている。
 まず、張莘に関する文献記録を出版年代順に並べてみると、「同人説」の初出は『墨林今話』(1852年初刊)にある。しかしその記述には、張莘の名が初めて現れた『墨香居画識』(1788年初刊)と矛盾する箇所が見られ、必ずしも信憑性が高いとはいえない。
 他方、張莘と張崑の現存作品には贋筆が多く含まれており、両者の画風を比較するには、その基準作となる真筆を洗い出す作業が必要となるが、難易度が高い。とはいえ、張莘の絵画は量産的に制作されたため、款識における印章の組み合わせは比較的固定している。本研究では、同じ印章を有する一定数の作品群を信頼しうる基準作と仮定し、それらの款識部分の書風を比較した。その結果、署名の書風には一定の一致が認められたものの、そこに共通して見られるいくつかの特徴は、張崑の落款には揃って現れていない。比較対象とした張崑の款識には贋筆が含まれる可能性を考慮してもなお、張莘と張崑の款識が同一人物に帰せられる可能性は低いとの結論に至った。
 もっとも、本研究は両者が同一人物か否かを判別して完結するものではない。張莘は張崑とは別人であり、海商ではないものの、来日した可能性が高い。また、その花卉画は、日本の需要に向けて大量に制作されていた可能性がある。さらに、張莘の弟子・顧洛(1763−1837以降)、および彼と親交のあった奚岡(1746−1803)についても来日を伝える記載がある。すなわち、杭州の文芸圏と日本との結びつきは、現在把握されている以上に密接であった可能性がある。
 本年度の研究では、来舶清人による作品制作以外の書画活動についても史料を収集したが、その整理はなお途上にある。そのなかには、海商が書画の売買を仲介する事例や、日本人に絵画を注文した事例などが見出される。さらに彼らは、日中の文人間の文通を取り次ぐ役割をも担っていた。すなわち長崎貿易は、日本・中国それぞれの文人・画人が相互に交流するための回路を提供していたのである。
 これまで確認されてきた史料は、主に長崎―蘇州間の事例であった。これに対し張莘の例は、長崎―杭州間の交流を示すものとして位置づけられるかもしれない。なお、こうした交流においては、利を求めない文人的な雅交と、張莘の花卉画制作に見られるような営利的な営みとが併存していたと考えられる。
 今後は、中国側の史料も視野に入れつつ、長崎貿易を背景とする日中美術交流の多様な事例をさらに掘り起こしていきたい。来舶清人という存在を通して、近世日中美術交流史の知られざる豊かな諸相を提示することが本研究の目指すところである。

2026年5月
※現職:国際日本文化研究センター研究部 博士研究員