成果報告
2024年度
大日本帝国における官僚体系―樺太庁官僚の人事の分析から―
- 名古屋大学大学院人文学研究科 博士後期課程
- 水野 善斗
◆研究の動機、意義、目的
本研究は、植民地官僚のうち、樺太に置かれた植民地官庁である樺太庁に勤務した官僚の人事を分析することを通じて、大日本帝国の官僚体系を考究するものである。大日本帝国は、植民地での勤務を専門とするキャリア官僚の養成を行わなかった。この点は、大英帝国などの他の植民地帝国と異なる特徴であった。そのためこの特徴に注目することで、日本近現代史研究が取り組んできた「大日本帝国とは何だったのか」という問いに対して、近代の植民地帝国という世界史的視座から接近できるのではないかと考えた。
大日本帝国の植民地に関する研究では、他民族の抑圧・支配に対する関心が強く、台湾・朝鮮に関する研究が特に進展している。本研究が扱う植民地官僚についても、台湾・朝鮮両総督府の官僚の研究が先行しており、彼らが大日本帝国の他民族支配をいかに支えたのかが論じられてきた。しかし、前述したような大日本帝国における官僚体系の特徴に注目すると、彼らの特異性が立ち現れる。その特異性とは、両総督府は一万人を超える大規模官庁であったため、官僚は各官庁の内部において異動し続け、その地に定着する傾向にあったことである。つまり、本国と植民地の境が曖昧な官僚体系に目を向けたとき、両総督府の官僚はこの構造的特徴からややはずれた存在だったと見なせよう。
そこで本研究では、関東州の研究でこの点を考慮して取り組まれた、本国・植民地間の人事交流を重視する分析視角と、行政学で中長期的な広い視野から人事の検討を行う組織分析の手法として創出されたキャリアパス分析に着目した。この際、次に述べる3点を主たる理由として、とりわけ樺太庁の官僚を分析対象とすることとした。まず、①樺太庁が関東州に置かれた植民地官庁と同様に小規模な植民地官庁であったことから、本国との人事交流の必要性が高かった点、さらに②関東州の研究でも本国との間での人事交流が樺太庁において特に盛んであった様子が示唆されている点、また③樺太という植民地自体が植民地の中で唯一本国への編入が1943年に実現されており、最も本国的な植民地であったと言える点にある。このような点から、関東州の植民地官庁よりも樺太庁の方が本研究との親和性が高いと考えた。さらに助成2年目は、1年目の分析を踏まえて、本国官庁の中でも主に内務省との人事交流に注目した。これは、本国官庁の中でも内務省との間において人事的関係性が特に密な傾向が看取されたからである。今まで等閑視されてきた樺太庁の官僚に焦点を当てることによって、大日本帝国の植民地帝国としての構造に関する新たな知見を得ることができるはずである。
本研究は第一に、日本近現代史研究に資するものである。加えて、大日本帝国が近代の植民地帝国の一種であったことから、他の植民地帝国を含めた近現代史研究に広く貢献できるものであると考える。
◆研究で得られた知見・研究成果
樺太庁上層部の分析を行ったところ、次のような知見を得ることができた。
例えば、樺太庁長官に関して、内務省出身者か否かに注目してキャリアパスを分析したところ、他の植民地官庁の総督・長官と比べて突出して内務省出身者の任官の割合が高いことが分かった。ただし他の植民地官庁では、トップが武官専任とされた時期が基本的に樺太庁よりも長い。そのため、文官の総督・長官のみに限定したところ、台湾総督も同程度の割合を示した。任官以前に本国において知事職を経験している割合も、台湾総督及び樺太庁長官が他と比べて突出していた。そこで、樺太庁と地理的に近い北海道・東北諸県の知事との比較を行ったところ、台湾総督・樺太庁長官と同程度の比率が算出された。このような結果は、大日本帝国の官僚体系を読み解く上で、内務省の官僚に注目する必要性の高さを示すものと考えている。
また、同じく樺太庁の上層部である部長職のキャリアパスを分析したところ、やはり内務省出身者の割合が高かった。ただし細かく見ると、1930年代中頃から一時的に内務省出身者以外が就任するようになっており、その後、本国に編入された1943年以降になると再び内務省出身者の部長職への任官が増えていた。事例が少ないため質的分析を深める必要があるが、植民地帝国における植民地の本国編入という大変革が、その官僚体系にも及んでいた現れではないかと思われる。
◆今後の課題・見通し
本研究を通じて、内務省と樺太庁との関係性に着目すべきだとよりいっそう考えるようになった。そこで現在、内務省出身者であり樺太庁への異動経験を持つ人物の私文書の調査・分析を進めている。助成2年目に新たに入手した樺太庁作成の『樺太庁職員録』の情報を、これまで作成してきた人事データに加えつつ、さらに分析の精度を高めていく。そして成果を、個別論文として公表していき、最終的には博士論文としてまとめ上げたい。
2026年5月




